激しかった興福寺の廃仏毀釈
東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を勤めた正木直彦(1862~1940)の講話などを抄録した『十三松堂閑話録』という本がGoogleブックスで無料公開されている。その本の中に「廃仏毀釈、西洋崇拝、国粋保存と其推移」という文章があるので紹介したい。
王政復古は国学者と密接な関係があった。平田篤胤は当時議論最も危激で、すべてのものを神代の昔に復さなければならぬと唱えていたが、その門人およびこの学派の中からは、沢山明治維新の功労者を出した。これらのいわゆる神道者流は新政府に勢力を得ていろいろ維新の改革をやったが、その中、平田流の福羽美静*や田中頼庸**らの議論が用いられて廃仏毀釈を最も激しいやり方で実行した。それまでの日本は両部神道で本地垂迹説の発達によって廬舎那仏は本地仏でその垂迹が天照皇大神宮である、釈薬地観は本地仏で春日四社明神が垂迹であるというふうにすべての神仏を旨い具合に習合させていた。それを明治政府ではかかることは仏が神を汚しているものであるとなし、仏を祭ってはならぬ、僧侶はやめてしまえ、皆神道にならなければならぬ等と稱(とな)え、そして本願寺や知恩院等にも仏壇の前に幕を引いて、新しく神を祀らせ祝詞を上げさせたこともあった。
*福羽美静(ふくば びせい):元津和野藩士で、幕末から明治五年まで神祇事務局・神祇官の実権を握った人物。
(正木直彦 著『十三松堂閑話録』相模書房 昭和十二年刊 p.114)
**田中頼庸(たなか よりつね):元薩摩藩士で明治四年に神祇省に出仕し、明治七年に伊勢神宮大宮司となった人物。
本願寺や知恩院でも仏壇に幕を引いて祝詞をあげていた時代があったなどとは信じがたい話なのだが、著者の正木は古社寺保存や美術行政に長年関わってきた人物で、いい加減なことを言っているとは思えない。続けて著者は奈良・興福寺の廃仏毀釈に言及している。
新政府の役人はまた至る所で寺に関係のあるものを焼き払ったり取り壊したりした。ことに面白いのは奈良の興福寺の五重塔で、時の県令四條隆平という人は非常に改革派の人であったから、春日の神鹿を売り飛ばし、若草山から春日の一帯を牧場にして牛を放牧することにしたり、また興福寺の五重塔が目障りであるからとて入札払いにしたところが、これが十五両で落札した。足場をかけて毀すことにすれば沢山費用が掛かるので落札者は逃げてしまった。そこで県令は綱を着けて万力で引き倒せと命令したが容易に倒れないので、されば火をかけて焼き払えと命令し、柴を積んで日を期して焼き払う筈であったところが、これを聞いた奈良の町民は大いに驚き、かつて元興寺の高い塔が焼けて困った経験から興福寺の五重塔を焼き捨てることになると大変だというので、町民は多数県庁に押し寄せて愁訴したから、断行も出来ず、かれこれする内に県令が代わって五重塔は火難を免れたのである。
(同上書 p.114~115)
焼かれずに残された五重塔は現在国宝に指定されているが、興福寺といえば藤原鎌足とその子・藤原不比等ゆかりの寺院で、南都七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)の一つに数えられる名刹である。阿修羅像など多くの国宝や重要文化財を保有し、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されており、毎年国内外から多くの観光客が訪れている。この興福寺について『神仏分離史料 第二巻』に、仏教史学者・大屋徳城の「奈良における神仏分離」という論考が収められていて、そこには「奈良における神仏分離・廃仏毀釈は興福寺が最も激烈であった」と記されているのだが、明治初期の興福寺にどのようなことがあったのかを振り返ることと致したい。
全員が春日大社の神官となった興福寺の僧侶たち
廃仏毀釈が起こる前の興福寺境内の絵が寛政三年(1791年)に編纂された『大和名所図会 巻之二』に残されている。
上の画像は興福寺の一枚目の絵で、右下に猿沢の池、中央に先ほど話題になった五重塔が描かれている。境内に随分空地が目立つのだが、享保二年(1717年)に講堂や西金堂、南大門などが焼失してしまい、多くが再建されなかったことによる。また広い境内の周囲に土塀があるが、この土塀は明治になって撤去されてしまっている。昔は奈良公園も奈良国立博物館も奈良ホテルも興福寺とその子院の境内だったのである。
