前回の記事で少し触れたが、東京や横浜に本社を構えていた新聞社は各社とも大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で壊滅的な被害を受けたために、関西の新聞記者が関東に出張して各地の情報を収集して報じている。最も早い記事は関東大震災翌日付の大阪朝日新聞である。
一日正午富士火山帯を中心としての激震は被害の範囲意外に広く、本社が殆ど全滅せる通信機関の間を縫うて、凡ゆる方法により辛うじて蒐集したる各種の情報を綜合すれば、沼津附近以東御殿場、駿河駅、箱根、熱海方面の温泉地避暑地より横須賀、横浜、東京方面の惨害は想像の外にして家屋の倒壊死傷者夥しく、随所に大火災起り混乱名状すべからざるものあり。中央、信越の各線も惨澹たる光景を呈せるもののようで、関西各地より打電せる無線電信も東京に於て更に応答せず憂慮に堪えざるものあり。濃尾大震災*以来の震災である。 …中略…
*濃尾大震災:明治二十四年十月二十八日に濃尾地方で起きたM8.0の直下型地震東京市内に於る地震は実に激甚を極め、浅草十二階の大建物凌雲閣は第一に大音響とともに倒壊し、その下にあった数十戸家屋は全部滅茶々々に倒壊し、死傷者多数で惨状目も当てられず。遂に火災を起し午後零時三十分、早くも五六箇所に飛火し、午後九時には猛烈なる南風に吹き巻くられ、四十八箇所に飛火し、猛火は炎々として燃え拡がり、午後十時遥に群馬県高崎市(東京市より二十五里)からも真紅に彩られた焔の空が眺められた(東京発、長野松本経由名古屋着電)…中略…
横浜碇泊中の汽船無線電信より銚子無線電信所への報に依れば、横浜市は大地震と同時に大海嘯(つなみ)及び火災を起し家屋倒壊或いは流失し総ての機関停止され、僅かに碇泊中の倫敦丸無線に依り銚子無線を経て通話するの状態なりと(串本電話)
【潮岬無線電信】日の岬無線局及横浜碇泊船の無線とは辛うじて通信をとりつつある、午後五時半地震は鎮まったが火災は尚お鎮まらず、相生町四丁目の高田商会絹糸部は全滅した(串本電報)
紀州潮岬無線電信所と横浜港碇泊の倫敦丸、巴里丸、無線電信局との通信によると、一日正午頃突如横浜地方に強震あり。同時に大海嘯起りために家屋の流失頗る多く、又火災を起し人畜の死傷も亦多きに上る見込みにて市民は続々巴里丸、倫敦丸に避難しつつあり。これがため東京、横浜間の通信は全然杜絶したるため東京市の状況は判明せざるも恐らくは横浜と同程度と思わる(和歌山電話)…中略…沼津地方は一日午前十一時五十五分から大地震数回あり同地方一帯に亀裂を生じ硫黄の匂ある濁水湧出し海にも硫黄の匂を含んだ泡が浮んでいる、人家の被害は詳かでないが、三島駅附近黄瀬川の鉄橋の橋台は六吋傾斜して危険のため一時運転不能となった。裾野駅以西岩波信号所附近で山崩れあり、線路を埋没したため附近の村民は全力を挙げて修理に努めている。鈴川駅附近の被害は線路の長さ十間、幅二間陥没して軌条は波の如く凹凸を生じている。沼津町では(午後八時)に至るも尚お時時強震あり町民は食うや食わずの状態で僅に身をもって逃れつつある(沼津電話)
神戸鉄道局への報告では震源地は沼津近くらしく沼津にある石造煉瓦造り建物は殆ど滅茶々々に破壊した、沼津、三島間の黄瀬川鉄橋は破損を生じ是が修理は案外手間取るらしいから列車の運転復旧は現在のところ見込が立たぬ、従って上りは東海道線の岩淵まで切符を売って居るが岩淵以東は売っていない。…中略…この地震と同時に三保の松原に高さ九尺余の海嘯が三回に亙って押寄せ、駿河湾一帯の海水は四五尺も増して怒濤を起し、附近に出漁中の漁船その他の船舶はその揺波のため一所に打寄せられた(静岡電話)…以下略…
大正十二年九月二日 大阪朝日新聞 神戸大学新聞記事文庫 災害及び災害予防3-1
一日遅れて大阪毎日新聞が関東大震災を報じている。横浜の惨状を目撃後、二日に神戸に到着した英国船の船長の証言が出ている。
