海外に居住する多くの日本人が虐殺された不幸な事件がいくつか存在するが、日本人が被害者となった事件については戦前や戦中の歴史叙述の中では描かれていても、戦後出版された教科書や通史にはまず描かれることがないし、マスコミなどで解説されることも皆無に近い。このような戦勝国にとって都合の悪い史実は、戦後の歴史叙述では長きにわたりタブーとされてきたのだが、「自虐史観」の洗脳を解くためには、まずこういう史実を知って、我々の祖先が何と戦っていたのかを正しく認識する必要があると思う。
今回は大正九年に起きた尼港(にこう)事件のことを書くこととしたい。
尼港に日本人が多数居住していた経緯と過激派の動き
「尼港」というのは黒龍江がオホーツク海に注ぐ河口にあるニコラエフスク(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)のことである。この地に一八九二年に函館在住の陸軍予備中尉・堀直好が事業としての漁業に取り組み、ロシア側がそれを歓迎したことから多くの日本人が住むようになったという。
その後日本人が漁業をすることは禁じられたものの海産物の交易で栄えるようになり、一八九六年に島田元太郎が設立した島田商会など、いくつかの日本企業がこの地に進出していた。
一九一七年にロシア革命が起こり一九一八年に第一次世界大戦が終戦となったが、シベリア地域ではロシアの過激派軍と反過激派軍との内乱が続いていて、第一次世界大戦中にアメリカの呼びかけでチェコスロバキア支援のためにシベリア出兵に参加していたわが国と英米仏伊などの連合諸国は、そのためにシベリアから撤兵できない状態が続いていた。
その後チェコスロバキアが過激派軍に投降したことから、一九二〇年一月にアメリカが連合軍のシベリアからの撤兵を通告し、英米仏の諸国はそれぞれ撤兵したのだが、わが国は、シベリアで内戦が続いている状況下ではすぐに撤兵することはできなかった。そこで米国の了解を得て将校以下三百五十人程度が残っていたのだが、その頃から過激派の共産パルチザン*がこの地方で活動を活発化させていったのである。
*パルチザン:非正規の軍事活動を行う遊撃隊
尼港事件を伝える当時の新聞
当時ニコラエフスクには七百数十名の日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊とその家族たちが居住していたのだが、一月の下旬には市全体がロシア人、中国人、朝鮮人からなる四千名の共産パルチザンに包囲されていて不穏な状態に陥った。
当時視察のため派遣されていた三宅海軍大佐は海軍軍令部に対し、石田副領事は外務大臣に対し、現在の守備隊だけでは到底居留民を守ることは出来ないので、救援隊を急派する旨電報で要請したという。しかしながらわが国の政府はすぐには動かず、救援隊を送り出したのは二月の中頃になってからのことであった。しかしながら厳冬のためアレクサンドロフスク港より北に砕氷船が進むことができず、その港から陸を進むとすると雪と氷の上を二百里以上進まなければならず、結氷期間中に救援軍を派遣することは絶望的な状況にあった。解氷期を待って、ようやく救援軍が六月三日にニコラエフスクに到着し占領したのだが、パルチザンは五月二十五日に市街に火を放って全市を焦土として退却してしまっていたのである。
同市にいた日本人のほとんど全員が殺害されてしまったのだが、この「尼港事件」について当時の新聞はどのように伝えていたのであろうか。
上の画像は大正九年(1920年)四月六日の東京朝日新聞の記事で、陸軍当局の談話として次のように記されている。
