前回の記事で石上神宮と内山永久寺のことを書いたが、今回はその後訪問した談山神社のことを中心に書くこととしたい。
奈良県桜井市の南方に拡がる山麓一帯を多武峰とよぶが、談山神社(奈良県桜井市多武峰319)はその山頂付近にあり、藤原鎌足が祀られている。
談山神社の歴史と社殿
藤原鎌足と言えば、中大兄皇子と共に蘇我入鹿を討伐した(乙巳の変)ことで知られるが、この神社の西方の末社・比叡神社本殿の横から山道を登ると「談所の森」があり、そこで藤原鎌足と中大兄皇子が蘇我氏討伐の為に計画を練ったとされ、「談山」という名はこの言い伝えによるものだという。
藤原鎌足は死後大阪府高槻市にある阿威山に葬られていたのだが、談山神社の社伝によると、唐から帰国した鎌足の長男・定慧が鎌足の遺骨の一部を多武峰に移し、十三重塔とお堂を建立して妙楽寺と号したという。妙楽寺の聖霊院には鎌足の木像が安置され、平安時代の延長四年(926年)には総社が創建され談山権現の勅号が下賜されて、長きにわたり神仏習合が行われてきたのであるが、多武峰には神職がおらず、神事に奉仕して祝詞を奏するのは僧侶であったという。
ところが明治維新政府によって神仏分離令が布告されると、妙楽寺は本尊鎌足を神格化した故に、その本尊を守るために復飾・神勤するか、寺院であることを貫き下山するかの選択を迫られることになる。山内で議論の末僧侶たちは還俗して神職となり多武峰は鎌足の霊を祀る神社として存続することに決し「談山神社」と改称したのである。
神社として残った場合には、仏堂や塔は破壊されるのが通例なのだが、談山神社は時間をかけて奈良県庁と交渉し、それぞれの仏堂を神社の殿舎名に改称して建造物をできるかぎりそのまま残す方策を取った。たとえば十三重塔は神廟、講堂は神廟拝所、聖霊院は本殿などと呼んで建物を残すことを県庁役人に認めさせたのである。

上の画像は江戸時代末期に描かれた速水春暁斎・画「多武峰之圖」だが、建物の配置は現在の談山神社とあまり変わらず主要なものは残されている。また諸堂の仏像や仏具は灌頂堂に集められたのち、売られたり寄付されたりしたのだが、唯一残された仏像がありその仏像については後述する。また他の仏像については有名寺院に移されたことが判明しておりその点についても後述することと致したい。

拝観受付を済ませて鳥居をくぐると長い階段がある。階段の途中で左に進み神廟拝所に進む。この神社のでは内部撮影が許されているので有難い。

神廟拝所(江戸時代再建:国重文)は前述の通り、飛鳥時代に定慧が創建した妙楽寺の講堂であった建物だが、現存の建物は寛文八年(1668年)に再建されたものである。外見は寺の建物だが内陣はすっかり取り払われていて、中央には藤原鎌足像、向かって左側に藤原不比等像、右側に将軍地蔵像が祀られていた。藤原不比等は鎌足の次男であり、将軍地蔵は鎌足公の化身として信仰されてきたという。壁面には羅漢と天女の像が描かれている。かつては妙楽寺講堂本尊として阿弥陀三尊像が祀られていた。

神廟拝所の西に末社総社拝殿(江戸時代:国重文)があり、福禄寿が祀られている。この建物も寛文八年(1668年)に造営されたものである。
また神廟拝所と末社総社拝殿に挟まれた広場を蹴鞠の庭といい、ここで毎年四月二十九日と十一月三日に蹴鞠祭が行われるという。大化の改新の立役者である中大兄皇子と藤原鎌足は元興寺(現飛鳥寺)の蹴鞠会に参加し、蹴鞠を蹴った中大兄皇子の沓が脱げて飛んでしまったのを鎌足公が拾い上げ恭しく差し出したことから二人の身分を越えた親交が始まったと伝えられているという。

