前回は一九二八年(昭和三年)の七月から九月にかけてモスクワで第六回コミンテルン大会が開催され、七月には長春、奉天、鉄嶺、安東の日本軍に対して赤化宣伝文書が大量配布されたことが国民新聞に報じられていることを書いた。
しかしながら軍隊の赤化宣伝がそんな簡単に成功するものではないだろう。当初は効果がなかり限定的であったと思うのだが、その後日本軍の多くの兵士が左翼思想の影響を強く受けることになって行く。今回は、ソ連・コミンテルンによる教育機関の日本赤化工作を中心に見ていくことと致したい。
主要大学は大正時代から左傾化していた
昭和三年と言えば三月十五日に全国で千名以上の日本共産党員が検挙される事件(三・一五事件)が起きた年だが、彼等が検挙された理由については当時の新聞には「一大陰謀事件発覚」と書かれているだけで、その陰謀の中身については国民に何も知らされていなかった。しかし新聞が「大陰謀」などと言う言葉を用いる時は、過去の事例から推定すると、政権をひっくり返すような大事件が計画されていたに違いない。

上の画像はその五年前の大正十二年六月六日の大阪朝日新聞の記事で、見出しに出ている「極東共産党」とは、コミンテルンの極東支部と理解すればよく「日本共産党」はその下部組織にあたる。
上記の記事では陰謀の内容について「大臣暗殺、軍隊・学生の赤化」と書かれており、早大教授や慶応大講師が家宅捜査を受けたことが記されている。この事件から五年後に千名以上の共産主義者の検挙が行われた(三・一五事件)わけだが、僅か五年の間にわが国で共産主義者が急増した最大の原因は「学生の赤化」工作が教育現場で大規模に行われていたことが大きかった。
赤化工作は大学から高校・中学へ

赤化工作は大学ばかりではなく高校や中学でも行われ、各地で学生紛争が起きていたようだ。昭和二年八月十四日の大阪朝日新聞には、同年の一月から七ヶ月の間で起こった学生紛争が以下のように列記されている。
本年初頭から各地に頻発した盟休その他の学校紛擾を列挙してみると、まず大山教授留任運動にからまる早大紛擾を皮切として、大阪及び九州歯科医専の盟休相次ぎ、松本高女十六名同盟退学事件、彦根中学の校長排斥、真宗勧学院高等部の盟休、延岡商業盟休、東洋音楽学校の盟休があり、六月に入りては仙台における第二高校の校長排斥が大問題となり、松山高校また騒ぎ、香川農学校の昇格運動から盟休し、続いて朝鮮では新義州および京城普成高等普通学校の盟休事件あり、七月に入りては盛岡中学の紛擾、宮崎県高鍋中学の校長排斥盟休、山口県高水中学の盟休、お茶の水女子高師の紛擾など、目星しいものだけでも、かくの如き多数にのぼる。そのほか小さなゴタゴタ騒ぎは数えきれないほどある。
『神戸大学新聞記事文庫』教育44-172
「盟休」と言う言葉何度かが出て来るが、これは学生の全部あるいは一部が要求を掲げ、一斉に授業をボイコットすることをいう。普通に考えて全国各地の学校で短期間にこのような事件が起こることは異常としか言いようがない。
小学校児童から生徒の母親にまで及んだ赤化工作

そして赤化工作は昭和七年には小学生にも及んでいたことが国民新聞に報じられている。なんと託児所の保母が予習復習の指導と称して幼い子供たちに左翼思想を吹き込み、さらに全協教員消費組合の支援を得て、児童の父兄たちに対する赤化工作も従事していたという。
教員に対する赤化工作