同地には出兵以来我一部隊を置き、静穏にして殆ど何等騒擾を見ざりき。然るに本年一月極東各地革命政府の樹立と共に同地亦不穏を呈し、一月二十二日より商業杜絶し、二十三日赤衛軍初めて江を越えて市街に入り、二十八日に至り尼港下流チヌイラフ砲台を始め四面悉く赤衛軍の有に帰し全く市街を包囲せり。
我軍の任務は其の与えられたる訓令に基き我居留民を保護し、地方の治安を維持し、政争に干渉せず、政権が如何なる政治団体に移るも敢て問わざる所なるを以て我より戦闘を求むること絶対になかりしが、二月五日に至り赤衛軍は砲台の備砲を修理して砲撃を開始し我通信所を破壊し六日夜半より通信不能に陥らしめ、浦潮(ウラジオストック)派遣軍及中央部に於ては連絡の為最善の努力を尽したるも及ばず、二月二十五日に至り初めて同地守備隊長より赤衛軍の無線電信に依り左の要旨の電報に接せり
一月十二日以来対敵行動を開始せしが、二月二十四日附を以て革命軍より会見の申込来り之に応じて対敵行動を中止せり。…中略…
然るに三月十四日、突然哈府革命軍司令部は同地山田旅団長に対し尼港市内に於て十二日夜より再び日露両軍間に戦闘開始せられたる…中略…
之を要するに帝国軍は西伯利(シベリア)出兵以来、尼港が多数帝国居留民を有し直接利害関係多きを以て全般の状勢上不足勝なる兵力より特に一部隊を割て其保護に当らしめたるものにして、赤衛軍に於て攻撃的態度を取らざる限り何等我守備隊自ら戦闘行動を惹起するの理なきは明かなり。
然るに赤衛軍は結氷後交通杜絶せるに乗じ、我に対し脅威の態度を示し、露国自衛団を圧迫し、本年一月下旬には全く同地を包囲せるも、我守働隊厳存せるが為威力を以て侵入すること不可能なるを見、先ず我守備隊に和議を提議し平和的に市内に進入したる後、此所に労農政府を樹立し其基礎稍定まるや、俄に其仮面を脱して横暴の態度に出で、我軍隊及居留民が孤立無援の境遇に在るに乗じ、濫りに公正なる我軍隊を攻撃せるのみならず、無法にも国際法規の慣例上大公使館と同様不可侵の待遇を受くべき領事館を襲い、無辜の居留民を殺傷し非人道行為を敢てしたるが如きは、我国民の決して寛仮すべからざる所なり。
大正九年四月六日 東京朝日新聞 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫
四月二十七日の報知新聞の記事には尼港に滞在したアメリカ人マキエフの証言が出ているが、三月十四日の戦闘開始後に過激派に拘禁された日本人が多数いたことを伝えている。
尼港事件当時同地に滞在しあり三月三十一日同地を出発して四月八日亜港*に来れる米人マキエフの語る尼港を情況左の如し。
*亜港(あこう):アレクサンドロフ・サハリンスキー(地名)尼港砲撃
初め赤衛軍が尼港市街の砲撃を開始せる時、日本守備隊長は哈府(ハルピン)日本軍指揮官の命により中立を宣言せり。然るに赤衛軍は市街に侵入したる後旧露国軍人、官吏等二千五百名を捕縛しその二百名を惨殺する等横暴惨虐看るに忍びざるものありしかば、日本守備隊長は抗議を申込たるに、赤衛軍は却て日本軍の武装解除を要求し来り、日本守備隊長断然之を拒絶したる□遂に日本軍と赤衛軍との間に戦闘開始せらるるに至れり。
惨虐無道
戦闘は二昼夜に亘りて激烈に行われ、日本人の奮闘目覚しかりしも衆寡敵せず、遂に日本軍の不利に終り、日本領事館は焼かれ領事はその他の日本人と共に自ら火中に投じ、島田商会亦全焼して店員は悉く殺されたり。日本守備隊長は戦死せり。過激派は露人たると日人たるとを問わず掠奪惨殺を行い、狂暴言語に絶し、罪なき婦女子を銃剣を以て蜂の巣の如く刺殺したるを目撃せり。
邦人全滅か
該米人の尼港を去るとき日本人百三十名許り過激派に拘禁せられありしが、日々待遇冷酷を極めつつあり。その惨虐なる行為は外部に対し極力秘匿しある為、真相分明せざるも恐らく今は一人も生残るものなかるべしと云えり。尚現在赤衛軍の中には約一千の朝鮮人と六百の支那人あり朝鮮人は掠奪したる軍服を着用しあり。
