竹生島と弁財天信仰
琵琶湖の北に竹生島という小さな島がある。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きさの島なのだが、周囲は2km、面積は0.14㎢しかないという。その島に西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社がある。宝厳寺は厳島神社、江島神社とともに日本三大弁財天に数えられている。
弁財天というのは仏教の守護神の一つであり、音楽・弁才・財福・知恵の徳がある女神であるが、宝厳寺のホームページには、聖武天皇の命により神亀元年 (724年)に行基が竹生島を訪れ、弁財天を祀ったのが起源と記されている。しかしながら、承平元年(931年)に成立した『竹生島縁起』には、行基の来島は天平十年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりだと書かれているようだ。同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して安置したと記されており、創立に関しては「弁財天」の名はどこにも記されていない。
当初この寺は本業寺(ほんごうじ)と称し、のちに竹生島大神宮寺と呼ばれて東大寺の支配下に入ったのだが、平安時代前期10世紀頃から比叡山延暦寺の傘下に入り、それ以降この島は天台宗の僧の修行の場となったという。
宝厳寺の隣の都久夫須麻神社は延喜式神名帳に記載があり、浅井氏の氏神とされる浅井姫命を祭神とする神社であったのだが、浅井姫命は湖水を支配する水の神ともいわれることから、平安時代末期頃にはこの神は、仏教の水の神である弁才天と同一視されるようになっていき、神仏習合が進んで都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化して、寺と神社の区別が無くなっていったと考えられている。
佐々木孝正氏の『竹生島における神仏分離について』という論文にはこう解説されている。
竹生島弁財天は、応永二十二年撰述の『竹生島縁起』に、延暦七年(788)、最澄が比叡山の仏教守護のため祀ったのにはじまると伝えるが、確かな文献上の初見は、『江談抄』*に『島主弁財天』とみえるのがそれである。十二世紀初頭には、浅井姫命にかわり弁財天が島主であると語られるに至るのであり、両者の習合がすすんでいたことを示している。おそらく十一世紀までには、竹生島の住僧により、弁財天が浅井姫命の本地として唱え出されたものであろう。
(佐々木孝正『竹生島における神仏分離について』大谷學報 第55巻第2号)
*『江談抄』:平安時代(院政期)の説話集。長治から嘉承にかけて(1104~1108年)成立したと考えられている。
こうして竹生島は観音と弁天の島として栄えるようになり、名称も施設全体を竹生島大神宮寺、竹生島権現などと呼ばれるようになり、後には宝厳寺とも呼ばれるようになっていったという。
上の画像は東京国立博物館蔵の『竹生島祭礼図』で、室町時代に描かれた宝厳寺の蓮華会(れんげえ)という雨乞いの祭りの絵図である。
江戸時代末期に描かれた『岩金山大神宮寺竹生島絵図』には建物の名前が記されている。この絵図を見ると、現在の都久夫須麻神社の本殿は「本社」と書かれていて、昔はこの建物に宝厳寺の本尊である弁天像が安置されていて「本堂」あるいは「弁天堂」とも呼ばれていたようだ。
現在は宝厳寺と都久夫須麻神社の二つが併存しているのだが、このようになったのは明治初期の神仏分離令以降のことであり、それまでは竹生島宝厳寺は神仏習合で、妙覚院、月定院、一条院、常行院の一山四院によって管理運営されていた。そもそも当時においては「都久夫須麻神社」という名の神社は存在せず、竹生島に専業の神職は存在しなかったのである。
明治二年の大津県庁との交渉
『明治維新 神仏分離史料 第二巻』に所収されている「竹生島における神仏分離」という論文を紹介しよう。
文中の妙覚院とは宝厳寺の代表的な塔頭寺院で、覚以はその住職である。
また権大属(ごんだいさかん)というのは年給俸禄五十石程度の役人で、中規模藩の知藩事の一割程度の年俸であったようなのだが、明治初期にはこのクラスの役人が寺院の生殺与奪の権限を有していたことを知るべきである。
明治二年某月、大津県庁より竹生島役者を召喚す。妙覚院住職覚以出頭す。
