東大寺と鎮守八幡宮との分離
『神仏分離資料』に大屋徳城氏の「奈良における神仏分離」という論文が収められている。少し前にこのブログで、興福寺の廃仏毀釈のことを書いたが、この論文によると、奈良県で興福寺の次に廃仏毀釈・神仏分離の影響が大きかったのは東大寺であるという。
今も東大寺は広い境内を残しており、多くの国宝や重要文化財を保有しているのだが、明治の初期に何が失われたのであろうか。
東大寺における神仏分離の第一は、鎮守八幡宮と東大寺との分離、廃仏毀釈の一は聖武天皇陵にありし末寺眉間寺の撤廃これなり。しかして、王政維新の趨勢として、新たに起こりし事件は、境内東照宮の廃止と、その跡に本願聖武天皇の奉祀、続いては境内子院の廃合にして、降りては正倉院との関係の断絶などいうべき事も少なからざれど、記録文書の保存少なくして、十分にその間の委細を叙述する能わざるは頗る遺憾のことに属す。
(『神仏分離資料 第二巻』[復刻版]昭和45年刊 p.108)
東大寺の創建以来八幡宮は東大寺の鎮守社であったのだが、明治四年に八幡宮は東大寺から分離され「手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)」と称することになった。
上の画像は天理図書館蔵、「奈良公園史 本編」に掲載される「奈良町絵図」の一部だが、中央の大仏殿の東(右)に二月堂があり、その南(下)に法華堂(三月堂)があり、さらに南に「八幡」と書かれた建物がある。これが現在の「手向山八幡宮」である。
明治の神仏分離時に、ご神体の木造僧形八幡神像(快慶作、国宝)は八幡宮から東大寺に移され、東大寺東照宮(現在の本坊内天皇殿<開基堂>)にあった東照宮社殿は放擲され、手向山八幡宮に移動させられて、神楽所の北の一郭にひっそりと置かれているという。上の画像は神仏分離に詳しいs.minagaさんのサイトに紹介されている、手向山八幡宮の神楽所の中に移された東照宮社殿である。
破壊された東大寺の末寺・眉間寺
東大寺大仏殿から北東約1キロのところに標高115メートルの多聞山があり、戦国時代に松永久秀が多聞天を祀る多聞山城を築いたが、天正五年(1577年)にこの城は信長に破壊されてしまった。この多聞山城のすぐ近くに、東大寺戒壇院の末寺である眉間寺(みけんじ)という寺があったのだが、延宝三年(1675年)版『南都名所集』によると、この寺は聖武天皇の御陵で、本尊は地蔵菩薩で、多宝塔があったという。
上の画像は『大和名所図会 第二巻』に出ている眉間寺の絵図だが、かなり大きかったこの寺が神仏分離により廃寺となり、建物が総て破壊されてしまっている。破壊された理由については記録が残されていないので想像するしかないが、聖武天皇の御陵が寺であったという点が問題になったとしか考えられない。
明治新政府は皇室から仏教を取り除き、仏教祭儀を取りやめさせたのだから、聖武天皇の陵墓が寺であることを認めるわけにはいかなかったということだろう。眉間寺の参道は残されているが、参道の先は聖武天皇の御陵になっているようである。
眉間寺の本堂に安置されていた阿弥陀、釈迦、薬師三尊(鎌倉時代・重文)や四聖御影像(重文)や聖武天皇宝冠のご舎利などは東大寺に、藤原時代の阿弥陀如来立像は西方寺に引き取られたが、他の仏像や仏画は法連町会所ほか各地に散逸してしまったという。
以前このブログでレポートした興福寺のケースでは、多くの建物が破壊され大量の寺宝が失われたのだが、東大寺の場合は興福寺ほどの大きなダメージは受けていない。その理由は、興福寺の僧侶たちは揃って仏教を捨てて春日大社の神官となったが、東大寺の僧侶たちは仏教を捨てなかった点にあるのだろう。守るべき者がいなくなれば、廃れていくのはどんな組織でも同じである。
相当傷んでいた東大寺大仏殿
しかしながら、東大寺の最も重要な建物である大仏殿は相当傷んでいたようである。上の画像は明治五年に撮影された、東大寺大仏殿の写真であるが、重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何本か立てられているのが写っている。
次の画像は明治四十三年に出版された『特別保護建造物及国宝帖』に載っている画像で撮影時期は明記されていないがおそらく明治四十二~三年頃のものと思われる。この画像を見ると、明治五年よりも、さらに歪みがひどくなっているのがわかる。『特別保護建造物及国宝帖』は「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されており、誰でも次のリンクから確認することが可能である。
