老中安藤信正失脚後の幕府の方針変更と外国人の評価
坂下門外の変が起きて老中安藤信正が失脚した文久二年(1862年)は、幕府の衰亡を決定的にした年でもある。前回の「歴史ノート」で、外国人が襲われた事例をいくつか紹介したが、日本人も多くが襲撃されている。この年の情勢について、当時幕臣であった福地源一郎は、『懐往事談』に次のように記している。
攘夷論はすでに京都の廷議となりて国家の問題となれり。長州候ははじめには幕府に対して公武合体論を説き、幕府はその家来、長井雅楽*をして京都を周旋せしめんと試みたりしに、長州の藩論も京都の廷議も全く一変して、激烈なる攘夷論となりて、討幕の精神その鋭鋒をあらわしたり。これに饗応せる無謀無知の浮浪過激党は、東西に南北に怒りて狂闘暴喚し、幕府の政令はふたたび天下に行われざるの兆(きざし)を示したり。幕府はほとんど処置の出るところを知らずして茫然たりしところに、島津三郎**は薩州より京都に来たり、伏見一件をその手初めとして浮浪過激党の狂暴を鎮圧し、朝廷の信用を得たりければ、勅使と共に東下したり。
…中略…
浮浪の暴行はただに京都のみならず、東国にも伝染して、現に将軍家のお膝元たる江戸に於いて、暗殺、脅迫の禍にかかれるものあり。国学者塙次郎***は、廃帝の例を調べたりといえる浮説のために暗殺せられ、手塚律蔵は洋学に熱心して開国論を唱えたりとて、白昼に暴行に遇い、御堀の中に投げ込まれたり、そのほか市中に於いても、商家の輩が外国貿易に従事するとて浪士らのために脅迫の暴行に掛かるのも数多ありたれども、幕府はこれを鎮圧すること能わず、その暴徒はおよそ薄々は知れたれども、京都を恐れ、強藩を憚(はばか)りて、着手することを得ざりし。
*長井雅楽:長州藩直目付。尊王攘夷派と対立し、文久二年に免職された。
(福地源一郎著『懐往事談』民友社 明治30年刊 p.103~104)
**島津三郎:島津久光。幕末の薩摩藩の最高権力者。
***塙次郎(はなわ じろう):『武家名目抄』、『続群書類従』などの編纂に携わった国学者。孝明帝を廃位せしめるために「廃帝の典故」について調査しているとのの誤った巷説が伝えられ、勤皇浪士に襲撃された。
京都も江戸も騒動続きであったのだが、幕府はどんな取り締まりをしていたのであろうか。
坂下門外の変の後、幕府は閣老らを大幅に入れ替えて、開国・佐幕に熱心なメンバーを斥け「穏健派」が主導権を握っている。彼らは、従来の格式を打ち破って参勤交代の頻度を減らし、大名の嫡子・妻子の帰国を許したほか、朝廷や「浮浪過激党」の機嫌をとって、幕府との対立が生じないようにしたのだが、その結果として幕府の力はさらに弱まり、過激分子が外国人を襲撃する事件が多発するようになったのである。
前回の「歴史ノート」で外国人を襲撃する事例をいくつか挙げたが、当時青年外交官として日本にいたイギリスのアーネスト・サトウは、文久元年五月二十八日(1861/7/5)に水戸浪士が高輪東禅寺にあったイギリス公使館が襲われた事件(第一次東禅寺事件)の後、当時頻発していた外国人襲撃事件について著書にこう記している。
これは、開港以来わずか二年ばかりの間の出来事としては、かなりの件数である。襲撃はあらゆる場合計画的なものであったが、それも特別に理由があってのことではなく、また加害者は必ず帯刀階級の者であった。このように無残な斬殺を行った人々も、その犠牲者たちに何らの私怨を持っていたわけではない。政治的な動機からの暗殺で、しかも殺戮者は、いずれの場合も処罰を受けずに済んだ。そこで外国人たちは、日本は命がけの生活をしなければならない国だと思うようになり、既に多くの実例のあるこうした不幸な最期を遂げるのを恐れて、居留民は一般に戦々兢々として暮らしていた。私は任地へ出発する前、まだイギリスにいた時から、日本では気候の変化から来る病気以外に、熟練した剣士の手にかかって不慮の死を遂げる危険をも考慮に入れなければならないと考えたのであった。したがって私は、相当量の火薬、弾丸、雷管とともに一挺の拳銃を買い込んだ。外国人居留地の境界外に出る場合には、だれもが常に拳銃を携帯し、また常にそれを枕の下に入れて寝たくらいだから、当時これらの武器はかなり多く日本へ売り込まれたに違いないと思う。コルトやアダムスの会社は、当時大した繁盛ぶりだった。
(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新 (上)』岩波文庫 p.54~55)