権大属田中久兵衛立会し、覚以に告げて曰く、『其の島に延喜式内都久夫須麻神社と申す神社のあるはずなり*。しかるに未だその届けもこれなく、甚だ不都合の至り。ついては、その島の縁起・古記等の写しを製し、早々差し出されるべく、なお口碑等もこれあり候わばせいぜい取り調べの上至急差出すべし。』これにより覚以帰島のうえ、縁起二巻、儀軌一巻、並び古記集一冊を写して持参出頭の上、田中県属に面会し、之に白して曰く。『古記集内に貞永元年焼失勧進記の内に弁財天、島守大明神、小島権現の三社を書するのみにて、都久夫須麻神社と称する社殿は記さざるも、延喜式に都久夫須麻神社の社号記載あるを以て、島内に都久夫須麻神社とすべきものを考えれば、恐らくは島守大明神、小島大権現の内ならん。しかれども、現今にては確乎としてこの社なりと申し難し。』
(『明治維新 神仏分離史料 第二巻』p.544~545)
*延喜式:延長五年(927)にまとめられた『延喜式』巻九・十に、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧 (『延喜式神名帳』)があり、近江国の最後に「都久夫須麻神社」の記載があることを指している。
少し補足すると、竹生島の東北に小島という島がある。かつてはこの小島が大島(竹生島)の元島で、この島が浮遊している大島を繋ぎとめているとの伝承があったという。
先ほど紹介した江戸時代末期にの『岩金山大神宮寺竹生島絵図』には小島が描かれており、その島に「小島明神」と書かれた社殿があり、小島に相対して竹生島側に拝殿や、社務所のような建物が描かれている。また竹生島と小島との間に注連縄のようなものが掛けられていたこともわかる。
妙覚院住職覚以は、「島内には都久夫須麻神社と称する神殿はなく、弁財天、島守大明神、小島権現が存在するだけだ。もし都久夫須麻神社とという神社があるとしたら、島守大明神、小島権現のいずれかで、もしどちらともつかないのであれば、新たに神社を造営してはどうか」と提案したのである。確かに、竹生島の伝承内容からすれば小島権現はかなり重要な神社であったことは確実で、この神社が昔の都久夫須麻神社であった可能性は残る。
しかしながら、当時において弁財天堂が延喜式の都久夫須麻神社であるとする説がかなり広まっていたことは、覚以らは承知していた可能性が高いと思われる。というのは、文化二年(1805年)に出版された『木曽路名所図会 巻一』には、竹生島について次のように記されている。
「浅井郡湖中にあり。…長浜より六里。
本社弁財天女 天降天女と号す。長立像七寸三分。一説に行基大士の作という。[延喜式] 都久夫須麻神社…」
と、この書物では弁財天堂を延喜式の都久夫須麻神社に比定している。
同様な見解は享保十九年(1734年)に記された『近江国輿地志略 巻之八十七』にも、竹生島神社の項には、「当社は【延喜式】の神名帳に、いわゆる近江国浅井郡都久夫須麻神社と是なり。嗚呼神道は我国の道なり、神社を以て仏寺に混ずるのみにあらず、神を以て仏とす。付会の甚だこの上なかるべし。…」と、竹生島の神仏習合を批判しているのだ。
妙覚院住職覚以らは、竹生島の観光客の大半が弁財天と観音堂の参拝を目的に訪れていることや、当時の竹生島には僧侶しかいなかったことを勘案し、弁財天をなんとしてでも寺側の管理下に置いて存続させようと努力したのだと思う。
大津県庁の恫喝により弁天堂は都久夫須麻神社に
その後しばらく、大津県庁からの呼び出しはなかったのだが、二年後に事態が急展開したのである。
明治四年二月に至り、更に呼び出して、山田権大属立会いの上、先に差出せるところの御宸翰縁起に五ヶ所の付箋を為し、之を示して曰く。『この如きの理由あるを以て、今般弁財天を浅井姫命(あざいひめのみこと)とし、弁財天社を以て、都久夫須麻神社とすべき』旨の仰せ出されなりと。
覚似曰く、『これ一嶋の大事に関す。拙僧の独断にては御請け致し難し。かつ御口達のみを承りて引取りも、島内の僧侶は之を信ぜず。故に帰島の上、一山へ相示すべき証拠を御下付ありたし。』これにより山田属は、…左の如き達書を渡せり。(同上書p.545)
浅井郡竹生島役者
竹生島弁財天社、自今都久夫須麻神社と改称仰せ出されるべく候こと
明治四年辛未二月 大津県庁印
「弁財天を浅井姫命とし、弁財天社を都久夫須麻神社と改称せよ」との命令に宝厳寺の僧侶たちは驚愕し、県庁に嘆願しても埒が明かず、本寺である総持寺とともに願書を奉呈することとなったのだが、この時の山田権大属の言葉は恫喝以外の何物でもなかった。
今般竹生島弁財天を都久夫須麻神社として崇敬なされたく思召しにて、御達になりたるものなり。夫れを彼是と申せば、朝敵同様なり、明治初年四月阪本山王の馬場にて山王社の仏体仏器等を焼き捨てたるともあれば、万一左様の事に相成らんにも限らず、ここを能々考慮すべし。たとえ白きものを黒きと被仰出候共、朝廷よりの仰を背くとは出来ず、その方らさほどまでに仏法を信ずるなれば、元来仏法は天竺より来たりし法なれば、天竺国に帰化すべし。今県庁より達する通り御受けせざれば、如何の御処置に相成り候やも計りがたし。自然焼払などになれば、如何に致すや。」(同上書p.549)
