高山寺

達身寺の次に真言宗の高山寺(丹波市氷上町常楽50-1)に向かう。寺伝によるとこの寺も常勝寺と同様に法道仙人が開基したと伝わっており、かつては弘浪山山頂に堂宇が建てられた。その後仁平三年(1153年)の兵火で堂宇を焼失し荒廃するが、文治五年(1189年)に源頼朝の命を受けた重源により七堂伽藍が整備され十ヶ寺を超える末寺が建立され、その後後鳥羽天皇の勅願所となった。南北朝時代の戦乱で再び荒廃し、永正六年(1509年)に復興されたが、戦国時代の兵火でほとんど焼失してしまう。
豊臣秀吉が大砲を鋳造するために丹波国氷上郡内の梵鐘を集めた際に、今回の旅行で最後に訪問する柏原八幡宮の社僧の眼に触れ、社僧が秀吉に願い出たことによりその梵鐘が柏原八幡宮に寄進されたという。柏原八幡宮には今も高山寺の銘がある梵鐘が残っている。
その後慶長五年(1600年)に再興されたが、昭和九年(1934年)の室戸台風で多くの堂宇が被害に遭い、昭和三十三年(1958年)になってに山頂での寺の維持が困難と判断し、本堂、山門、庫裏を現在地に移築したという。

移築された山門は享保五年(1720)弘浪山山頂に建立されたものだという。

参道の両脇を中心にイロハモミジが植えられていて、参道がもみじのトンネルのようになっている。夕刻には石灯籠に点灯されるそうだ。

境内はかなり広く、参道から少し離れたところも美しい紅葉を楽しむことができる。

移築された本堂は、享保十四年(1729年)の建立と伝わっている。
円通寺
曹洞宗の円通寺(丹波市氷上町御油983)に向かう。この寺は室町幕府第三代将軍足利義満が、後円融天皇の勅命を奉じて永徳二年(1382年)に開基したと伝わっている。

戦国時代に織田信長より明智光秀が丹波攻めを命じられ、この寺も攻撃される危機に直面したのだが、寺伝によると地元の国人荻野喜右衛門が光秀の本陣に赴いて円通寺への攻撃を取り止めるように必死に説得し、攻撃を免れたのだそうだ。現在の本堂や庫裏は天保十一年(1840年)に再建されたものである。またこの寺は高源寺、石龕寺とともに「丹波紅葉三山」のひとつとして知られている。

この寺も参道の両脇に多くのモミジが植えられており、トンネルのようになっている。訪問したのは11/20だが、まだ紅く色づいていない枝も多く、もう少し紅葉が楽しめそうだ。

上の画像は円通寺の山門だが、左右に仁王像が参道に垂直に向き合うようにして安置されている。

境内に樹齢七百年の円通寺大杉がある。幹回りは六メートル、樹高は二十五メートルと案内板に書かれていた。かつてはこのあたりに賀茂大明神という神社があり、この杉は神社の御神木であったそうだが、円通寺の創建に伴い北田井に「賀茂神社」、北御油に「賀茂野神社(現:神野神社)」に分祀されたという。

御本尊の如意輪観音像は、後小松天皇が自ら南北朝合体を祈願して一刀三礼で彫り、当寺に下賜されたものであると伝えられる。本堂の裏には樹齢三百年のたぶの木と、樹齢二百年のいとざくらの木がある。
本堂の中で寺宝が展示されていたので拝見して来た。明智光秀が円通寺を攻撃しない旨約束した光秀直筆と伝わる文書のほか明治の廃仏毀釈に抗した円通寺第四十世の日置黙仙禅師の資料などがあった。それによると、黙仙師は明治三年に鳥取県の中興寺という寺の住職となり、その二年後に鳥取県から、寺の建物を学校に充てよとの一方的な命令に反対したことから二十一日間収監されたという。その後明治六年に廃仏毀釈の最中に円通寺開かれた兵庫県主催の研修会ので講師となったことの縁で翌年に円通寺第四十世に就任した。当時の円通寺の伽藍は大破しており、僧侶も食べるのがやっとの状況であったそうだ。黙仙師は寺の復興に努められ、勧進帳で丹後丹波但馬地区を行脚し、明治十三年に寺の大修繕に着手された。のちに曹洞宗の管長になられたというから、立派な僧であったに違いない。
柏原藩陣屋跡など
旅行の二日目は丹波市柏原町に向かった。柏原町はかつて柏原藩が存在していた地域である。