そして児童に対する赤化工作を進めるために全国の小学校の教員にもコミンテルンの魔手が及んでいたとことが昭和六年九月十九日の大阪朝日新聞に報じられている。
「エドキンチルンの指令によって活動する新興教育講習会、全協の全日本小学校教員赤化運動、反宗教運動に連絡をもつ教員左翼運動など左翼陣営の魔手はあらゆる方面から全国中、小学校数員間に侵入し、しかも夏休を期し、躍進的な進展を示し、現に東京では四十余名の現職小学教員を取調べ十数名の男女教員を解職し、埼玉県でも既に数名の起訴収容者を出している。文部省学生部が各府県に命じて調査したところによると教員赤化の組織網は全国に及び北海道、東京、京都、大阪、神奈川、兵庫、新潟、埼玉、千葉、愛知、岩手、秋田、沖縄三府九県からはいずれも数名乃至十数名の左翼教員を出し殆ど収拾のつかない状態…」
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-155
「エドキンチルン」というのは一九二二年に組織された教育労働者インターナショナルの略称だが、コミンテルンの流れをくむ組織である。教員が過激な左翼思想を持つ人物であれば、その影響を受ける生徒が出て来てもおかしくないのだが、左翼教員が特定地域だけでなく全国に一気に拡大したのは余程組織的な動きがなければ説明できない。「赤化」というキーワードで当時の新聞記事を探していると、彼等は赤化工作を効率よく推進するために師範学校の生徒を狙っていた記事が見つかった。師範学校とは、教員の養成学校である。

上の画像は、昭和七年十二月十五日の報知新聞の記事だが、都内の赤化教員を調べたところ、その多くは豊島師範学校の学生時代に自宅通学をしていた者であったと報じている。
赤化教員を生んだ都下各師範学校首脳者も慎重対策につき鋭意考究中であるが、その過半数を出している豊島師範学校では現在の師範教育制度を再吟味した結果、赤化教員の多くは若年者で在学中は大多数自宅その他から通学していた生徒なることが判明した。その結果今後通学許可制度を撤廃し原則として生徒を附属寄宿舎に強制入舎せしめることに方針を決定。取りあえず一月から断然実施すると共に来春四月よりの新入学生に対しては何れも寄宿会に入舎を厳格な条件として入学を許すことになった。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題6-153
もちろん全国に存在した他の師範学校も同様に赤化工作のターゲットにされていたと思うのだが、教員の洗脳に何人かでも成功すれば、いずれ彼らが教壇に立つようになれば、生徒がどんどん洗脳されていくことになることは言うまでもない。
後手後手に回った政府の赤化対策

このように全国各地の教育現場で過激な思想が広がって行ったのだが、政府はどのように対応したのであろうか。学生赤化の背後にはコミンテルンの支援があることは、かなり早い段階から政府も認識していたようである。昭和三年九月二十一日の「時事新報」の記事には次のように書かれている。
政府は過般の共産党事件以来特に露国の赤化運動を重大視し、その防圧に関して種々対策を講じているが、其後も第三インターナショナルの赤化運動は隠然猛威を逞しうし、聊かも緩和の色なきのみか、共産党事件の取調べ進捗するに従い、漸次其背後に第三インターナショナルの支援ある事実が顕著になって来た。殊に最近政府側の探知し得たるところに依れば、第三インターナショナルは今秋を期し、大いに赤化宣伝に努めんと陰密に計画を廻らし、我国の共産党員中の有力なる注意人物も之と策応せるの事実明かなるものあるので政府でも座視する能わずと為し、寄々その適当なる処置について協議し政府部内の一部に両国の国交を賭しても危険思想の流入を防止すべしとて極論するものあるから、場合に依っては近く露国政府に対し厳重なる警告を発する段取になるであろうと。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-6
「第三インターナショナル」は「コミンテルン」と同義であるが、新聞記事でコミンテルンによるわが国に対する赤化運動は「隠然猛威を逞しうし、聊かも緩和の色なき」と書かれている。新聞がこのような表現を用いる場合は、おそらく政権にダメージを与えるほどのテロ行為を画策していた可能性が高いと推測する。
政府は数次に亘り首謀者の大規模な検挙を繰り返すのだが、彼等の赤化工作を止めることはできなかった。