横浜の震災を目の当り見て二日午後五時神戸に入港した第一船英国青筒汽船会社のヒロワクテッツ号(一万三千噸)の船長ダブリュ.エッチ.ブロパート氏は語る『本船は先月二十九日朝横浜に入港し九千噸の雑貨の中約七千噸を陸揚げしたが、一日正午ごろ陸上でポンポン発砲するような音が響き、その度に発火し見る見る中に火の柱が本牧を中心に四方に拡がって全市の空は濛々黒煙に蔽われ、火は間もなく荷役の艀船に飛火し、夫が燃えつつ沖に流れ出で、本船にも五隻近づいて来た。その上煙で海上が暗くなったのでコリャ大変と思っている時ロンドン丸が青筒のライキヤ号に衝突し又本船に接触して来たので、港外に避難するにしかずと思って同日二時半に港外に逃て碇を投じ暫く様子をうかがったが、火柱はますます多く危険はますます迫るので四時半神戸に向って出帆した。防波堤も検疫所も破壊されたが灯台だけはマダ残っていた。横須賀軍港でも重油タンクが破裂しまるで地の底から燃え上ったかと思うばかり軍港一面火の海となっていたが夜に入って大海嘯(おおつなみ)が起ったろうと心配そうに語っていた。
大正12年9月3日 大阪毎日新聞 神戸大学新聞記事文庫 災害及び災害予防3-7
この船長は横浜で何本もの「火柱」を目撃しているが、これは本所被服廠跡を襲った火災旋風と同様のものだと考えられる。また船長は横須賀軍港に津波が起こったと推定しているが、恐らく船長は航海中に津波の発生を確認したということだろう。九月二日の大阪朝日新聞にも書かれている通り横浜で津波が到来しているので、横須賀も同様であったと思われる。また九月三日の神戸新聞によると、東京も津波が襲ったことが書かれている。
東京を襲いたるものは震災、火災のみでなく、一日正午以来数十回に亘り大海嘯の襲来あり。本所、深川方面に於ては多数の家屋流失し、死傷甚だ多く、品川方面は殆ど全滅し、隅田川は氾濫し附近一帯の家屋は流失又は浸水したと伝えらる。
大正12年9月3日 神戸新聞 神戸大学新聞記事文庫 災害及び災害予防3-11
横浜や東京に津波が襲った話は知らなかったが、津波は有名な観光地で暴威を揮っている。次の記事は九月十二日の大阪毎日新聞である。
次に海嘯であるが最も暴威を振ったのが伊東と熱海で、その襲来の方向を見ると、伊東では南方に汐吹崎一帯が突出している為め是に遮られて新井浜は無事に残り、その北に接する玖須美浜は全滅し、松原の半を浚われ湯川は倒潰され、熱海では海嘯は先ず南方に突出した魚の岬に激突して之を崩壊し、進んで海岸六十余戸を粉砕して持ち去った。土地の人は魚岬が無かったら熱海は全滅するだろうというている、伊東に接して宇佐美村があるが突堤が高いので家屋が浚われるまでに至らず、更に熱海手前の網代に至っては少し水かさが増したと思った位でビクともしていない。そんな事から海嘯襲来の方向を考えるとこの発源地が矢張り震源地と想像する地点と一致しているのである、海嘯襲来の模様を伊東の人について聞く所によると、最初一丈位の海嘯がやって来、これに持ち去られた人も沢山あったが、今度は数丈の大海嘯が殺到し、例の八十噸前後の大発動機据付の帆船などと一緒に是等の人々を陸上人家の家根に叩きつけ、数十名が敢なき最期を遂げたのだそうだ。
大正12年9月12日 大阪毎日新聞 神戸大学新聞記事文庫 災害及び災害予防3-155
記者により取材する場所は様々であったのはやむを得ないことだが、同じ日付の大阪毎日新聞に鎌倉、逗子などの津波被害について書かれている。
伊豆半島から三浦半島は海嘯の襲来を受けたため、鎌倉から逗子葉山西浦三崎浦賀横須賀と三浦半島を一巡して親く災害の実況を調べて驚かされた事は、三浦半島沿岸の水位が約六尺ばかり下った事である、今迄は満潮と干潮の差が甚しかったが僅々一尺位に減じ、既に十日を経過しながら元の水位に返らぬので地方の人々は半島全部が浮上っているのだと言って居り、浦賀港の如きは浚渫せねば用を為さぬ程浅くなっている。…中略…
