前々回の歴史ノートで、北京で排日運動が始まったのは一九一九年に開催されたパリ講和会議でわが国が提案した人種差別撤廃案が否決されたわずか二十二日後であり、その背後に英米人の煽動があったことを書いた。その後中国の排日は、どのように拡大していったのだろうか。
中国排日運動の変化
GHQ焚書である長野朗の『支那三十年』に、中国の排日運動の変化について詳細に解説されている。
第一段階では、排日と親英米の空気を造るために、中国の隅々に宣教師を送り込み、教会や学校や病院を創る一方で、中国人に「排日思想」を植え付け、日貨(日本製品)のボイコットを開始した。
第二段階では、日貨のボイコット期間が長くなり、日本品に代って欧米品が中国に入ってきた。第三段階以降について長野はこう記している。
第三期になって来ると、国民政府*が自ら主宰し、政府の機関を動かし、商工部で立案し、支那は不自由せずに、日本だけが困る方法を考え、全国のボイコットを統一した。しかし表面は国民党によって組織された反日会が本部を上海に設け、支部を全国に置き、国民党の支部員がこれ(日貨排斥)にあたった。この時期になると、ボイコットは政府の政務であり、政策として行われた対日経済戦であった。したがってその期間も長いのは二、三年も続いたので、我が方の打撃も少なくなかった。南洋華僑の中にも、国民党から人を出して指学させるし、排日教科書を造って全国の小学、中学に配るし、排日の教材を盛んに配布するし、上海だけでも排日で飯を食っている常務員が数百名おり、指導者には数百万の財をなしたものもいた。
英米資本の東亜独占と、支那の民族主義とがからみつき、大正八年から排日が起こったが、その方向は二つの進路をとった。
長野朗『支那三十年』呉PASS復刻選書23 p.70~71
一つは支那の民族運動として、満州の漢人化となり、満州からすべての日本の勢力を駆逐しようとする企ては、遂に張学良をして満州事変を起こさせるに至った。一つは経済的の現われで、上海を中心として興りかかった支那の新興財閥と英米資本との合作によるボイコットで、これは当然浙江財閥の傀儡たる蒋介石と、英米の合作にまで進んできたのである。
*国民政府:蒋介石が主席となった南京国民党政府のこと。昭和初期。
中国の排日運動は二つのコースをたどり、満州では張学良が盛んに日貨排斥を行ない、それが満州事変の引き金となった。もう一つは浙江財閥の蒋介石が英米資本と手を組んで日本を追い詰めようとしたというのである。
排日の内容も時には変化があった。排外運動が排日の形で出たのは当然であるが、その後ソ連の指導する中国共産党が現われるにしたがい、大正十二年から少し雲行きが変わってきた。
同上書 p.71
学生会のリーダーは、英米系の基督(キリスト)教青年会の幹事から、いつの間にか共産主義青年団の幹部となり、排日から反帝国主義運動になったが、英米人は巧く游(およ)ぎ廻って、その鉾先をたえず日本側に向けたのと、支那人の外国崇拝と日本軽視とは、日本人にはやるが外人には手を着け得なかった。ただ反基督教運動だけは起こり、英米人経営の学校にストライキが起きたり、奥地にある宣教師が逃げ出したりして、宣教師の活動は振るわなくなったが、彼らの播いた排日の種子は既に生え、彼らはその任務を果たしたのであった。
当初の排日運動の主役は英米系のキリスト教会であったのだが、コミンテルン*の指導を受けた中国共産党に移っていったというのである。
*コミンテルン:1919年にレーニンの提唱によりモスクワで結成された各国革命運動支援のための機関
コミンテルン勢力による反帝国主義運動が開始されてイギリスはどう動いたか
排日運動の中に労働者が参加するようになり、ボイコットだけではなく労働者のストライキが盛んに行われるようになっていき、運動のターゲットが「排日」から次第に「反帝国主義」に変わっていった。この運動を推進した中国共産党にとっては、英米の資本主義も当然ながら敵であり、英米資本も一時は狙い撃ちにされたという。