当時の大仏殿は江戸時代の元禄期に再建されたものであったが、設計に狂いがあったために建築全体に歪みが生じ、建物全体が反時計回りに捻じれており、雨漏りもひどかったらしい。「軒反り」といわれる軒先の微妙な反りがほとんどなくなっている。
『奈良市史 通史四』に東大寺大仏殿修理に関する記述がある。
後年修理事務所の主任技師となった加護谷祐太郎の談話によると、「大仏殿は江戸建築当初において、多くの狂いがあり、その後地震や暴風雨のために、だんだん危険度が高まってきた。柱の傾きも酷くなり、柱の上部の大半は腐朽が目立ち、倒れないのが不思議であるという状態で、屋根の方も二本の大梁が一尺以上も湾曲し、軒受けの梁も折れたり曲がったり、軒先は八、九尺ほども垂れ下がっていた」という。ことに大屋根と下層の廂屋根に葺かれた屋根瓦は一三万三六六〇枚にも達し、その上屋根土の重量が加わり、その加重は垂木・柱などに大きな支障を与えていた。明治四十五年(1912年)の葺瓦にあたって二万一〇〇〇枚余を減らしたのは、その点を考慮したものである。
(『奈良市史 通史四』p.225)
https://www.city.nara.lg.jp/uploaded/attachment/21415.pdf
『奈良市史』に興味のある方は、『通史三』『通史四』のpdfが奈良市のホームページで公開されており、次のURLから読むことができる。
大仏殿の修理になかなか取り掛かれなかった事情
明治の初期からかなりひどい状況にあったにもかかわらず、本格的な修理が長い間なされなかったのはなぜなのか。前掲書には次のように解説されている。
しかし明治元年(1868年)三月に神祇官が復興され、神仏判然令が布告されるに及んで、廃仏毀釈の運動が起こり、翌二年には公慶以来、大仏殿の経営管理にあたってきた龍松院の大勧進職(だいかんじんしょく)は廃止されることになった。龍松院は再三にわたり、元禄元年(1688年)より今日にいたる勧進職の存続を嘆願直訴に及んだが、同三年四月、改めて大勧進職を廃止し、大仏殿は東大寺一山に引き渡し、寺録二千石余の内で修理すべき旨の達書が示された(『大仏及大仏殿史)』)。しかしその後も大仏殿は管理運営権をめぐって、寺内三十一ヵ院は三派に分かれて紛糾し、明治五年十月にいたって、奈良県令四条隆平らのあっ旋で一応解決をみることになった。
この間、明治二年六月には版籍奉還により防州国衙領一千石の上納米が断絶、同四年正月の全国寺社領の上地令によって、県下檪本村二千五十四石の寺領が上地を命じられ、経済的に深刻な打撃を被ることになった。さらに小宗派であったために、同五年九月には華厳宗は浄土宗の所轄と定められ、翌六年五月に浄土宗官庁養鸕(うがい)徹定宛に所轄願いを提出し、浄土宗所轄華厳宗東大寺を称することになった。…このころは檀徒をもたない奈良の諸大寺は未曽有の経済的危機に遭遇していたが、当寺にあっても例外ではなかった。明治六年には伝来の舞楽装束(右方・左方楽)を売却、塔頭八ゕ院を廃院して二十三ゕ院とし、同八年には奈良博覧会社の創立のために大仏殿回廊を提供し、同十一年には尊勝院の跡を踏襲した惣持院の敷地・建物や庭石に至るまで奈良郡役所に売却、鼓阪小学校に転用されることになった。当時の収入は主として諸堂の賽物(さいもつ:祈祷時などの供え物)、境内民家の敷地の冥加金(みょうがきん:社寺に奉納する金銭)などであったから、大仏殿や諸堂の差し迫った修理を自力で行うことは、到底不可能であった。
(同上書 p.225-226)
文中の「大勧進職」とは、寺の造営や修繕などのために、信者や有志者に浄財の寄付を求める責任者の役職を意味するが、明治新政府は社寺建造物の修理再建などを名目とする集金行為を禁止し、さらに上地令により知行地が没収され、東大寺は大きな収入源が断たれてしまい、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態に陥っていたのである。
明治初期は、文明開化の時代で西洋の文化が導入される一方古い伝統文化が軽視され、仏教寺院の改修に政府が動くことはなかったのだが、外国人が日本の古器旧物を大量に購入するようになると、これらを保存することの重要性が次第に認識されるようになっていった。