鎌倉は既電の如く焼失と倒壊とのため古刹名勝をはじめ全町全滅し、駅前に立往生している電車内で郵便局も町役場も戒厳令本部も事務を取扱っているという惨めさである。逗子葉山の沿岸に亘っては更に多くの被害があって逗子沿岸には多数の船舶が陸上に打揚げられて居る養神亭の如きは、陸と海との両方から挟まれて跡方もなく葉山の長者園や森戸、鍵屋などの旅館は半壊し、…有栖川、北白川、東伏見各宮の御別邸も名士の別荘も悉く破壊され、屋根瓦は全部叩き落されている。葉山御用邸の如きは、御車寄は五尺位陥没し玄関は破壊している。その他の多数民家は六割どころまで倒壊破損して、逗子では七十一人葉山では二十四人の死者があり、栗野信一郎子、松岡男の別荘も倒壊し、松岡男は即死した。葉山には当時金子賢太郎子、団琢磨、穂積陳重博士なども滞在して居たが、金子子が会長となって救済会を組織し罹災民の救助に全力を挙げている。
大正12年9月12日 大阪毎日新聞 神戸大学新聞記事文庫 災害及び災害予防3-153
以前にも書いたように、これらの有名観光地では津波対策の工事を行わずに早急に復興することを優先して、関東大震災時に津波で大被害を受けた史実を封印しようとした歴史がある。いずれの観光地も、大地震時に大きな津波被害が出る可能性が高いことを知るべきである。
海の津波も怖ろしいものだが、山津波の大きな被害も出た。
根府川部落全滅
足柄下郡片浦村字根府川は戸数百余戸の漁村だが、上下動と同時に山上から土砂岩石崩落し来り、無慙にも三分の一の形骸を留めず海岸に押流されて破壊埋没した。高さ百二十八尺の白糸川大鉄橋も同時に墜落し、無数の死体を出した。その内に大海嘯襲来全部落を押流して了ったので、山上に避難した数十名が助かったのみである。百九列車顛落
小田原駅を一日午前十一時四十分に発した東京発下り百九列車は、十一時五十九分正に熱海線根府川駅のホームに到着せんとして機関車のみホームに進入した際、大音響と共に左方の高さ百余尺の断崖に顛落したが、上から土砂岩石が墜落し来り根府川駅ホーム上屋駅建物共全部海中に埋没した。当時乗客は百七十余名であったが助かった者は水泳の達者な学生三十余名と機関手一名のみであった。同列車乗客の談
大正12年9月8日 大阪朝日新聞 神戸大学新聞記事文庫 災害及び災害予防3-75
この列車に横浜から乗車していた横浜市南阿太津町二一八〇東京歯科医専生徒飯塚三郎(二十三)は語る。『私は中程の二等車の次の三等車に乗っていましたが、何だか左方へ傾いて動いたなと思ううちガラガラという大音響物凄く、列車は忽ち奈落の底へでも落ちるような気で落下しはじめ、アットいう間もなく途中でバラバラに壊れて岩石土砂と共に海中に水煙あげて突入しました。私は水泳の心得があったのでうまく浮上りましたが、直ぐに竜巻のために海底に引込まれ、再び顔を挙げた時は第二の海嘯が背後から見えていたので死物狂いで岸まで泳ぎつきました。丁度時計は十二時一分前で停っていました。』
関東大震災について現在の教科書に書かれていることは、東京・横浜の下町は焼け野原になったことと朝鮮人暴動の「流言」くらいなのだが、関西の新聞記者が社運をかけて自分の足で集めた情報には重要なものが少なくないにも関わらず、多くの真実が今日に伝えられていないことに気が付く。東京や横浜の地下鉄や地下街は、再び大地震が発生した場合に津波に襲われる危険性はないのか。その対策は考えられているのか。過去津波に襲われた観光地は、どうやって観光客の安全性を確保するのか。
「ハザードマップポータルサイト」で全国各地の津波の危険性の高い地域を確認できるが、緊急避難できる場所は充分に確保されているのだろうか。特に東京は、津波被害をどこまで想定しているのであろうかと、多くの国民が疑問に思うことであろう。
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