イギリスの極東政策の変化
引き続き斎藤榮三郎『英国の殖民政策』(GHQ焚書)の内容を紹介させていただく。前回は第一次世界大戦の間にわが国が対支貿易を急増させイギリスの対支貿易額と並ぶ推移順にまで迫ったことで、イギリスはわが国を制約するためにアメリカと提携し、対支政策を大幅に変更してきたことを書いた。

今回は、同書の中でイギリスの外交について記されている部分を読み進むことにするが、わが国だけでなく世界においても、イギリスの外交方針の影響を受けて大きく動いてきたことが見えて来る。
英国外交の基調は実利主義である。常に利害得失を基調として外交が行われる。
英国は欧州諸国の国力が常に一定の限度――具体的に言えば、英国の欧州に持つ実力以下の程度に止まることを必要とし、この必要に応ずるために、常に欧州大陸諸国との関係を自由に伸縮し、ある時はドイツを押さえるために仏ソ両国を援け、ある時はフランスを制するためにドイツに力を貸すという有様で、英国こそ以夷制夷政策の本家である。この本領は極東政策にも遺憾なく発揮された。
今日本との関係を見よう。一八九四~五年の日清戦争によって、清朝政府の無力を知るや、従来の対支援助、日本圧迫の政策をなぐり捨て、日本と友好関係を結ぶことにより、日本を極東に於ける英国権益の忠実なる番犬とした。この番犬としての日本が国力を賭してロシアと戦っている時にも英国は悠々と対支経略を続行した。英国の対日援助は、日本側から見れば、日英同盟のよしみであるといって感謝しているが、英国側にしてみれば、ロシアの南下を防ぐために日本を利用しているに過ぎない。
かくて日本がロシアに大勝した結果、英国の支那、インド征服は非常に容易となった。
斎藤榮三郎『英国の殖民政策』大東出版社 昭和14年刊 p.269~270
「以夷制夷」とは敵国を押さえるのに自国は戦わずに別の国に戦わせて利益を得ることを言うが、この戦い方は支那ではなくイギリスが本家本元であり、日露戦争はイギリスがロシアの南下を防ぐために日本を利用したという指摘は正しいと思う。では第一次世界大戦ではイギリスはどう動いたのか。
一九一四~八年の欧州大戦にも英国は日本を利用したが、日本の国力の発展はいつまでも英国の極東権益に対する番犬的地位にとどまってはいなかった。従来の忠順なる日本は英国にとり一大敵国となった。そこで一九二一年のワシントン会議を契機として日英同盟の廃棄ならびに米国との提携を敢行し、更に支那に対する九ヶ国条約をつくりあげて日本勢力の対支進出防遏に備えた。
爾来英国は日本勢力の発展防諜に非常な警戒を払い、海軍力縮小並びに太平洋防備制限など軍事的に積極的に極東の現状維持を図ると共に、経済的、政治的に対日牽制の方針を堅持している。
即ちスターリン独裁政権の基礎一応整い、ソ連国内の各種建設工作の進展するに伴い、英国はソ連との国交調整を行い、欧州に於ける対独政策に利用するとともに、日本牽制に利用した。…中略…
また支那に対しては、一九二七年蒋介石を中心とする国民党政権が南京に樹立され、浙江財閥を媒介として上海の英国系金融資本とも国民党政権とが緊密な関係を結び、これによって同政権が支那の中央政権としてその支配権を拡大する可能性が明瞭になるや、英国はこの蒋政権を援助することによって、その支那に対する帝国主義的攻勢を強化する一方、この蒋介石をして日本の支那進出を防止させた。かくて英国は支那事変勃発後は益々その援支反日態度を明確にし、支那抗日勢力に対する軍事的、経済的援助指導を強化するとともに、国際外交に於いてもジュネーヴ、ブリュッセル両地の国際会議並びにパリ、ニューヨークに於ける仏米との個別的折衝に於いても反日共同戦線の結成にあらゆる努力を払って来た。かくの如く英国の極東政策は支那の抗日運動との間に深い関係があり、英国の政策を無視しては支那の抗日の実相を把握できない。
同上書 p.270~271
支那を支配するサッスーン財閥
