封印された斉藤恒参謀長と内田五郎領事の現場報告
張作霖爆殺事件の現場検証をした関東軍参謀長斎藤恒(ひさし)は、参謀本部に対してこのような所見を提出していた。
爆薬の装置位置に関しては、各種の見解ありて的確なる慿拠(ひょうきょ)なきも、破壊せし車両及鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること略推測に難しとせず。
殊に六十瓩(キロ)内外の爆薬の容積は前記の如く僅かに〇.五立方米なるを以てこれが装置は比較的容易なればなり。
加藤康男著『謎解き「張作霖爆殺事件」』PHP新書 p.206
と、斉藤は爆薬の設置位置は、満鉄の橋脚上部付近か列車自体に装置されたものと推測できると記している。この結論は、前回記事で紹介した英国の調査内容と全く同じである。
さらに斉藤は、現場付近を一般列車は時速約二〇マイル(約三二㌔/時)で通行するところを、推定時速一〇㌔程度にまで減速させた理由について次のように書いている。
何故かくも速度を落し且つ皇姑屯にも停車せざりしや、その理由に苦しむものにしてこの点を甚だしく疑問とせざるべからざる。
すなわち内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制御を行いし者ありしに非ずや。(列車内中間、もしくは後部にて弁紐を引けば容易に非常制動行はる。)
緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものにて非ずや。
前記の如く薬量の装置地点は、橋脚上部か又は列車内と判定せるを以て、陸橋上部とせばその位置に張作霖座乗車来る際、時を見計らひ爆破せるものに非ずや。列車内より橋脚上部の爆薬を爆破せむと欲せば、列車内に小爆薬を装置し、これを爆破し逓伝(ていでん)爆破に依りて行へば容易なり。
同上書 p.208
と、列車の内部に協力者がいたことと、爆薬は車両内部にあり、それを爆破させることにより橋脚上部に設置した爆薬を連鎖爆発させた可能性を示唆している。そのためには、列車はよほどゆっくり走らなければならなかったはずだ。
前回の記事で書いた通り、この斉藤の報告書はなぜか軍上層部に無視されて、斉藤は事件の二ヶ月後に関東軍参謀長を罷免されてしまった。
このような記録を残したのは斉藤だけではなかった。奉天の内田五郎領事が首相兼外務大臣田中義一に宛てた昭和三年六月二十一日付の報告書には、
調査の結果被害の状況程度より推し相当多量の爆薬を使用し、電気仕掛にて爆発せしめたるものなるべく。爆薬は橋上地下又は地面に装置したものとは思はれず、又側面又は橋上より投擲したるものとも認め得ず、結局爆薬は第八十号展望車後方部ないし食堂車前部附近の車内上部か又は(ロ)橋脚鉄桁と石崖との空隙箇所に装置せるものと認められたり。
外部より各車輛の位置を知ることすこぶる困難にかかわらず、爆発がほとんどその目標車両を外れざりし事実より推察し本件は列車の編成に常に注意し、能く之を知れるものと認められる点は本件真相を知る有力なる論拠たるべしと思考せられたり。右に対し支那側は爆発装置箇所に付いては明確なる意思表示を避けたり。
同上書 p.217~218
と書かれている。
この内田五郎の報告書も現場の状況からすれば当然の内容だと思うのだが、これも斎藤恒の報告書と同様に軍上層部で葬り去られたようなのである。そしていずれの報告書も、「昭和史研究家」と称する多くの人々が言及しないのはなぜだろうか。
この理由は簡単である。この資料の正当性を認めてしまえば関東軍主犯説が瓦解し、昭和史が全面的に書き換えられるきっかけともなり得るからである。そして、現状ではわが国の「昭和史研究家」の大半は、連合国やコミンテルンにとって有利な歴史叙述を変えたくない人たちなのである。
張学良とコミンテルン
では、そもそも誰がどのような目的で張作霖を暗殺したのであろうか、
張作霖が乘っていた京奉線の管理責任は支那にあり、大元帥・張作霖の乗る電車の路線付近は厳重に警備されていて、怪しい者が近づくことは困難であったはずなのだ。にもかかわらず、大量の火薬が持ち込まれてセットされたということは、支那側に暗殺を計画していたグループがあり彼らにその付近の警備を任されていて、それに関東軍も関与していたということになる。