上の画像は寛政年間(1789~1801年)に制作された『加太越奈良道見取絵図第二巻』にある「興福寺伽藍図」で、中央左の池が猿沢の池で、中央下に門跡寺院である大乗院が、中央に五重塔が、少し上に門跡寺院である一条院が描かれている。この絵の中で大きな屋根の建物はすべて興福寺の子院だと理解して良い。
http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2003toba/kofukuji51.jpg
ところが、この広大な興福寺の境内から僧侶が消えてしまったのである。その経緯を簡単に書くと、慶応四年(=明治元年:1868年)三月十七日に神祇事務局より僧侶の復飾(俗人に戻ること)が命じられ、三月二十八日には神仏分離令が出されている。それに対して興福寺塔頭の大乗院・一乗院が中心となって、四月十三日に復飾願を提出しているのだ。そしてその願書は認められ、すべての僧侶が復職して春日大社の神官となっている。
即ち復飾を許可さるるとともに、新神司と唱え、従来支配下の春日社に奉仕し、院家は祭服着用、寺一統は浄衣を着用し、社頭の仏具は一切撤廃して、興福寺へ引取るべしとの指令に接し、ここに一山の僧侶は、全く神祇の従属となり、院家は神官となり了れり。
(『神仏分離史料 第二巻(復刻版)』名著出版 昭和45年刊 p.22)
そして閏四月十五日には、興福寺は末寺一同を集めて、これまでの経緯を報告したうえで、以後末寺との関係を断つことを通達したという。
興福寺がこのような決断をした背景について、臼井史朗氏はこう解説しておられる。
その理由の一つと考えられることは、門跡をはじめとして、院家や学侶といった要職にある僧侶たちは、すべてが貴族の子弟だったということである。大乗院や一乗院の門跡にあっては、代々が摂関家の子弟が相承し、ときには、有縁の皇族が入室して宮門跡となるというしきたりとなっていた。
だから、興福寺としての独自の意思決定の前に、ときの宮廷意志が先行したのである。明治御一新となって、天皇親政となるということになれば、当然、家門の貴族側からの復飾の勧奨も出たに違いない。
(臼井史朗『神仏分離の動乱』思文閣出版 p.113)
臼井氏によると維新当時興福寺には貴族出身者が二十二名もいて、それぞれが要職についていた。「彼らは興福寺の僧侶であるという自覚以前に、公卿貴族としてのエリート意識に固まっていて、僧侶である以前に貴族であった。」だから彼らは、神仏分離令が出るや否や復飾請願し、僧侶総てが改名還俗してしまったと解説されている。
興福寺の荒廃
無人となった興福寺について、奈良県がまとめた『青山四方にめぐれる国~~奈良県誕生物語』にはこう記されている。
僧侶がいなくなった興福寺は、またたく間に荒れはててしまった。たくさんの塔頭や寺院の建物はみる影もなくなり、多くの仏像・仏具が処分され、使われている金銀箔をめあてに経巻類が焼き払われたといわれる。そして、明治四年(1871)一月には、もとの一乗院の建物が奈良県庁に転用されるようになるとともに、かたむいた建物や塀が取り壊され、同年九月、ついに廃寺になってしまった。
(『青山四方にめぐれる国~~奈良県誕生物語』p.28)
興福寺は数多くの仏像などを残したまま無人の寺になってしまったのである。
東大寺から管理を引き受けたいという申し出や、興福寺の元僧侶から「僧に戻り興福寺を再興したい」と訴える者もいたのだが、結局堂塔伽藍の管理は、興福寺と縁の深い西大寺と唐招提寺に託されることになった。しかしながら、広すぎる境内の管理には限界があった。
『神仏分離史料第二巻』にはこんな記述がある。
本寺本山既にあれども無きが如く、法音聞こえず、香烟絶え、強欲無慚の輩は、重宝什器を偸(ぬす)みて、私腹を肥やすに汲々たる有様にて、中にこれを監督すべき官吏にして、権威を恣(ほしいまま)にして、名画名器を私するもの少なからず。
(『神仏分離史料第二巻』p.61)
このようなことをして財を成した官吏がいたのだが、その点についてはいずれ書くことにしたい。
また同書には明治三年(1870年)の興福寺について次のように解説されている。
明治三年になりたれど、興福寺伽藍の処置は未だ決定せず、荒廃のままに打ち過ぎたり。銅鉄の類にて作りし仏器仏具は売却せられて地金となり、千体仏などの仏像は束ねられて薪となり、美術も、宗教も、全く地に委するの時代となりては、神鹿の迫害は愚か、堂塔伽藍も無用の長物となりて、撤廃の運命に迫れども、両門跡以下は復飾して、俄か神官となりて、旧社司禰宜神人の輩と権威を競い、以下の輩に至りては、偏に朝廷の待遇に腐心して、教法の否運を嘆く者さえなき有り様なりき。明治三年は、全くこれら末輩の叙爵請求の沙汰のみ記録に残れり。
