聖フランシスコ・ザビエル像の発見
教科書などでおなじみの聖フランシスコ・ザビエル像(国重要文化財)が、茨木市千提寺の民家で発見されたのは大正九年(1920)のことだが、この像を発見したのは藤波大超という郷土史家で、当時は教誓寺(茨木市安元92)の住職であった。
それまでは千提寺が「隠れキリシタンの里」であることは誰も知らなかったのだが、藤波氏は中学時代の教員から、この付近にキリスト教の信仰をつないでいた信徒が存在したという話を伝え聞いていて、何か裏付けになるものがないかと千提寺の集落にある墓地の石碑を一つずつ調べていた。
地元の東藤次郎氏から「おもしろい石がある」と言われて案内された墓石を調べたところ、「慶長八年(1584年)」「上野マリヤ」と刻まれていて、さらに上部には「二支十字」が彫られていた。明らかにキリシタンの墓石である。
藤波氏は他にもきっと何かがあると確信して何度も藤次郎氏を説得すると、藤次郎氏はその熱意に動かされて、とうとう東家の蔵の「開けずの櫃(ひつ)」に収められていた宝物を出してきた。その中に聖フランシスコ・ザビエル像があったのである。
上の画像はザビエル像が発見された東家で、茨木市立キリシタン遺物資料館の横に建っている。
いつ頃千提寺の民家に持ち込まれたのか
ザビエル像には狩野派の落款である壺印があり、狩野派のキリシタン画家であるペテロ狩野源助が描いたのではないかと推定されているという。
しかしながら、この肖像画が由緒ある御用絵師である狩野派の絵師が描いた作品であるならば、もともとは大坂城のような重要な場所にあった可能性が高く、どうして茨木市の山奥の民家で発見されることになったのか気になるところである。
使われた絵具の分析から長崎で描かれたと考えられており、制作時期については、ザビエルが「聖人」であることを示す光輪と、名前の頭に「S.P.」の文字が描かれていることから、ザビエルが列聖された1622年前後という説が有力なようだが、キリスト教に対する徳川幕府の政策を考えると、もう少し早い時期に描かれたと考えるべきだとの説もある。
徳川家康が、江戸・京都・駿河などの直轄地に対してキリスト教布教の禁止と教会の破壊を命じたのは慶長十七年(1612年)で、その禁教令を全国に広げたのがその翌年である。ところが、豊臣秀頼のお膝元である大坂では幕府の禁教令が徹底されていなかったことから、多くのキリシタン武将が大坂城に集まることとなり、慶長十九年(1614年)に大坂冬の陣の戦いが始まっている。
甲山堅著『ザビエルコード』には、「炎上する大坂城から金瓢箪を持ち出した」キリシタン武将・上笠五兵衛という人物の事が書かれており、その男は千提寺やその周辺を領していた土豪の嫡子で、この人物がサビエル像を持ち出したことを匂わせている。その説によると、ザビエル像は武将たちを鼓舞する目的で大坂城に持ち込まれていて、大坂夏の陣(慶長二十年:1615年)で大坂城が落城する前に難を逃れて山間部に隠されたというのだが、特に記録が残されているわけではなく確かなことはわからない。
徳川幕府が本格的にキリスト教の取締を強化したのは元和二年(1616年)以降のことで、元和五年(1619年)には京都六条河原で52名の信者が処刑 (京都の大殉教) されている。
元和八年(1622年)には長崎で55名の信者が処刑 (元和の大殉教) され、その後も各地で多くの信者の処刑が行われている。このような時代背景を考慮すると、ザビエル像が1622年前後に長崎で描かれたとする説にはかなり無理がある。このような時期に肖像画を描くことも、運ぶことも、保管することも、いずれもが命がけとなってしまうからだ。
甲山氏の前掲書によると、ザビエルを「聖人」とする運動はザビエルの死(1552年)直後から存在していて、その運動が本格化したのは慶長十七年(1612年)だという。その頃には、ザビエルの死後六十年の1622年に列聖されることがスケジュール化されていたので、イエズス会が布教の手段として1614年以前に、フライング承知で聖ザビエル像を制作させたとする説が存在するようだ。
キリシタン武将・上笠五兵衛が大坂夏の陣で金瓢箪を持ち出したのなら、同時にザビエル像も持ち出した可能性は否定できないが、ザビエル像が大坂城にあったという記録がないので、この点については何とも言えない。聖ザビエル像が教会のようなところにあったことも考えられるのだが、どこにあったにせよ江戸幕府から禁教令が出された頃には、より安全な場所に隠しておく必要が生じていた。その隠し場所として、山深い千提寺の敬虔な信徒の家が選ばれたということなのであろう。