柏原藩は織田信長の弟・織田信包が、伊勢国安濃津から柏原に移封された際に立藩し初代藩主となり、慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いで西軍に与したにもかかわらず改易を免れ、その後第三代藩主・織田信勝が慶安三年(1650年)に嗣子無くして死去したために柏原藩は一度廃藩となっている。
しかしながら元禄八年(1695年)に信長の次男・織田信雄の五男である織田高長の曾孫で大和国宇田松山藩五代藩主の織田信休が柏原に転封となり、丹波柏原藩の初代藩主となっている。その後織田家による藩政が第十代織田信親まで続き、明治四年(1871年)の廃藩置県で柏原藩は廃藩となり、柏原県となってすぐ豊岡県に統合され、明治九年(1876年)に兵庫県に統合されている。
柏原藩は小さな藩ではあるが、柏原町には柏原藩の史跡がいくつか残されているので巡って来た。

上の画像は太鼓やぐら(丹波市柏原町柏原141)で、丹波市の文化財に指定されている。現地の案内板によると、最上部には「つつじ太鼓」という太鼓が吊るされていて、この太鼓は織田信休が大和松山藩で使っていたものを国替えの際に持ち込んだという。当時は時報や警報に用いられ、火事の時は三点打、山火事と出水は二点打だったという。かつては大手門付近にあったそうだが明治初期に現在地に移されたようだ。

柏原藩陣屋跡を見学する前に、向かいにある柏原歴史民俗資料館(丹波市柏原町柏原672)に行く。入館券は柏原藩陣屋跡と共通である。資料館には柏原藩や織田家に関する資料や、柏原出身の俳人・田ステ女の資料が展示されている。上の画像は長屋門である。この門は正徳四年(1714年)に織田信休が藩邸を造営した時の表御門で、左側が番所で右側は馬見所と砲庫であったという。藩邸には七つの門が構えられていたが、この門だけが現存している。

織田家の居館であった柏原藩陣屋跡(柏原町柏原683)は国史跡に指定されている。文政元年に全焼したため、その二年後に再建されたものが今に残されている。明治四年の廃藩に伴い敷地が学校や病院などに利用されたため、建物の大部分が破却され、残されたのは表御殿の一部と長屋門だけである。かつての柏原藩陣屋の模型が民俗資料館にあるが、現在残されているのは面積にして五分の一程度に過ぎないことがわかる。

柏原藩陣屋跡は明治五年以降九十年近く小学校校舎の一部として利用されていたそうだ。内部は驚くほど広いのだが、掛け軸や屏風のようなものは残されていない。上の画像は上段の間。

柏原藩陣屋跡の北隣にあるたんば黎明館(柏原町柏原688-3)。この明治十八年に建物は氷上郡各町村組合立高等小学校(八年後に氷上第一高等小学校に改称)として建てられたもので、明治四十二年には氷上郡立高等女学校の校舎となり、大正十一年には県立柏原高等女学校となって昭和二十三年の学制改革で柏原高等学校に合併されるまで、氷上郡・多紀郡・多可郡の女子中等教育の場であった。その後様々な用途で用いられてきてたが、平成二十一年に県有形文化財となり、耐震工事や改修工事がなされて、明治十年代の建築当時の外観を残しながら今も会合や講演会などで利用されている。入場は無料である。

私も小学校四年までは木造の校舎で木のぬくもりを感じながら学んだので、このような建物に入ると子供の頃のことを懐かしく思い出してしまう。

二階にある講堂。こんな素敵な場所が割安な料金で利用できるのが羨ましい。こういう建物を見学すると、昔の地方は今よりもはるかに豊かであったことが見えて来る。地方を衰退させてきたのは、都会資本の大企業を優先して地方の経済を切り捨てて来た政治に問題があるのだろう。地方に仕事があれば地元に人が残り富が残る。それが、人と富が地元から都会に流れ、今では都会に入り込んだ富の多くが海外に流れている。このままでは地方は衰退し、地方文化も失われて行くばかりではないか。経済合理性の追求は決して国民を幸せにはしないだろう。そろそろ今の流れに歯止めをかけてほしいものである。

上の画像は兵庫県天然記念物の木の根橋。樹齢千年とも言われる大ケヤキの根が、幅六メートルの奥村川をまたいで橋のようになっている。
柏原八幡神社
最後に訪れたのが柏原八幡神社(柏原町八幡山)。この神社のモミジは決して多くはないが色鮮やかで、神社の風景に良くあっている。