張作霖長男の張学良は父の配下で蒋介石率いる北伐軍の北上阻止に当たっていたのだが、実は彼は国民党と内通していた。そして、父親が爆殺された事件の四日後の一九二八年六月八日に、国民革命軍が北京に入城して北伐が完了したのである。
加藤康男氏は前掲書で、次のように記している。
張学良の一連の行動を考えるとき常につきまとうのが、彼の背後にうかがえるコミンテルンの影である。
この時期になると、激越な排日学生運動と労農運動、民族主義運動などをうまく利用したコミンテルンの指導が、国民政府内部から奉天派内までゆき渡っていた。
それは中国の共産革命を支援するためコミンテルン政治工作に伴うもので、国民政府軍の中に浸透していた学生共産党員の数は相当数だったといわれる。
彼らは国民政府軍の内部に潜入し、兵や民衆を扇動して日本人居留民などを襲った。
蒋介石の北伐開始に寄り添う形で発生した南京事件(昭和二年三月)や済南事件(昭和三年五月)はその代表例であろう。
いずれも目を覆いたくなるほどの残虐非道な暴行や強奪行為が在留邦人に対して行われた事件であり、共産党によって引き金が引かれたことは疑いない。…中略…
国民政府軍内にはコミンテルンによって組織された分子が混入し、折を見ては日中を衝突させ、動乱から戦争へと発展させるべく画策していたわけだ。
蒋介石自身は国家統一の大目標のためには、共産党員逮捕もやるがソ連とも中国共産党とも決定的な絶縁を避けてやり過ごしていた。選択肢を常に残すやり方だ。そこにコミンテルンの付け入る隙が生まれる。ソ連の戦略が優位になる。
同上書 p.158~159
張作霖は北京城に入って、反スターリン・反蒋介石の旗を掲げて戦っていたのだが爆殺され、その半年後の奉天には、長男の手によって国民政府の青天白日満地紅旗と赤旗が掲げられたのである。また張学良は一九三六年に蒋介石を軟禁し、身柄の解放と引き換えに国民党による共産党掃討作戦を中止させ第二次国共合作への道を開いた(西安事件)のだが、これらの事実から張学良とコミンテルンとの結びつきはかなり強かったと考えられるのだ。その張学良に関東軍の一部のメンバーが協力したということは、関東軍の中にコミンテルンに繋がる人物がいてもおかしくないのだ。
以上のような背景から、張作霖爆殺事件には張学良が一枚噛んでいたのではないかという説があるのだが、のちに張学良が父親を爆殺した犯人を処刑したことが報じられていることを考えると、その可能性は高そうだ。
では、コミンテルンはなぜ張作霖の暗殺を計画したのか。加藤康男氏によると、
その当時、ソ連政府は張作霖との間で鉄道条約を結んでいたが、両者の間で激しい抗争が進むにつれて破局が訪れた。
反共産主義を前面に押し出す張作霖側は、ロシアが建設した中東鉄道(旧東清鉄道)を威嚇射撃したり、鉄道関係者を逮捕したりしたため、遂にOGPU*は張作霖の暗殺計画を実行に移す決定を下した。
その指令は極東における破壊工作の実力者と言われていたサルヌインに降り、サルヌインは実行計画を立案する。
同上書 p.125
*OGPU(オーゲーペーウー):統合国家政治保安部
第一次暗殺計画は一九二六年に計画され実行に移されたのだが、東清鉄道の終着駅の近くで爆発物を発見され、工作員が逮捕されて失敗に終わってしまう。その後一九二七年四月に、張作霖が北京のソ連大使館捜査と関係者の大量逮捕を行ったことから、コミンテルンは一九二八年初頭に第二次の張作霖暗殺指令を出し、今度は張学良と関東軍を巻き込むことによって張作霖を爆殺することに成功したということになる。
しかしながら、前述した通り張学良は二名の部下を父親爆殺の犯人として処刑したことが報じられている。なぜ、関東軍による犯行と認識させることに成功したにもかかわらず、張学良は父暗殺の実行犯として楊宇霆(よううてい)、常蔭槐(じょういんかい)の二名を処刑したのであろうか。
その点について加藤康男氏は前掲書でこう述べている。
奉天へ帰った楊宇霆は、何食わぬ顔で易幟*に反対してみせ、学良とは距離があるかのように振る舞っていた。
常蔭槐は特別列車に先行する列車で奉天へ帰ったあと、事件後は黒竜江省主席の地位に就いた。
一九二九(昭和四)年一月十日夜、奉天まで彼らが祝い酒にやって来る機会を張学良はじっと待っていたかもしれない。