なぜ茨木市に本物のザビエル像が存在しないのか
千提寺にある茨木市立キリシタン遺物資料館に展示されている聖フランシスコ・ザビエル像は残念ながら複製品であり、本物は神戸市立博物館にある。この貴重な文化財がどういう経緯で神戸に流出してしまったのだろうか。
聖ザビエル像が発見された頃のこと、育英商業学校の校長を務めていた池永孟(はじめ)という人物が、「神戸のような国際大都市にして、美術館の一つも持たないということは、国民教養の程度も察せられて大きな国辱である」と考え、自分で南蛮美術品を展示する美術館を開こうとし、施設に相応しい美術品を収集していた。池永は千提寺でキリシタン遺物が発見された情報を入手すると早速東藤次郎宅を訪ねて、当主に売却の話を持ち掛けた。
当主は先祖が命がけで守って来たものを売却する意思はないと断ったのだが、池永は1ヶ月間何度も東家に通い続けたという。
郷土史家・東實文男の著書に、東家がザビエル像を売却した経緯について、次のように記されている。
「藤次郎氏も『何があっても断ろう!』と、藤波大超氏にも相談して知恵を借りた。そこで浮かんだ案が、当時としては破格といってよい『多額の値段をつければ諦めるだろう!』と思って『三万円』という売値を提示したのであった。この頃の教員の初任給が五十円程度だったから、それは相当の金額である。ところが池永氏は諦めるどころか、垂水にあった別荘を売り払ってその金をこしらえてきたのである。藤次郎氏は『まさか!』と思ったが、現金を前にしてすでに言ったことを撤回するわけにもいかなかった。
こうしてやむなく手放すことになったのであるが、特に『ザビエルの肖像画』ではなく他の遺物でも良かったはずであるのに、池永氏は『ザビエルの肖像画』を選び三万円で購入していった。時は、1935年(昭和十年)のことである。」(東實文男『「茨木」と「竹田」』p.51-52)
池永孟は昭和十五年(1940年)に池永美術館を開館したのだが、翌年わが国は第二次世界大戦に参戦し、昭和十七年(1942年)から米軍による本土空襲が始まっている。戦局が悪化したため昭和十九年に(1944年)に池永美術館は閉鎖されてしまうのだが、翌昭和二十年(1945年)には三度に及ぶ大空襲で神戸市は壊滅的被害を受けたなか、美術館は奇跡的に難を逃れた。
終戦後は美術館の再開どころか、財産税のためにコレクションも切り売りせざるを得ない事態となり、池永氏は美術品が散逸することを恐れて、建物と美術品をすべて神戸市に譲ることを決意した。神戸市は池永コレクションを受け継いで、昭和二十六年(1951年)に神戸市立美術館を開館し、昭和四十年(1965)には神戸市立南蛮美術館と改称。その後、昭和五十七年(1982年)に南蛮美術館と考古館が統合されて、現在の場所(神戸市中央区京町24)に神戸市立博物館が開館されたのである。
池永氏が集めたコレクションはザビエル像のほか、泰西王侯騎馬図(国重文)、狩野内膳筆南蛮人渡来図(国重文)など貴重な作品が数多くあり、久しぶりに南蛮美術を鑑賞しに行きたくなったのだが、調べると神戸市立博物館は現在リニューアル工事が行われていて、今年の11月1日までは休館とのことである。リニューアルオープンされたら早速訪れることとしたい。
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コメント
自己レスで恐縮です。
11月にリニューアルオープンした神戸市立博物館に行ってきました。
現在「神戸市立博物館名品展」(11/2~12/22)が開催されており、池永コレクションの名品などが公開されています。
https://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/main
もちろん、国の重要文化財に指定されている「聖フランシスコ・ザビエル像」も鑑賞できます。
JAFの会員の方は200円の割引がありました。
食事を済ませて、神戸ルミナリエにも行ってきました。ルミナリエは12/15日までです。
http://kobe-luminarie.jp/cont-01.htm