十三重塔(室町時代再建:国重文)も妙楽寺の創建時に定慧が父・鎌足の為に建てたと伝わっている。現存のものは享禄五年(1532年)の再建で、現存する唯一の木造十三重塔である。

上の画像は楼門(室町時代:国重文)。向かって右には拝殿(室町時代:国重文)、左には本殿(江戸時代:国重文)がある。

上の画像は藤原鎌足公を祀る本殿(江戸時代造替:国重文)で、かつては妙楽寺の聖霊院であった。大宝元年(701年)に建てられて、現在の建物は嘉永三年(1850年)に造替えられたものだという。

鎌倉時代に制作された秘仏の談峰如意輪観音菩薩坐像が毎年六月と七月に特別開帳され、七月末日まで観音堂でガラス越しではあるが見ることが出来る。興味のある方はこの時期に拝観されることをお勧めしたい。
妙楽寺の寺宝の行方
前述した通り妙楽寺の建物の大半は談山神社に残されているのだが、仏像、仏画などの多くは流出してしまった。
前回記事で内山永久寺の仏像仏画の処分に堺県令であった税所篤が食指を動かしたことを書いたが、妙楽寺の寺宝についても同様の動きがあったようだ。『明治維新神仏分離史料 巻下』に高柳光壽と辻善之助が書いた「多武峰の神仏分離」という論文が収録されている。それによると堺県から何度も仏像の処分を要請されていたことが書かれている。
一山における伽藍の仏体の処分は、境内地即ち伽藍の分は、これを取り出して灌頂堂に集めて置き、子院の分は、これをそれぞれ各子院において処分させた。
灌頂堂に集められた仏体を見ては、心ある者はこれを惜しまざるなく、中には金五円を収めて、これが供養を依頼したものすらあったということである。この仏体は、堺県からしきりに取退け方を命じてくるので、ついに安倍の文殊院へやってしまった。(中には隠してあったものもあるらしく、先年講堂修繕の際、その天井裏から発見したものもあったという)
文殊院では千躰一仏を造ろうとして譲受けたのであるが、遂に出来上がらず、この中立派なるもの、四天王、勝軍地蔵等数点を西洋人に売却という。また講堂の釋迦涅槃像は、士族即ち旧社僧中へ下賜されたのを旧慈門院陶原氏がこれを売りにだしたところ二十五銭という値段であったので、遂に旧末寺聖林寺へ寄付してしまった。なお、各所にあった石地蔵はこれを取り除けた。…中略…子院でもまた盛んに仏体を処分した。…中略…旧圓城院永井氏方の観音像は、永井氏の直話によるに、永井氏からフェノロサ氏の手に渡り、フェノロサ氏から更に東京帝室博物館の所有に移り、震災前までは、永井氏の許から出たことを記して陳列されてあった。永井氏からフェノロサ氏への売る時に、フェノロサ氏が値幾何と聞いたので、永井氏は指を五本出した。永井氏のつもりでは五円であったが、フェノロサ氏は五十円と取って、五十円で買ったという逸話がついている。これは明治二十二~三年(1889~90年)のことであった。
また旧教相院佐伯氏方の金岡筆と伝えていた地蔵曼荼羅は、佐伯氏の自話によれば、奈良の大隅へ僅か十円で売ったということである。旧華上院の六条氏がこの話を聞かれて居て「大隅は多武峰で大層儲けたと話していた」といわれた。
また佐伯氏の談話によれば、当時仏画は二十五本宛一括にして、一括二十五銭でどんどん売り出した。場所は常住院の客殿でこれを売り出し、大部分は宇陀の古物商に売った。それは明治七、八年(1874~75年)の頃であったという。仏具類もまた処分されたことは勿論である。輪蔵にあった明版の一切経は京都の小川柳枝軒に売却したという。…この経の箱は旧般若院舟橋氏方に残っているという。これはわずか一例に過ぎないが、仏具の類が仏像と同様のわけもなく散逸したことは、十分に想像される。しかしながら、仏像仏具の類が全部が散逸したのではなく、今に神社の所蔵となって残っているものもかなりあるのである。
村上専精 等編『明治維新神仏分離史料 巻下』東方書院 昭和2年刊 p.83~85
奈良県が堺県に統合されたのが明治九年四月で、統合後はそれまで堺県知事であった税所篤がそのまま知事職を務めている。堺県が何度も仏体を取り除けと命じて来る意図は明らかである。妙楽寺の僧侶たちは一同復飾還俗し神職となってはいたが、妙楽寺に伝わる貴重な文化財を二束三文で処分したり県知事に差し出したりすることには抵抗していたものと思われる。というのは『明治維新神仏分離史料 巻下』の上記論文のp.85~90には、「別格官幣大社談山神社古文書宝物什器目録帳」が掲載されており、それを見ると、宝物之部で六十七点、「什物之部」で三十三点と、意外に多くの寺宝が神社で保管されていたことがわかるのである。この論文がいつ書かれたかは明記されていないが、当時(昭和初期?)に於いて多くの妙楽寺の寺宝を談山神社が保有していたということは注目に値する。
これらの寺宝がその後どこに伝わったかについては詳細不明だが、桜井市のホームページによると、絹本著色大威徳明王像(国重文)が東京国立博物館に、紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図(国重文)、絹本著色聖徳太子絵伝(県文化)、増賀上人行業記絵巻 上巻・下巻(市文化)、刀剣等(国重文)が奈良国立博物館、青白磁 唐子蓮花唐草文瓶(市文化)が京都国立博物館に寄託されていることが確認できる。

