神社合祀政策とは
明治初期の廃仏毀釈で多くの寺院が廃絶され多くの文化財を失ったのだが、明治の末期には多くの神社が神社合祀政策により破壊されている。
Wikipediaによると
神社合祀政策は1906年(明治39年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣・原敬によって出された勅令によって進められ、当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであった。だが、第2次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めることを厳命したため、全国で1914年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では1割程度ですんだ。
wikipedia 「神社合祀」
明治初期の廃仏毀釈では全国の半分近くの寺が廃絶されたが、明治末期には神社合祀政策で、全国の神社の3分の1以上が無くなったというのも極めて異常な話である。ところが明治政府によってこのような破壊行為が行われたことは通史にはどこにも記されていないのである。
神社合祀政策の根拠となった勅令
明治三十九年以降にどのような勅令が出されたのだろうかと思い、国立国会図書館「日本法令索引」で検索すると、八月十日勅令第二百二十号「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件」がヒットした。その内容を確認するとかなり短いものであるのに驚いた。
神社寺院仏堂ノ合併ニ由リ不用ニ帰シタル境内官有地ハ官有財産管理上必要ノモノヲ除クノ外内務大臣ニ於テ之ヲ其ノ合併シタル神社寺院仏堂ニ譲与スルコトヲ得
この勅令には「神社合祀」を推進せよとは一言も記されていないのは意外であったが、この条文は読みようによっては、政府が寺社の合併を推進すれば、「不用ニ帰シタル境内官有地」が増加することとなり、「内務大臣」がその処分権を有するとも読める。
明治四十一年七月に成立した第二次桂内閣の時に、この勅令を根拠として、氏子崇敬者の意向を無視して神社合祀が強引に進められたことは事実なのである。
何のために神社合祀が進められたのか
何のために第二次桂内閣で神社合祀が推進されたかがさっぱりわからないので、関連する書物を「国立国会図書館デジタルコレクション」で探していると、当時の新聞記事が『新聞集成明治編年史. 第十三卷』に出ている。
この 『新聞集成明治編年史』 シリーズは全部で15巻あり、このブログのグローバルメニューから『デジタル図書館』を選び『国立国会図書館デジタルコレクション』に進むと『新聞集成明治編年史』全巻のURLを紹介したリストがあるので活用していただきたい。
この記事によると氏子も神主もいないような神社や、檀家や住職もいないような寺の合併を奨励して「維持の財源に供せしめる方針」などと書かれている。しかしこの説明では、全国で三割以上の神社が急激に減少した理由としては説得力がなさすぎる。実際のところ、氏子も宮司も多数存在したような神社までこの時期に破壊されているのである。
さらに「国立国会図書館デジタルコレクション」で探していると、『地方自治の手引き』という書物が見つかった。
この本の題字は神社合祀を進めた当事者である内務大臣の平田東助が書いており、著者の前田宇治郎の肩書は内務省地方局員とあるので、概ね神社合祀推進の立場から書かれたものと考えて良いだろう。ただ、この書物が出版されたのは明治44年(1911年)なので、急激な合祀が反対運動により下火となった頃に世に出た書物である。ここにはこう書かれている。
町村内に幾多の神社が存在する場合には勢い祭事も個々別々に行わるるので、氏子の負担もまた重くなる割合である。されば神社の合併ということは必要であるが、然し之を実行せんとするに於ては、旧来の慣習がありて、頗る困難の場合が多い。合併すれば祭事も一に帰し、祭事が一に帰すれば、軈(やが)て町村民の経済上の利便となるは、言うを要せず。第一神社の尊厳ということが保たれて来るのみならず。合併された神社の境内地などは、又新たなる神社の基本財産とすることが出来るから、神社維持の上に於いても大いに便利である。三十九年より四十二年末に至る迄に、府県社、郷社、村社、無格社の数が、実に四万五千も減っている。
(明治44年刊『地方自治の手引き』p.124~125)
この文章を読めば、彼らは神社の数が少ない方が合理的で経済利便性が高いという単純な考え方から神社合祀の推進を立案したようなのだが、少しやりすぎたことを自覚しているのか、次のような表現がある。
神社の合併には、単に経済上のみを視てはいかぬ。神社の尊厳は勿論民心の統一、または社会教育という上よりも、能く観察を下して、行うことが肝要であると思う…
(同書p.125)
そう書きながらも、徳島県板野郡里浦村や香川県大川郡小海村、静岡県浜名郡積志村など神社合併が成功したとされる事例を挙げて「文明の趣意に適いて、町村自疆の策を樹てんとする美挙」(同書p.135)であると自画自賛しているのだ。
神社合祀に反対する立場の人は、合祀推進者は私腹を肥やしていると考えていた
次に神社合祀について反対する立場の議論を知りたいと思って調べていると、植物病理学者で東京帝国大学農科大学 (現・東京大学農学部) 教授であった白井光太郎(しらい みつたろう)の「神社合併による農村の破壊」(大正2年5月 農業世界第八巻第六号)という論文が見つかった。この論文は同氏の『本草学論攷. 第4冊』(昭和11年刊)に収められており、やはり『国立国会図書館デジタルコレクション』で誰でも読むことが出来る。
著者は、明治39年の勅令が、神社の破壊に至った経緯と和歌山県の事例についてこう述べている。
