本能寺の変で信長の遺体は見つからなかった 本能寺の変1

織田信長

信長の時代に本能寺は何処にあったのか

日文研データベース 『都名所図会』 本能寺

 上の図は安永九年(1780)に刊行された『都名所図会』に描かれた本能寺だが、秀吉に移転を命じられ天正十九年(1591年)に再建されたものである。

日文研データベース 『京都古地図』部分 左が北

 この時に再建された本能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったことが江戸時代の古地図で確認できる。上の画像は元治元年(1864年)に制作されたものを拡大したものだが、左が北で上が東を意味し、画像上部に流れている川は鴨川である。現在の本能寺は上記地図の左側の七割近くを市役所と御池通りに取られてしまい、右側も多くのビルに囲まれていて随分狭い境内になっている。

「K’sBookshlf」 資料 本能寺の変

 信長の時代の本能寺の位置について、Wikipediaによると「東・西洞院大路、西・ 油小路、北・六角小路、南・四条坊門小路[元蛸薬師通]にわたる一町約120メートル四方(4町々)(旧本能小学校の北、元本能寺町付近)に寺地を得て伽藍が造立」と解説されている。この解説では当時と現在の本能寺の位置関係を理解することが難しいと思うので、ネットで分かりやすい地図を探していると、「K’sBookshlf」というサイトに完璧な地図が公開されている。この地図を見ると、現在の本能寺は信長の時代よりも東北東方向に移されていて、移転前はイエズス会の宣教師たちが布教の拠点にしていた南蛮寺がすぐ近くにあったことが理解できる。

信長の遺体は本能寺の焼け跡にはなかった

明智光秀 Wikipediaより

 天正十年(1582年)六月二日、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺で主君信長を襲った「本能寺の変」については何度もドラマ化されて、知らない人がいないくらい有名な事件だが、この事件で明智勢が織田信長の遺体を懸命に探しても見つからなかったということはあまり知られていない。
 通説では信長は本能寺で自刃したことになっているのだが、遺体が見つからないのになぜ自刃したと言えるのか、誰が自刃するのを見たのか、なぜ死んだと言えるのかなどと多くの人が疑問に思うに違いない。「自刃した」と書かれているので明智軍の武将が信長を斬ったのではないことは確実だが、もし信長の遺体が発見されなかったのならば、明智軍にとっては、信長が逃げて生き延びた可能性を否定できないはずである。
 織田信長はこの本能寺を上洛中の宿所として何度か利用していたようだが、事件のあった日に本能寺から二百メートルほど離れた南蛮寺では司祭のフランシスコ・カリオンがミサの準備をしていて、本能寺で起きていた出来事はただちに信者により知らされた。南蛮寺の宣教師たちは集めた証言をもとにその日の出来事についての詳細な報告書を記し、豊後にいたルイス・フロイスの許に届けている。フロイスの著書『日本史』には以下のような本能寺の変に関する記述がある。

…本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(まち)の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は、信長の場所からわずか1町(ルア)を距てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、折からの早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。まもなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った
中公文庫『完訳フロイス日本史3安土城と本能寺の変』p147-148

 本能寺と南蛮寺は東に一筋離れているだけであり、イエズス会の宣教師たちは本能寺で起きている一部始終を遠巻きに見ていたのである。

 明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラパードス)と女たち以外は誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出てきた。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのように彼が死んだのかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。…
同上書p148

 このように、フロイスの記述によると信長がほとんど警戒しておらず、無防備に近い状態であったことは間違いがなさそうだが、信長の死の場面についてはこんなに現場に近い場所でも諸説があったことがわかる。

織田信長

 しかしなぜ信長の遺体が見つからなかったのだろうか。木造建築物が火事になった場合の焔の中心部の温度は六百度から千度程度だが、もし信長が自刃して倒れていた場合は床レベルの高さで、初期は百度未満、完全燃焼時で三百~五百度と言われている。ただし輻射熱もあるので、通気も良く酸素供給が充分であれば骨がほとんど残らないほど灰化・粉化することはあり得ないことではないが、空襲時の記録や関東大震災の火災の記録などで分かるように、人体の場合は水分量が多いので燃えにくく、大抵の場合は遺体や骨が残されることになる。しかしながら、光秀勢がいくら探しても本能寺の焼け跡から信長のものと思われるものは何も出てこなかったのである。信長の遺体や遺品が出てこないのであれば、討ち取ったことを証明できず、信長が逃亡して生き延びている可能性を否定できないことは言うまでもない。
 江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵の『甫庵信長記』には、「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり」と書かれている。 
 また寛永年間に成立した『当代記』には、「焼死に給うか。終りに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし」とあり、光秀は本能寺の焼け跡から信長の遺体が見つからないことを不審に思い、捕虜に色々と尋ねてみたが結局、行方は分からずじまいだったことが記されている。