「明治初年四月阪本山王の馬場」の件とは、日吉山王権現の社司でもあり神祇官神祇事務局権判事でもあり神仏分離令に関与した樹下茂国が、日吉山王権現の仏像・仏具・経典などすべてを取り除いて焼き払ったことをさしている。この事件については以前このブログで記したので繰り返さないが、興味のある方は次のURLを参照願いたい。
総持寺と妙覚院は、これ以上抵抗して宝厳寺の貴重な仏像などが焼き払われてはたまらないと考え、「また時を持て上願することにして、数行の涙とともに御受する」しかなかった。
とはいいながら弁財天像は仏像であるのでこれを寺の管理とすることをその後も強く主張し、かくして弁財天社から本尊の弁財天像が取り払われて取敢えず観音堂に移されたのち妙覚院に仮安置されることとなり、弁財天社は名前を変えて都久夫須麻神社の本殿となり、そのたるに常行院覚潮は復飾して神勤することになったという。
近江国の伝承と浅井比売命
こうして弁財天社は都久夫須麻神社と宝厳寺の二つに分離することになった。上の画像は国宝の都久夫須麻神社本殿である。かつてはこの建物が宝厳寺の弁天堂であり、本尊の弁財天像が安置されていた。ご祭神は市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト:本地垂迹では弁財天に比定される水の神)、宇賀福神(うがふくじん)、浅井比売命(アサイヒメノミコト)、龍神の四柱となっているが、大津県庁がこだわった浅井比売命とはどんな神様なのか。
奈良時代の初期に編纂された『近江国風土記(逸文)』に竹生島の由来について記されている部分がありそこに浅井姫がでてくる。Wikipediaに原文の読み下しがでているので引用しておこう。
「また云へらく、霜速比古命(しもはやひこのみこと)の男(こ)、多々美比古命(たたみひこのみこと)、是(こ)は夷服(いぶき)の岳の神といふ。女(むすめ)、比佐志比女命(ひさしひめのみこと)、是は夷服の岳の神の姉(いろね)にして、久恵(くえ)峯にいましき。次は浅井比咩命(あざいひめのみこと)、是は夷服の神の姪にして、浅井の岡にいましき。ここに、夷服の岳と、浅井の岡と、長高(たかき)を相競いしに、浅井の岡、一夜に高さを増しければ、夷服の岳の神、怒りて刀剣(つるぎ)を抜きて浅井比賣(ひめ)を殺(き)りしに、比賣の頭(かしら)、江(うみ)の中に堕ちて江島(しま)と成りき。竹生島と名づくるはその頭か。」
Wikipedia「近江国風土記」
伊吹山と浅井岡の二つの山が高さを競い合って、浅井岡が一夜にして急に高くなったので、伊吹山の神が怒って剣で浅井岡の神(浅井姫)の首を切り落とした。それが琵琶湖に落ちて竹生島になったという伝承が存在するのである。この伝承が先ほどの「浮いている竹生島を小島がつなぎ留めている」との伝承につながるのではないだろうか。
宝厳寺の本尊として残された竹生島の弁財天像
大津県庁との交渉により大切な弁財天像は仏像であるとして宝厳寺に残され、昭和十七年に現在の本堂(弁財天堂)が建てられて、本尊として祀られている。
冒頭に書いたように宝厳寺は日本三大弁財天の一つであるのだが、他の弁財天はどうなっているかというと、相模の江島弁財天は神仏分離後に江島神社と改名され、祭神は宗像三女神[田心姫神・湍津(たぎつ)姫神・市杵島(いちきしま)姫命]に改められられた。三重塔、竜宮門を始め多くの堂宇、仏像・仏具が破却されたが、木造彩色弁財天坐像(国重文)、木造弁財天半跏像(市文化財)は辺津宮境内の奉安殿に安置されているという。
また広島の厳島弁財天は、元来は市杵島姫命を主祭神としていて、これが弁財天と同一視されていたのだが、神仏分離令が出たのち政府から派遣された役人は、社殿が仏式であるのを見て直ちに焼き払いを命じたと記録されている。この命を聞いた棚守職の野坂元延は直ちに江戸に向かい、朝廷に嘆願してなんとか社殿の焼却は免れたものの、社殿や仏像等の破壊が行われ、厳島神社の祭神は江島神社と同じ宗像三女神とされて八臂弁財天像は木造薬師如来像(国重文)、木造釈迦如来坐像(国重文)などとともに大願寺に移されている。
結局のところ、日本三大弁財天のなかで宝厳寺だけが、仏像としての弁財天を本尊として守り通したということになる。仏像や仏具は旧弁天堂から移されたが、建物は破壊されることなく、新しい弁天堂が建てられることで多くの文化財が守られた。竹生島では神仏習合の時代に近い状態が残されているという意味で、貴重な観光地なのである。
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