(同上書 p.81~82)
リーダーシップをとるような人物が当時の興福寺にはいなかったのか、誰もが自分の待遇のことしか考えないのは情けない限りである。
初代県令四条隆平の廃仏毀釈
明治四年(1871年)七月の廃藩置県により、それまで寺社領を与える主体であった領主権力が消滅し、すべての寺社領の法的根拠がなくなり、さらに地租改正により寺社は免税特権も失ってしまう。そのために寺社の収入は激減した。
廃藩置県の頃は、大和国に十の県(五條県、高取県、柳生県など)が存在したのだが、十一月にそれらの県が統合して統一奈良県が発足し、幕末に勤王公家として活躍した弱冠三十歳の四条隆平(しじょう たかとし)が初代県令として赴任した。この人物は一年半程度在任したに過ぎないのだが、明治政府の方針に従い徹底して開化政策を強行し、興福寺は四条県令の廃仏政策の最大のターゲットとされたのである。
明治五年(1872年)いよいよ大破壊の年は来たれり。元年神仏分離以来現状を維持し、深き縁故を以て管理を委任しありし、西大寺、唐招提寺両寺の手も及ばず、興福寺の大伽藍は、ここに全く破壊せらるるの運命に接しぬ。
(同上書 p.94)
県令は興福寺に「旧殿建物残らず取払いたし」との申し出をさせた上で、教部省にお伺いを立てている。同上書に伺書の全文が出ているが、興福寺を廃寺とし堂宇や塀などを撤去する理由として、これらの建物は「旧習の洗除の妨げ」となり、「無用の長物であり、通行の妨げにもなる」(同上書p.96)などと書いている。九月に教部省から「一山内総て廃寺処分の上…」との返事を受け、興福寺の廃寺処分が開始されている。
明治初年までは、境内には四十を超える堂塔が建っていたそうだが、その後多くが撤去されて、残されたのは五重塔、三重塔、北円堂、南円堂、東金堂、寺務院、大湯屋だけだったという。
門跡寺院であった一乗院は明治四年(1871年)に県に没収され、宸殿はすでに奈良裁判所に使用されていた。宸殿の建物はその後昭和三十九年(1964年)に唐招提寺に移築され、同寺の御影堂(国重文)として国宝の鑑真和上像が安置されている。
また同じく門跡寺院であった大乗院には有名な庭園があったのだが、堂宇と共に明治五年(1872年)に破壊され、跡地は明治四十二年(1909年)に奈良ホテルとなり、大乗院庭園の一部は復元されて国の名勝に指定されている。
このブログの「デジタル図書館」「国会図書館デジタルコレクション」に「新聞集成明治編年史」全十五巻のURLを案内している。この本は幕末の文久二年(1862年)から明治四十五年(1912年)までの新聞や雑誌の記事をまとめたものだが、政治や外交のみならず風俗や世相に関する記事が豊富なので時々覗きにいっている。
四条隆平が奈良県令であった時代の記事を探すと、冒頭で正木直彦が言及したことが書かれているものがあるので紹介しよう。
一つ目の記事は明治五年二月の雑誌三十三号のもので、県令以下数名が一月十六日に、春日山で数十匹の鹿狩りをした記事で、古来奈良では鹿は神の使いとされ、殺せば神罰を蒙ると伝えられていたのだが何も起こらなかったので安堵したと書いてある。(『新聞集成明治編年史. 第一卷』p.436)
二つ目の記事は同年八月の雑誌五十六号のものだが、若草山を牧場にして牛や羊を放牧したというものである。(『新聞集成明治編年史. 第一卷』p.484)
『五箇条の御誓文』に「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」とあるが、明治時代のはじめの頃は『文明開化』の名のもとに仏教的な伝統や文化が軽んじられる風潮にあり、それらを破壊し、西洋的なものに飛びつく高官が少なからずいて、わが国はこの時期に数多くの貴重な文化財を失ってしまったのである。
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前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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コメント
こんにちは♪
廃仏毀釈によって僧侶に将来がないとみて、貴族出身の幹部僧侶がいち早くお寺を捨てて逃げ出したことには驚きました。
昔の人なのに職業に対する責任感がなかったのでしょうかね。
Ounaさん、コメントありがとうございます。僧侶全員が復飾した寺院は他にいくつもあります。寺の組織もサラリーマンと同じで上が決めたことに下の者が逆らえないところがあったのではないかと考えています。