あるいは、楊宇霆が秘密を守る立場を利用し、自分の配下を次々と要職に就けるよう要求するのに耐えられなかった側面もあろう。その場合、張作相**が暗殺を後押しした可能性もあると、イギリスの公文書「張作霖暗殺に関するメモ」の中で、C.J.デービッドソンは報告している(一九二九年三月十九日)。
張学良が親交の深かった楊宇霆、と常蔭槐の二人を射殺しなければならなかった理由はもはや明らかである。
証拠を抹殺しなければ、学良の未来は約束されないからだ。
*易幟(えきし):張作霖爆殺事件ののち張学良が、北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石率いる国民政府の旗である青天白日満地紅旗に旗を換え、国民政府に降伏した事件。
同上書 p.200~201
**張作相(ちょうさくそう):張作霖の側近で、張作霖爆殺事件後張学良を擁立し、東北辺防軍副司令長官兼吉林省政府主席に任じられた。
ロシアの『GRU百科事典』に張作霖爆殺事件はどう記載されているか
加藤康男氏がモスクワの書店で見つけられた『GRU*百科事典(2008年刊)』という書物に張作霖爆殺事件のことが書かれており、その内容が前掲の著書の最後に紹介されている。
*GRU:旧ソ連赤軍参謀本部情報総局
フリストフォル・サルヌイニの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。
張作霖は一九二七年以降も明確に反ソ・親日政策を実行していた。ソ連官吏に対する絶え間ない挑発行為のため、東清鉄道の運営はおびやかされていた。
将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行われることが決定されたのである。
そのためにサルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。…中略…
一九二八年六月四日、張作霖は北京-ハルビン(引用者注・正しくは奉天)間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見通り日本の特殊部隊に着せられた。
情報局内部ではリスクを回避すべくサルヌイニをモスクワにいったく呼び戻したが、それも短期間のことであった。(『GRU百科事典』p.225)
同上書 p.242~243
とあり、見事に関東軍の仕業であることを日本に認めさせたことが記されているのである。ロシアでは最新の研究成果を踏まえたうえで、「GRU百科事典」にこのように記されていることを、日本人はもっと知るべきではないだろうか。
張作霖爆殺事件にかぎらず、「昭和の歴史」には同様な嘘が少なからずあるのだと思う。コミンテルンが多くの紛争に関与して世界の共産主義化を画策したのだが、歴史叙述の中ではそのことには触れられず、日本が悪者にされていることが多いことに疑念を持つことも必要だと思う。
こういう議論をするとすぐに、「陰謀論」とのレッテルが貼られてしまいそうなのだが、ロシアやイギリスから出てきた史料や論文を採り上げないことは研究者のスタンスとしてはおかしなことだと思う。これでは、いつまでたっても歴史の真相は明らかにならず、戦勝国やコミンテルン側に都合の良い歴史観の中で、堂々巡りの議論を繰り返すことになるだけだ。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓
【ブログ内検索】
大手の検索サイトでは、このブログの記事の多くは検索順位が上がらないようにされているようです。過去記事を探す場合は、この検索ボックスにキーワードを入れて検索ください。
前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。長い間在庫を切らして皆様にご迷惑をおかけしましたが、このたび増刷が完了しました。
全国どこの書店でもお取り寄せが可能ですし、ネットでも購入ができます(\1,650)。
電子書籍はKindle、楽天Koboより購入が可能です(\1,155)。
またKindle Unlimited会員の方は、読み放題(無料)で読むことができます。
内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
コメント