明治十二年(1879年)になって堺県の助成により東大寺南大門の修理が実施されたが、大仏殿の傷みが次第に黙視できない状況になっていき、明治十五年(1882年)になって東大寺は大阪府(当時奈良県は大阪府に吸収されていた)に、国の巨額の寄付と信者の布施と勧進により四万二七〇〇円の財源を確保して大仏殿を修理したい旨の願書を提出している。この願いは却下されたのだが大阪府からは助言があり、東大寺はそれに従って十月に大仏殿修理に関する寄付勧進公許願を内務省に提出するとともに、保存金下賜願いと御下賜金嘆願書を提出した。すると、内務相からは勧進が許可されるとともに宮内庁から五百円の下賜があったのである。
東大寺側も全国的な勧進と信者からの布施を集めるための大仏会が組織されて、資金集めを開始したのだが、明治十六年(1883年)五月と十八年(1885年)七月に近畿地方を襲った風水害があり、そのために資金が思うように集まらず、活動は一時中止のやむなきに至ったという。
明治二十四年(1891年)に政府に実地調査を要望したところ、三万二八〇〇円の修理費用が掛かることが明らかとなるが、大仏会がこれまで集めた浄財はわずかに四千六百円に過ぎなかった。
大仏会は再び内務省に大仏殿営繕費の下賜を願い出、政府は差し当たり三五〇〇円、翌年二度にわたり六五〇〇円の交付を決定。二十七年(1894年)には東大寺から聖語蔵を内務省に献納して二万五〇〇〇円の下賜を受けて、明治二十六年(1893年)に足代の建設がおわり、修理工事が始められるかと思われたが、あいにく明治二十七年(1894年)に日清戦争が始まり、物価騰貴のために予算が約四倍の一八万円に跳ね上がり、着工に至らないまま工事が中止となり、足代全部が解体されてしまう。当時の記録では大仏殿は「日ニ月ニ益々棟梁傾斜シ、危険ノ状態筆紙ノ能ク尽ス所ニ非ズ」(明治三十一年三月「大仏修繕費御下附願」『大仏及大仏史』)という状態になっていたという。
明治三十年(1897年)に古都保存法の制定があり、同年に南大門・法華堂・鐘楼が、翌三十一年(1898年)には大仏殿・中門・回廊が特別保護建築物に指定され、修理への展望が開けたのだが、翌年の調査では総工費が四六万九六〇〇円三八銭八厘と算定され、三十三年(1900年)に東大寺から内務省に修繕費補助願が提出され、翌年三月に古社寺保存金から三三万四六〇〇円三八銭八厘の交付が決定し、翌三十五年(1902年)から修理工事一切が奈良県に委任されることとなった。大仏会は、残りの一三万五〇〇〇円の募金を目標に活動を開始し、三十六年(1903年)七月から工事の準備が開始されたのだが、翌年の日露戦争開戦でまたもや工事が中止となり、一層の物価騰貴となる。
明治三十九年(1906年)に、再度予算を六八万七二二一円八八銭に改定し工事が再開されて、上棟式にこぎつけたのは明治四十四年(1911年)で、工事が完成したのは大正二年(1913年)。総工費は七二万八四二九円三六銭七厘と記録されている。もっと早く修理を終えていれば、こんなに資金も要らなかったであろう。大仏殿落慶総供養は大正三年に予定していたが、昭憲皇太后がなくなられたために一年延期され、大正四年(1915年)五月二日から七日間にわたって盛大に法要が行われ、参詣者が相次いだという。
興福寺と比較すれば、東大寺の廃仏毀釈・神仏分離による被害は限定的なものではあったのだが、最も貴重な文化財であり世界最大の木造建造物であった大仏殿が、大きな地震などがあれば倒れてもおかしくないような危険な状態であったまま明治政府が長い間動かず、資金を出さないばかりか勧進も認めなかった事実はもっと広く知られて良いと思う。
奈良時代に聖武天皇が国力を尽くして建立した東大寺は、治承四年(1181年)の南都焼討ち、永禄十年(1567年)の三好・松永の戦いで大仏殿が焼失し、いずれの時も国家的プロジェクトを組んで再建されたのだが、こんな大規模な建物の修復工事について明治政府は、明治中頃までは支援する意思がなく、建築資金の浄財を募ることも認めず、東大寺単独で再建せよと突き放していたのである。古都保存法が制定されてようやく大仏殿の再建のめどが立つようになったのだが、それまでの東大寺の苦労は並大抵のものではなかったはずである。
しかしながら、この苦労がなければ、年間三百万人以上の観光客が訪れるという今の東大寺はなかっただろうし、年間四千五百万人訪れるという奈良県の観光客はもっと少ないものになっていたのではないだろうか。
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