上の画像は安倍文珠院(奈良県桜井市阿部645)の本堂だが、向かって右に半分だけ写っているのが釈迦堂で、ここに妙楽寺講堂の本尊であった阿弥陀三尊像が安置されている。不思議なことに安倍文殊院では釋迦三尊像(市文化)として祀られているのだが、その理由についてはよくわからない。

s_minagaさんの「がらくた置場」の「大和多武峰妙楽寺」の記事に、安倍文珠院の釈迦三尊像の画像が紹介されている。この記事によると安倍文珠院には妙楽寺の地蔵菩薩三尊像もあるのだそうだが、この仏像が妙楽寺のどの堂宇からの遷座されたのかは不明とのことである。この仏像も同記事に画像が添付されている。
s_minagaさんは妙楽寺やその子院の遺構や仏像・仏画などの行方について、詳しく調査しておられるのだが、一度手放してしまった寺宝は入手ルートが秘匿されていることが多いため、その後の行方を追うことは難しいようだ。

大英博物館に妙楽寺にあったと伝わる襖絵「花鳥之図」の秋・冬の部分があるのだそうだが、春・夏の部分は青森県中泊町の豪農宮越家の詩夢庵にあるという。s_minagaさんの同記事に、両方の襖絵を繋げた画像が紹介されているが、左の四枚が大英博物館蔵で、右の四枚が宮越家の所蔵品だという。
宮越家は大正十一年頃に東京で売り出されていたのを買ったのだそうだが、宮越家のホームページには妙楽寺の名前はなく、狩野山楽が描いたとだけ記されている。一方大英博物館はこの襖絵を昭和十~十一年頃に入手したとされ、狩野派研究家の山下善也氏は両方の襖絵を一連のものと結論したそうだが、作者が狩野山楽かどうかは断定しなかったという。

宮越家は庭園も調度品も素晴らしいところだが、個人宅の為に常時公開はされておらず、毎年春と秋の一定期間だけ公開されるようだ。
今年の春の公開は五月二十三日から始まっており最終日が六月二十九日のようだが、中泊町文化観光交流協会のお知らせによると、この期間に「春夏花鳥之図」が、大英博物館にある「秋冬花鳥之図」の高精密複製の襖絵とともに公開されているようだ。
多武峰妙楽寺由来の襖絵が「百五十年の時を経て再会」するというのは非常に良い企画なので是非行きたいところだが、大病した後なので遠い所へ行くことは難しく日程も厳しいので今回は見送ることとしたい。ただ青森は一度も行ったことがないので、早く体調を整えて、宮越家の一般公開の日程に合わせて一度青森県をゆっくり巡ってみたいものである。
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