大正九年四月二十七日 報知新聞 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫
「過激派に拘禁」されていた邦人の数は正確には百二十二名だったのだが、過激派はわが国が送った救援隊が近づいている情報を知り、五月二十四日以降邦人全員を黒龍河畔に連れて行き、ことごとく刺殺して河に投じられたのだそうだ。
従軍記者が見た尼港事件
『極東ロシア・シベリア 所蔵資料ギャラリー』というサイトの『サハリン島写真館』に、尼港事件の現場の写真を多数見ることができる。虐殺された邦人の写真も何枚かあるので心臓の弱い方にはあまりお勧めできないが、何枚かの写真を見れば、この事件は新聞報道の通りひどい事件であったことが理解できる。
百二十二名の日本人を拘禁していた監獄の壁には鉛筆で書いた落書きがいくつか残されていて、上の画像は「大正九年五月二十四日午後十二時を忘るな」とあり、十二時を指した時計の針が描かれている。この日以降に監獄の日本人は全員殺害されたのだ。
上の画像は多門二郎大佐率いる救援軍が撮影したもののようだが、パルチザンが尼港を去る時に放火した火がまだあちこちで燻っている。
六月十七日付の大正日日新聞に、救援軍の従軍記者が書いた記事が掲載されている。
壮麗を誇って居たニコライエフスク市街も僅の半焼家屋を残して殆ど焦土と化し終った。見渡す限りの焼跡には煉瓦で作った暖炉の煙筒のみが焼け残り其状恰も船檣林立に彷彿している。我軍の上陸した桟橋から小坂を登って左折すれば其右側は公園で、三月十二日の事変前には彼我両軍が此処で仲直りに祝宴を開いた所であると聞き無限の感慨に打たれた。
此辺の建物はすべて灰燼に帰しているが夫れから程近き尼港監獄の焼残った部分を見るに及んで私達の血汐は一時に沸き立った。獄舎は見るから堅牢な木造建築であるが其処の各室を順次に視て行って或る一室に至った時アッ…と叫んで稍しばらく戦慄をとどめ得なかった。そこは広さ二十畳ほどの室で一面鮮血に彩られて居る。一見直に日本兵又は日本人の肌につけていたものと肯定し得る種々な物品が散在し、室の四辺に当る白堊には鉛筆を以て「曙や物思う身に杜鵑」「読む人のありて嬉しき花の朝」等の辞世句、及び「五月二十四日午後十二時を忘るるな」という呪いの遺言、又は「見まい聞くまい喋るまい」の三猿を画に現し「噫…万事窮す」という添書をしたのもある。
特に悲惨を極めたのは入口から右側の壁板は五月十九日から五月二十三日に至るまでの暦表が羅馬(ローマ)数字で記されてある。思うに不遇なる我将卒や居留民等が、憂き月日を此処に送ること約八十余日。此間煩悶懊悩の限りを尽し最後には毒手に斃れたその証拠を目のあたりつきつけられた我々は悲憤慷慨なんどという月並の文句は通り越し、腹の中を掻き廻されるような痛みを感じた。監獄を出てから数名の我兵卒に護られた我等は日本人の死体を埋葬しある黒竜河畔に歩を転じた。此辺一帯には夥しい死骸が悲惨な状態で抛棄されてあって其中には若干の日本兵の死体も混っていた。
大正九年六月十七日 大正日日新聞 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫
尼港事件で惨殺されたのは日本人だけでなく、ロシア人も数百名が殺害されたという。上の画像は、この事件を起こしたパルチザン軍の主要メンバーを撮ったものだが、首領トリアピチンらは、厳寒期のニコライエフスクには救援軍が来ないことを知って占領し、日本人居留民や裕福なロシア人の金品を掠めて私腹を肥したことは言うまでもない。
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