幕府の閣老は、自らが井伊や安藤のように命を狙われるような事態を避けたくて攘夷派にすり寄ったのであろうが、外国人からすれば、幕府が仲間を殺害した犯人を処罰してくれないのであれば、自分の命は自分で守るしかなくなってしまうし、そんな幕府に対する信頼が乏しくなっていくのは当然のことである。
特に文久二年には、イギリス人にとって大きな事件が三度も起きた。五月二十九日(1862/6/26)にはイギリス公使館の警備に当たっていた松本藩士が夜中に代理公使ニールの寝室に進入し、警備のイギリス兵二名が殺害される事件(第二次東禅寺事件)が起き、八月二十一日(9/14)にはイギリス人2名が重傷を負った生麦事件が起き、十二月には英国公使館焼討ち事件が起きている。
生麦事件は翌年にイギリス艦隊が動く原因となる大事件であったのだが、この事件については単純な攘夷殺人事件とは言えない側面もあるので、少し詳しく記しておきたい。
生麦事件で英国人が斬られたのは何故か
生麦事件は、文久二年八月二十一日(1862/9/14)に四人の英国人が島津久光の行列と遭遇し、薩摩藩士が止めようとしたにもかかわらず、騎乗のまま行列を横切ろうとしたので、激昂した藩士が斬りかかり、一人が死亡し二人が負傷したとされている。
通説では英国人が行列を「横切ろうとした」ことになっているのだが、アーネスト・サトウは著書に、こう記している。
(リチャードソン)は、香港のボラデール婦人およびウッドソープ・C・クラークとウィリアム・マーシャルという二人とも横浜に住んでいる男と一緒に、神奈川と川崎の間の街道を乗馬でやって来たところ、大名の家来の行列に出会い、わきへ寄れと言われた。そこで道路のわきを進んでゆくと、そのうちに薩摩藩主の父、島津三郎(久光)の乗っている駕籠が見えてきた。こんどは引返せと命ぜられたので、その通りに馬首をめぐらそうとしていたとき、突然行列中の数名の者が武器を振るって襲いかかり、鋭い刃のついている重い刀で斬りつけた。リチャードソンは瀕死の重傷を負って、馬から落ちた。…
(同上書 p.60)
島津久光の行列は400人以上だったとされるが、狭い道で薩摩藩の長い行列と遭遇し、四人の英国人は、制止されたにもかかわらず、騎乗のままで久光の駕籠の方向に進んでいったことになる。現代でもパレードの最中に、中央にいるVIPに向かって、制止されても接近していく人物がいたとしたら、国によっては射殺されてもおかしくないだろう。
日本語が分からなかったのだろうと書いている人もいるが、ものものしい警護の行列で、何度も「止まれ」「馬を降りよ」と言われれば、日本語が理解できようができまいが、どうすればよいかは、その場の空気で分かって当然ではないのか。私はこの事件は単純な攘夷事件と分類するのは妥当だとは思わない。なぜなら、同じことを日本人が行っていれば確実に斬られていたからだ。
生麦事件の犠牲者たちを他の外国人はどう見ていたか
Wikipediaには、このイギリス人4人に対して批判的な当時の外国人の意見がいくつか紹介されている。
事件が起こる前に島津久光の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードが、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示した。薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人4名を非難する意見を述べている。
また当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。」と評している。
同様な批判はイギリス人も述べている。清国北京駐在イギリス公使であったフレデリック・ブルースは殺害されたリチャードソンをよく知っていて、この人物は上海で、自らが雇っていたシナ人苦力に残虐な暴行を加えて罰金刑を課された人物であり、「わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」と本国の外務大臣に報告しているという。
また事件直後に現場に駆け付けたウィリス医師も、兄への手紙に「誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです。」と書いているそうだ。
生麦事件ののち、すぐに戦争に発展する可能性があった