大正十五年の北伐には、ソ連と英国との仲の悪い時ではあり、反帝国主義運動の鉾先をまず英国に向け、武漢に飛び出してきた国民軍は口々に「打倒英国」を叫び、武漢政府は漢口の英租界を武力で占領した。すると機を見るに敏なる英国は、あっさりと漢口、九江の英租界を返して反英の気を抜き、今まで北方軍閥派の討赤連合軍を助けていたのを百八十度転回して、当時江西まで下っていた蒋介石と手を握り、蒋介石に国共分袂*の芝居を打たせ、蒋介石の共産党弾圧となり、ソ連は英国に背負い投げを喰わされるとともに、反英はまた排日となり、国民革命軍が南京まで下って来ると、南京の日本領事館の襲撃が行われた。この蒋と英国の連合は今日まで続いている。同時に排日も抗日から抗戦へと予定のコースを取って来た。
同上書 p.72
*国共分袂:蒋介石を説得して、共産党とたもとを分かつこと
イギリス・アメリカが排日運動を仕掛けたのは、中国大陸から日本を排除することが目的であったのだが、中国大陸の赤化を狙っていたソ連が中国共産党に反帝国主義運動を始めさせ、最初に鉾先をイギリス租界に向けてきた。形勢が悪くなったイギリスは租界を返還して反英の動きを止め、さらに蒋介石を抱き込んで「反共」を打ち出させ、国民軍の鉾先を日本に向けさせることに成功したというわけだが、このような巧妙なやり口は、なかなか日本人には真似ができないところである。
長年続いた排日教育の影響
また、この時期には英米が中国に種をまいた「排日思想」の影響が無視できない状況となっており、中国人は日本の商品を嫌うようになっていた。親の世代は親日派であっても、若い中国人には子供のころから続いてきた排日教育が滲みついていて、彼らがその後どんどん過激化して、抗日の闘士になっていったのである。
しかし何といっても女子供の頭の中に深く刻まれたのには困ったものである。大正八年から排日教育を受けているが、子供の頃に注ぎ込まれたものはなかなか抜けるものではなく、それが国民革命頃*には排日の立派な闘士となっていたし、今度の事変**には抗日の指導者となっている。
同上書 p.74~75
北支那でも、親は親日で日本と合作しているのに、子は親と背いて南方抗日軍に奔ったのが少なくなかった。…中略…
街路の正面にも抗日の札があり、門にも壁にも抗日の文句があり、日本品には『仇貨』『敵貨』と銘打っているし、紙幣にも排日の文字が捺してあり、時計の中にも書いてある。買うものには排日の字があり、町を出れば排日、新聞も書籍も排日、音楽も排日、これで二十年もたてば如何に鈍い支那人でも骨の髄まで排日にならざるを得ないだろう。これが蒋(介石)の長期抗戦の原動力となり、抗日連合戦線の糊付けとなっている。
*国民革命頃:昭和初期の「北伐」の頃
**今度の事変:昭和十二年の支那事変
英米が中国人に親英米思想と排日思想を同時に植え付けることから、若い中国人はすっかり新英米・反日に洗脳され、日本の商品が中国市場で売れなくなり、最終的に支那事変につながっていくことになる。
長野は支那事変の起きる前年の昭和十一年(1936年)に、満州から北京、南京などを巡回し、その排日の空気に驚いている。
今回の旅行では、北から南に至るまで、かつて見たことのない悪気流が流れ、それが民衆の底流となっているところに重大な意義がある。二、三十年支那にいる上海の友人も、こんな険悪な空気はかつて経験したことはないといっていた。
日本人の旅行者はすべてスパイ扱いだし、田舎旅行はとても出来ない。名所見物でも写真は撮れない。先日もある日本の女流画家が杭州に遊んで、西湖の景色を写生しようとしたが、地形を模写するといって禁止し、事情を話したが承知しない。領事館まで持ち出してすったもんだやったということである。ところが西湖の辺りには、いくらも支那人が西湖の写真を売っている。汽車の中でも手帳を出して覚書をつけることも出来ない。数十分おきに、鉄カブトを冠り、拳銃を持った憲兵が三、四人づれで廻って来て、一挙一動を監視する。通り過ぎてまた振り返って見る。その眼には反感が燃えている。