柏原八幡神社は、平安時代の万寿元年(1024年) に京都の石清水八幡宮の分霊を祀った柏原別宮として創建されたのち、貞和元年(1345年)の南北朝時代の争乱により社殿が焼失。間もなく再建されたが戦国時代の明智光秀の丹波攻めの兵火でふたたび焼失し、その後羽柴秀吉が黒井城主の堀尾吉晴に社殿の造営を命じて天正十三年(1585年)に現在の本殿(国重文)が竣工している。社殿の後ろには神社には珍しく三重塔が残されている。

本殿の手前の狛犬一対は柏原の石工・丹波佐吉(村上源信)の代表作とされ、丹波市の文化財に指定されている。

石をこんなに滑らかに、美しく加工できるものだといつ来ても感心する。

この神社の魅力は何と言っても素晴らしい三重塔(県指定文化財)。ここでは神社の象徴的建造物である鳥居や本殿の背後に、仏教の象徴的建造物である三重塔が聳えるという、珍しい光景を見ることが出来る。また、塔の前にある鐘楼の鐘は、前述した通り、もとは高山寺にあったもので兵庫県指定重要文化財である。
明治の神仏分離が行われるまでは神仏習合であり、鳥居や拝殿、本殿と本堂や仏像や鐘楼、仏塔が同じ境内の中に存在しているのは普通のことであったのだが、今ではこのような風景を神社の境内で見ることができるのは全国でわずかしかない。私が今まで訪れたところを列記すると、近畿では兵庫県には柏原八幡宮のほかに名草神社、六條八幡宮、奈良県では談山神社、滋賀県では邇々杵神社が該当するが、他には広島県の厳島神社、長野県の新海三社神社、若一王子神社、栃木県の日光東照宮だが、あとどれくらいあるのだろうか。これらは廃仏毀釈の時代の危機をくぐり抜けた「生き残り」と言っても良い貴重な文化財で、これらを残すために当時の地元の人々は相当苦労したに違いないのだが、残念ながらそのような記録はほとんど残されていない。
丹波の廃仏毀釈については『神仏分離資料 第三巻』に、次のように記されている。
丹波は廃仏毀釈の気焔が盛んであった。織田氏、九鬼氏の領は、実際寺院を破却した。今柏原地方の寺院に梵鐘の存しているのは極めて稀である。殆んど皆毀れたものであるそうな。鐘楼だけ残っているのが、殊に哀れに見られるのがある。(明治四十五年七月八日発行、仏教史学第二編第四号所載)
『神仏分離資料 第三巻(復刻版)』名著出版 昭和45年刊 p.1031
「織田氏の領」と言えば柏原藩であり、多くの寺が破却され梵鐘の大半が壊されたことが窺えるのだが、柏原八幡宮の三重塔や鐘楼がどういう経緯で残されたのかについて一次資料となる記録は残されていない。しかしながら柏原八幡宮のホームページにヒントとなる解説がなされている。
神仏分離令により、神宮寺である乗宝寺に仏像・経典等を移し、文化財が破却される事無く円満に神仏分離がなされる。その際境内の三重塔は「八幡文庫」として、鐘楼は「時の鐘」として破却を免れる。
三重塔と鐘楼について、もし柏原八幡宮の神宮寺である乗宝寺のものであると主張していたら、柏原の他の寺と同様に破壊を免れなかったのだろう。神戸新聞社編『故郷燃える : 兵庫県・近代の出発 第3巻 (維新編)』によると、織田家の菩提寺であった徳源寺もこの時期に廃寺になっており、柏原八幡宮の神宮寺であった乗宝寺については「仏具、仏像だけを以て社外に追い出されたが、政府に陳情して、やっと八幡宮の山麓にあった東光院にはいることを許され、乗宝寺の看板を掲げた。近村にある末寺から、観音、不動尊などを持ちより、どうにか寺の体裁を整えた。むろん三つの末寺はこのときに廃寺となった」(p.304)と書かれている。
織田家は明治政府の言いなりだったので頼りにならず、そこで柏原の人々は知恵を絞り、三重塔を「八幡文庫と称するもので塔ではない」とし鐘楼を「時の鐘として使う」と強引に主張することで文化財を守り抜いたものと考えられる。
神仏習合時代の風景のままに残された柏原八幡神社の美しい紅葉を最後にカメラに収めて、二日間の丹波の旅行を終えることにした。
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