第一次世界大戦のあと在支のイギリス首脳は、落日の傾向にある在支イギリス勢力回復のために、イギリス系ユダヤ人富豪の対支進出を熱心に勧誘したという。当時インドでは国民会議党の指導権がガンジー一派の消極的反英から積極的反英のネール派等に移り、多くの在インドユダヤ富豪はインドに見切りをつけ始めており、支那に本格的に投資をすることを決めたのが、のちに「東洋のロスチャイルド」と呼ばれたサッスーン一族である。サッスーン商会はアヘン戦争後の南京条約で支那市場が開放された後に上海に進出し、インド産のアヘンを清国で売ることで巨万の利益を上げてきたが、インドの次の投資先として支那に狙いを定めて本格的な投資を開始したのである。
かかる背景の下にサッスーン一族は昭和四年(1929年)、資産総額三十億ドルの三分の一を携えて東漸し、香港および上海に本店を置いて支那開発に乗り出して来た。
サッスーン財閥はユダヤ民族のお得意とする「投資五十年計画」の信条に基づき、まず最初の二十五年間は専ら投資時期として、二十六年目からの好機を利潤獲得期とし、合計五十年を経済的一単位とみて、まず以て長期遠大の事業を開始した。
彼らはつとめて支那政府当局者とともに共同事業に全力を傾注し、勢い必要の折々に施政者の権力を自由に利用できるように心がけた。…中略…かくて昭和十二年(1937年)七月、彼等一族の上海国際租界に有する資産のみでも十二億ドルと推算されていた程であって、金融土地売買貿易などあらゆる経済事業を営み、蒋政権の国民政府建設事業にしてサッスーン財閥と没交渉のものは絶無と評されるに至った。
同上書 p.292~293
1929年の10億ドルの現在価値をGrokに聞くと、189.5億ドル程度で、日本円にすると約3兆円に相当し、1937年の12億ドルの現在価値は270.1億ドル程度で、日本円にして約4.2兆円との回答であった。サッスーン財閥が支那で投資していたのは上海だけではなく香港にも巨額の投資をしていた。
投資した企業や銀行等に利益が出るようになると新たな投資先が必要となるのだが、サッスーン財閥が目を付けたのは新興国の満州であったという。当時ドイツではユダヤ人が排斥されており、五十万人の在ドイツのユダヤ人を満州に移民しようとする計画が立てられていたという。しかしながら、その計画が挫折したために、ユダヤ人は日本人に対する観方を厳しくすることになるのだが、この問題は支那事変にもつながる重要な問題であることを著者は指摘している。
彼らは満州国の民族協和精神を讃美し、日本の大アジア主義を礼賛し、彼等ユダヤ人も民族の一員として当然これに参加し得るとの理由で、あらゆる方面に働きかけた。
彼らの満州に対する計画としては、サッスーン投資会社はかなり大規模の満蒙畜産事業を計画し、またサッタレー商会その他上海ユダヤ人の満州投資熱は盛んなものであった。
上海、アメリカンジュース協会は、昭和十年(1935年)四月十九日、米国協会長ウィリアム・グリーン氏の声明書を受け取り、上海同族間に次の如き檄を飛ばして鞭撻した。すなわち
『イスラエルの公民を排斥するドイツの暴行に対抗し、ドイツ商品の不買を盟約せよ。ドイツより追われたる公民安住の地は新生満州国にあり』と。これに類似した証拠は非常に多く、如何に熱烈に満州をねらったかが分かるが、満州国のユダヤ人に対する措置は、赤化思想防遏という見地に立脚して、彼等ユダヤ人の入満を拒否した。
こうなると『可愛さ余って憎さ百倍』という訳、ユダヤ人の満州に対する経済的陰謀が実現できないのは、日本のためだとばかり、『江戸の仇を長崎で』というやつで、支那事変の前後に於ける彼らユダヤ人の対日攻勢となり、幣制改革、銀国有となったのだ。
同上書 p.299~300
満州国の民族政策は日本、朝鮮、満州、蒙古、漢(支那)の五民族の人々が協調して暮らせる国を目指すことにあったのだが、満州国は共産主義思想の拡散を防ぐためにユダヤ人の入国を拒否している。この決定にどこまで日本が関与したかは不明だが、ユダヤ人は日本が同胞の満州移住計画を阻止したと解釈し、その後対日攻勢を強めていくことになる。
巧妙なる英国外交政策