反日の対象は日本人から親日派一般に及び、親日政客に対するテロが続々として行われ、汪精衛の遭難となり、唐有壬の横死となった。親日でなくとも、日本留学生出身、あるいは日本婦人を細君にしている者は、同じく狙われるので、最近南京政府の役人で、日本婦人を娶っているものは長い間の夫婦生活を割いて、子供も双方で分け、細君を日本に帰し、離別するものが少なくない。…中略…
同上書 p.235~236
したがって支那人としては、日本人と親しくすることは身の危険を意味するので段々疎くなって行くのである。支那人は傲語して曰く「吾人に残された問題は、何時日本と戦うのかということだけである」と。かくて日支の衝突は不可避のものとなっていた。
盧溝橋事件が起きる直前の中国がどのような状況であったかは、戦後に発刊された歴史書にはほとんど何も書かれていないのだが、長野の『支那三十年』を読めばよくわかる。
戦前の書物や新聞記事を読まないと真実は見えてこない
中国や韓国では今も出鱈目な反日教育が行われていることは日本人の多くが知っているのだが、いくら内容が誤っていようが何十年にもわたりそのような教育が続けられ国民が洗脳され続けていることが、将来のわが国にどのような災難をもたらすかは、長野の文章を読めばおおよそ見当がつく。このまま放置したままで万が一有事が起きれば、情報戦でわが国が悪者化されて孤立化し、第二次世界大戦に巻き込まれた歴史を再び繰り返すことならないか、と心配しているのは私ばかりではないだろう。
史実に基づかない反日的な歴史記述は、出来るだけ早い時期に根拠を示して反論し全世界にアピールして、反日の芽を摘み取らなければならないと思うのだが、わが国のマスコミは史実を伝えようとせず、正論を言う政治家を貶めるようなおかしな動きを永年続けてきたと思う。詰まるところ彼らは、国民が自虐史観に洗脳された状態を維持させるための装置のような存在だと理解すべきではないか。
いくら実力のある政治家が正論をはこうとしても、嘘をまき散らす反日国と反日マスコミが相手では、余程世論の強い後押しがなければ戦えない。彼らが戦える状況を整えるためには、国民の多くが自虐史観による洗脳から脱却していることが必要となる。
戦前の書籍や新聞記事には、戦後知らされてこなかった史実が満載であり、特にGHQ焚書の何冊かを読めば、多くの国民が戦後広められた「戦勝国にとって都合の良い歴史」に疑問を持つことになるだろう。今では大きな図書館に通わなくても、自宅のパソコンなどで「国立国会図書館デジタルコレクション」にアクセスすれば多くのGHQ焚書を読むことができるし、戦前の新聞論評も「神戸大学新聞文庫」で検索して読めるようになっている。
また最近は、GHQ焚書の復刊が相次いでいる。復刊されている本のリストは以前このブログで紹介させていただき、アマゾンで購入可能な本は順次この記事に追加させていただいている。
このブログで何度か紹介させていただいた長野朗は一九一二年から三十年にわたり中国に関わってきた人物で、『支那三十年』には、四度にわたり中国に住み何度も視察して、多くの中国人と信頼関係が築かれていなければ書けないことが具体的にわかりやすく記されている。
中国の「排日」は今日にもつながる重要な問題であるが、この本を読めば、戦後わが国で伝えられている歴史叙述が随分おかしなものになっていることが誰でも気づいてもらえると思うので、数あるGHQ焚書の中でも、このブログを読んで頂いている皆さんにぜひお薦めしたい一冊である。
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