このように生麦事件については、外国人ですらリチャードソンら4人に対する批判的な意見が多かったのだが、商人で初めて死者が出たことにより日本に駐在する外国人に大きなショックを与えたことは言うまでもない。この事件の対応について外国人が集まって直ちに会議が開かれ、アーネスト・サトウの著書に会議の様子が記されている。
その夜島津三郎(久光)は、横浜からわずか二マイルたらずの宿場、保土ヶ谷に泊まるということがわかった。外国人たちの意見では、入港している外国船の兵力全部を集めれば、島津三郎を包囲して捕縛することは造作もないことであり、またそうするのが当然だというのであった。そして、その後わが方の損害賠償請求に対する日本側の出かたや、考え方について知り得た知識によれば、外国人側のこうした意見は大して誤ったものではなかった。乱暴な両刀階級の秩序を維持するだけの組織ある警察力や兵力がなかった時代のこととて、日本の諸候のだれかがもしこのような乱暴を受けたとすれば、だれしも同じ手段をとるであろう。
…中略…
熱心な討議がつづけられ、外国の海軍当局に頼んで兵員一千を上陸させて凶徒を捕縛してもらうという動議は否決されたが、居留民の主だった者数名を代表者に選んで、オランダ、フランス、イギリスの各艦隊司令官を訪問させ、会合での結論を述べさせることにした。
(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新 (上)』岩波文庫 p.62)
翌朝に開かれた会議にイギリス代理公使のニールは島津久光に対する武力行使について「大君(将軍)の政府をこの国の政府とみなすことが出来るとすれば、実際上日本と開戦するに等しい結果を招くことになるが、そのような手段は容認できるものではない」と、頭からこれに反対したという。フランス公使も同意見であったので、外交交渉で解決する方針か固まったのだが、このニール代理公使の発言がなければ、イギリスが武力行使に及んだ可能性は決して小さくなかったのである。
アーネスト・サトウはこの事件直後は自身も興奮し、ニール代理公使を誹謗する側であったと記しているが、事件から25年経過したのち、この事件を回顧してこう述べている。
…今になって回顧すると、私はニール大佐が最上の方策をとったものと思う。商人連中の計画は向こう見ずで、威勢が良くて、ロマンチックと言って良かった。それはおそらく、あの有名な薩摩侍の勇敢さを圧して、一時は成功したかもしれない。しかし、外国水兵によって日本の有力な大名が大君の領内で捕えられたとなると、大君が「外威」に対して国家を防御しないという明白な証拠になるわけだ。そうなれば、大君の没落は、実際に没落したよりもずっと以前に、そして、新政府の樹立を目ざす各藩の連合がまだできあがらぬうちに到来しただろう。その結果、日本はおそらく壊滅的な無政府状態になり、諸外国との衝突がひんぴんと起こって、容易ならぬ事態を招いたであろう。保土谷を襲撃すれば、その報復として長崎の外国人が直ちに虐殺され、その結果は英・仏・蘭の遠征軍の派遣を見るようになり、幾多の血なまぐさい戦争が行われて、天皇の国土は滅茶滅茶になっただろう。その間に、われわれの日本へやって来た目的たる通商は抹殺されてしまい、ヨーロッパと日本の無数の生命が、島津三郎の生命と引きかえに、犠牲に供されたにちがいない。
(同上書 p.63~64)
生麦事件の直後、外国人商人たちや若き外交官の間では、薩摩藩に復讐しようとする意見が盛り上がったのだが、本来ならばまずは幕府に処罰を求めるのが筋であろう。その点をニール代理公使が指摘してひとまず武力衝突が避けられたのだが、裏を返すと当時の外国人からの幕府の評価は低く、サトウの言葉にあるように、「外威」から国を守る力も、有力大名を統率する力も弱かったのである。
ニールの主張により幕府との交渉を開始したものの、幕府の動きにニールが激怒し、軍事衝突する寸前まで進んだのだが、この点については次回の「歴史ノート」に記すことにしたい。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、昨年(2019年)の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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