昭和六年十二月二十日の東京日日新聞には、これまでの政府の赤化運動対策がまとめられている。
日本における共産主義運動は三・一五、中間検挙、四・一六及び田中清玄一派のいわゆる共産党行動隊の一斉検挙以来、その鋭鋒をおさめ潰滅したかにみえたが、共産党外廓運動としての無青(無産青年新聞)、無新(第二無産者新聞)反帝同盟、モップル(赤色救援会)ナップ六団体、N・P・E(日本プロレタリヤエスペランチスト同盟)等の活躍は、執拗に且つ広汎に継続されている実情に鑑み、内務省警保局では警視総監をはじめ全国各長官に対し、これ等の一斉掃滅を指令した。果然共産党外廓運動の中心勢力である無青、無新の潜行運動の中軸が学生群であること発覚、警保局では文部省と協議の上、去る七日宮城県特高課で東北帝大法文学部三年東海林長忠(二五)外十五名、警視庁特高課では去る十日東大法学部二年生嘉下俊雄(二六)、去る十七日早大政経学部一年生日下盛夫(二二)外三名を検挙した。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-170
昭和三年以降、日本共産党員の検挙が三・一五事件だけでなく数次に亘り大規模に行われ、さらに特高のスパイを潜入させることにより、熱海で幹部が一斉検挙されるなどして日本共産党は壊滅的な打撃を受けた。しかしながら、党をいくら破壊しても彼らの思想がなくならない限り、赤化運動は簡単に終息するものではない。その後、わが国では要人を狙うテロ事件が相次いで起こるようになる。
昭和五年(1930年)十一月には濱口首相が東京駅で狙撃され、昭和六年(1931年)にはわが陸軍が起こしたクーデター未遂事件が二件(三月事件、十月事件)起こり、その翌年の昭和七年(1932年)には二月に血盟団事件が起きて井上準之助と團琢磨が暗殺された。また五月には五・一五事件が起きて犬養毅首相が射殺されている。
彼らは転向しても共産主義思想を棄てていなかったのではないか
このように相次いでテロが行われたことについて、戦後の一般的な歴史叙述では、濱口首相狙撃や血盟団事件は右翼運動史の中で解説され、五・一五事は海軍の青年将校が暴発したなどと描かれるのだが、そんな説明を鵜呑みにして良いのであろうか。数年前までは日本共産党が要人のテロを計画していのだが、彼等の多くはは転向して共産主義を棄てたことになっている。

上の画像は昭和七年十二月二十七日の時事新報だが、これまでは多くの団体が存在してバラバラであった愛国運動が、国家社会主義と皇道主義の二つの思想を中心に収束されつつあることを報じている。この記事の注目点は以下の部分である。
国家社会党の赤松、望月氏一派を除いた全部と新日本国民同盟佐々井一晃、坂本孝三郎、近藤栄蔵、神田兵蔵の諸氏。無産党からの転向者の大多数は国家社会主義に拠る。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題6-158
近藤栄蔵は大正九年(1920年)四月に山川均・堺利彦らとともにコミンテルン日本支部準備会を結成したメンバーで大正十一年(1922年)の日本共産党創立大会で中央委員に選ばれ、1924年の第五回コミンテルン大会には日本副代表として参加した人物である。しかし再建された第二次日本共産党には距離を置き、無産政党である日本労農党に入党したが、昭和六年に勃発した満州事変を契機に国家社会主義に転向した。彼の思想が簡単に変わるとは思えないので、当時の雑誌や新聞を調べると「転向偽装」という言葉が結構ヒットするのに驚いた。そしてなぜかこの時期にファッショの嵐が吹くことになるのだ。

昭和七年八月二日の大阪時事新報には次のように記されている。
対国際関係—農村窮乏等々内憂外患の危機に直面し憂国の義憤凝って突如捲き起った「ファッショの嵐」。明倫愛国運動が愛国の志士によって一切の地下的潜行運動から敢然起って「皇道宣布」の大スローガンを掲げ一切を清算し、堂々ファッショ転向を宣言し勇敢に進出し来ったが、今また全国交通労働の金城と言われる大阪市電自助会及愛友会電気労働等の組合員の多数と大阪自動車労働、C・M会社従業員等が日本主義交通産業協議会を組織し市電従業員中に日本主義大阪市電協議会を結成してファッショ運動へ邁進することとなった事実がある。交通労働に多年覇を唱えて来た日本交通労働総連合も会員の多数のファッショ転向によって其成行は注目されている。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題6-100
愛国運動などは地下に潜行して運動が行われるものではないし、労働組合がなぜファッショに転向したかも理解しづらい。そもそも警察による監視の厳しい中で、日本共産党が非合法活動を続けることには限界があるだろう。共産主義者の中には愛国を唱えて転向を偽装した者が相当数いたのではないだろうか。
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