三十九年原内相の下に水野氏神社局長で出された合祀の訓令では、…其本意は八兵衛稲荷とか遊女の高尾大明神とか助六天神の様な埒もない、凡俗衆が一時の迷信から立てた淫祠小社を駆除するの目的と解釈されたが、其後平田内相の時、前の訓令を改修して神社を潰すことに定め、金銭を標準として神社を淘汰するようになり、其処分は知事に一任し知事は之を郡長に、郡長は之を村吏に一任するという遣り方であるから、之等知識のない吏員等は得たり賢しと神狩を始め、何時からか、一村一社とか三千円乃至五千円という大金を基本財産と定むる規定を設け、これに合格せざる社は一切掃蕩に及ぶので、如何なる由緒、如何なる立派な社殿神林神社も此等の攻道具には困って、泣きの涙で県知事の命令通り一村一社の制を用い、指定社外の諸社を悉く伐木し地所を公売して指定の一定の財産として神官神職の俸給を出すこととなった。之が為め紀州などでは人民の一番純朴な有田郡は一村一社の外の諸社は悉く掃蕩され、日高郡之に次ぎ、現今一村一社の外に残りあるは三社のみと聞いたが、兎に角この辺は半原低地で昔から田園早く開けた地であるから、土地の植物を視察するには神社より外にないのに、この神社が潰され神林が悉く伐られたので、有田郡日高郡の植物は今日之を研究する利便を失ってしまった。
(『本草学論攷. 第4冊』p.58-59)
和歌山県だけではなく、ひどい破壊が全国各地で行われたようである。同書には次のような事例が記しており、官吏がどんな言い訳をしていたかも併せて記されている。
神社合併が史跡を滅却した例は、奈良県下では武内宿禰の墓を滅却し、大阪府下では敏達帝の行宮跡を滅し、又東京農科大学付近では植物採集地で有名な大宮八幡の森がなくなり、又十三塚の遺跡として農科大学裏門付近の三角という所の樅の大木の下に塚があったのも何時の間にか木は伐られて畑となってしまっているので、全国に斯る例は随分あることであろう。
而して此合併に対する言い草が面白い。稲荷は狐で神ではない。八幡宮に合併して神殿を毀っても祟りはない。山上は魑魅であるから斯る迷信的のものは破壊せねばならぬというのである。
(同書 p.57)
官吏達は、ただ神社を合祀しただけでなく、御神体のなくなった神社の建物や境内の森林を破壊したようなのだが、ただ合祀することが目的であったならば社叢を破壊することまでは必要なかったはずだ。なぜ彼らは神社の自然環境破壊にそれほどまでに熱心であったのか。
白井光太郎は同書で次のようにその事情を記している。
試しに我が農科大学付近に於ける神社合併の事情を探って見るに、荏原郡世田ヶ谷村、大崎村、目黒村等は率先して合併を実行した様であるが、其神林を公売し社地を売買する手続きに随分いかがわしい風聞があるので、例えば一坪十五円に売る地面を登記面には十円としてその差額は公官吏世話人らの手数料酒肴等になりしとのことである。神木を売却する時も同様土地の人民は神木に恐れを懐き、手を出す者が無いのを幸いに、他所から買人を伴い来て、好い加減の値段を付け、其間に不正の手段に依り多額の金銭を着服するものである。之は全国一般に於ける合祀熱の熾(さか)んな眞原因で、其金は村民の有ともならず、神社の基本ともならず、一部の奸譎の徒の私腹を肥やすにすぎぬとは驚くべきではないか。上の好む所下之より甚だしということがあるが、実に意外千万のことである。是程迄も弊害のあることを当局者から何とも処分しないとは頗る怪訝に堪えない次第で、改めざるを得ないことである。
(同書 p.60)
白井光太郎の記述が正確であるかどうかについては今となっては検証が困難だが、学術誌に書いた文章に政治的意図があったとは考えにくい。
邪悪な官吏が私腹を肥やすために神社を破壊したというのが真相だと明確に書いているのだが、おそらくその通りであったのであろう。すくなくとも、庶民の大半は破壊の原因をそのように考えていたのではなかったか。
神社合祀を推進した平田東助とはどのような人物であったのか
明治時代の官僚には立派な人物もいたがひどい奴もいた。以前私のブログでレポートした通り、廃仏毀釈の時も堺県や奈良県の知事を務めた税所篤は寺院の宝物を私物化し、高値で売って私腹を肥やした。文明開化の時に寺や神社などの樹木を伐採し景観を台無しにしたのも、同様な連中が同様な動機で行ったのではないかと私は考えている。
神社合祀を推進した平田東助については、悪い噂が多い人物であることは少し調べればわかる。例えば大正3年の林喜一の著作には平田の脱税の手口が記されている。
また、園田義明氏の『隠されたクスノキと楠木正成』によると、「神社合祀は樟脳専売事業と大きく関係し、その両方を推し進めた当事者こそが平田東助だった」と書かれている。平田東助は明治三十五年(1901年)第一次桂内閣では農省務大臣として入閣し、明治三十六年(1902年)に内台共通樟脳専売法案を提案可決させ、第二次桂内閣の時に内務大臣として神社合祀を強引に進めた当事者なのである。
当時樟脳はセルロイドの原料として使われ、映画や写真のフィルムの材料としても使われていて、わが国は樟脳の世界需要の7~8割を生産していた。今では合成樟脳で間に合うのだが、昔は樟脳を生産するにはクスノキが原料として必要であった。ところがクスノキの乱伐の影響で、明治の末期には樟脳価格が高騰していたために、手つかずのままのクスノキの大木が数多く残されていた三重県や和歌山県の鎮守の森が明治末期に狙われたというのである。
当時のデータで検証することが困難なので断言することは出来ないが、確かにこういうことがなければ、両県の神社の鎮守の森の多くがわずか数年で失われてしまったことの説明がつかないであろう。 売られたのはクスノキだけではないのだが、和歌山の鎮守の森の樹木が高値で売り払われたことは確実なのである。
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