英国は植民地獲得戦に於いて諸国を圧倒してきたのだが、すべてを軍事力で獲得したわけではない。世界全土にまたがる植民地保全のためには軍拡も必要だったが、英国は戦争というよりも巧妙な外交政策が功を奏したことを著者は指摘している。戦後のわが国の歴史叙述は、戦勝国にとって都合の良い綺麗ごとの歴史ばかりなのだが、以下のようなイギリスの巧妙な外交政策について政治家や官僚、財界人はもっと学んでほしいと思う。
第一に、英国は利害と人道的理由を一致することが巧妙である。…中略…
欧州大戦(第一次世界大戦)に際しては、ドイツがベルギーの中立を破ったのを名として参戦したのだが、実は新興ドイツの商品に英国商品が駆逐されていたので、実にドイツを帝国主義、侵略主義軍国主義の権化と宣伝して、ドイツをして世界を敵とする苦境に追い込んだのである。第二は、事に当たっては、敏感によく真の敵を認識して、それに対する態度が機宜を失わないことである。…中略…
近くは欧州大戦前の英国外交にその好例がみられる。百年来英国の敵はロシアであった。ドイツに対してはむしろ好意的であった。ロシアの東洋政策に対しては日英同盟を締結し、日露戦争に対しては、同盟国としてわが国に援助を与えた。ロシアは日露戦争に敗れて意義揚がらず英国に対する脅威は少なくなったが、その前からドイツが急激に発展し、英国の脅威となった。そこで英国は多年の敵であったロシアを味方にしてドイツに備えた。即ち英国が日英同盟を締結してロシアに向こうに廻したのは一九〇五年であったが、英露協商の成立したのはわずかにその二年後の一九〇七年である。
ロシアがバルカン半島に南下する野心に対し、トルコを援けてそれを妨害することは英国百年来の外交方針であったのに、ドイツに備えるためにロシアと握手した。…中略…
英国がドイツに好意的であったのは、それが自国の利害と一致する間の事柄であって、一度ドイツが英国を驚異するようになれば、百八十度の転向は平気だし、昨日の友も今日は敵にするのだ。第三に英国は外交、戦争の何れに際しても、大局に目を注ぎ、常に自国の利害を見失わない注意深さを持っている。…中略…
英国にとっては戦争は一つのビジネスである。興奮してあせって開戦する様なことは絶対になく、おちついて形勢が英国に有利に展開するのを待って猛然として立ち上がる。戦争の目的達成を第一のことにする。ただ勝つために戦うのではなくして、或る目的のために戦うという態度がはっきりしている。欧州大戦の際、わが国が青島を攻撃した時、英国は西方の戦線が急を告げたにもかかわらず、青島攻撃に参加した。
日本の兵力だけでも青島攻撃には充分であって英国兵は手足まといに過ぎなかった。それなのに英国が出兵したのは、将来の発言権を留保するためのものであった。第四に英国は相手を孤立させ、反対に自分は出来るだけ単独に相手に当たることを避け、他の協力を得て自国の利益を擁護していく。
イスパニアを倒すにはオランダと協力し、オランダに当たるにはフランスを利用し、フランスを挫くためには何回か諸国をかりたてて対仏同盟をつくった。
欧州大戦ではこの政策が素晴らしい成功を収め、ドイツは全世界を敵にして敗戦した。英国はこの政策によって大帝国を建設した。…中略…第五に国民性として粘り強いことである。
日本人は熱し易く冷め易いが、英国は熱し難いが、また容易に冷め難く、鈍重だが一度やり出すと最後までやりとげる。
物あきをしない事と関連して、内閣の寿命が長く内閣が代わっても外交政策に一貫性があり、他国の様に政策の動揺によって損失を招くことがない。…中略…
同上書 p.325~330
イギリスはどこかの国と敵対する時は単独では動かずに、第三国を巻き込むか国連を巻き込むなどして敵対国を孤立化させるように動いて来た。わが国は何度かその被害に遭ってきた。今のイギリスにはそのような力はないが、同様な外交政策を行う国は今でも存在しているし、今もわが国は狙われているのではないのか。
わが国以外の多くの国に対しては、性善説の外交はまず通用しない。いくら資金援助しても感謝もされずに、更に毟り取ろうとするような国はそもそも相手にすべきではないだろう。
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