注目すべき『信長公記』の記録

 同じく江戸時代初期に、信長の旧臣であった太田牛一が書いた『信長公記』という本があり、この本は正確で史料性が高いと評価されている。Wikisourceに全文が公開されているので、誰でも本能寺の変についての原文を読むことができる。そのままでは読みにくいと思うので自分なりに句読点を入れて読みやすくして引用させていただく。

 信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御ひじ鎗疵やりきずを被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、…
巻十五、「信長公本能寺にて御腹めされ侯事」

 このように、『信長公記』には信長が自刃したことは書かれていても、遺体のことについては何も書かれていない。ところが、同じ日に信長の嫡男である信忠が二条新御所に篭城して明智軍と戦い、最後に自害する場面では『信長公記』にはこう書かれている

三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴貼、宗従の家子郎等、甍を並べて討死。算を乱したる有様を御覧じ、不便におぼしめさる。御殿も間近く焼け来たる。此の時、御腹めされ、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す。御諚の如くに、御死骸を隠しおき、無常の煙となし申し、哀れなる風情、目も当てられず。
巻十五、「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」

 このように、信忠については遺体を隠す命令を出したことが明記されている。 『信長公記』には信長の遺体については書かれていなくとも、信長が信忠と同様の措置を部下に指示した可能性は高いと思われる

 では、信長や信忠はなぜ部下に自分の遺体を隠せと言ったのだろうか。
 一言でいうと、当時は首級を晒すことによってはじめて、その人物を討ち取ったことを世間に認識させることができた時代なのだ。もし明智光秀が信長の首を討ち取っていれば、その後の歴史の展開は大きく異なっていた可能性が高いと言われるほど、相手の首級を取ることが重大事であったのだ。

秀吉の戦略

 摂津の梅林寺所蔵(天正十年)六月五日附中川瀬兵衛尉宛羽柴筑前守秀吉書状に次のようなことが書かれているという。中川瀬兵衛は中川清秀のことである。
「上様(信長)并(ならびに)殿様(信忠)、何も無御別儀御きりぬけなされ候。ぜゝか崎へ御のきなされ候内に、福平左三度つきあい、無比類動候て、無何事之由、先以目出度存候云々。」
 要するに秀吉は、信長も信忠も巧みに明智の難をまぬがれて無事であったという具合に茨木城主の中川清秀に宣伝しているのだ。秀吉は、こういうニセ情報の手紙を各地に送り、他の武将が明智光秀に味方するのを妨害したというわけだが、おそらく秀吉は光秀が謀反を起こすことを知っていたと思われる。
 信長の家臣の大半が日和見を決め込んだのは、信長の首が見つからなかったことがかなり響いているのではないか。明智光秀は秀吉の情報戦に敗れたとはいえないか。

 当たり前のことなのだが、テレビもラジオも写真もなく、手書きの文書と口頭報告で情報を伝えていた時代のことだ。ニセの文書もいくつも作られていたことだろう。有名武将の死を広めるには、人通りの多いところで晒首にすることが明治維新の頃まで続いたことを忘れてはならない。要するに敵方の武将の首を取ることができなければ、情報戦に勝つことは難しい時代だったのだ。

全国に多数ある信長の墓

 ところで、本能寺で遺体が見つからなかった織田信長の墓が全国に何か所もあるのは面白い。
  一つは京都市上京区にある阿弥陀寺の石碑。当時の住職が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇し、その遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝えられている。
 一つは京都市北区にある大徳寺総見院の五輪塔。この寺は秀吉が建立し、木造を二体作って一体は火葬し一体を寺に安置したという。
 一つは静岡県富士宮市の西山本門寺。ここには原宗安が本能寺の変で戦死した父と兄の首とともに、信長の首を持ち帰り首塚に葬ったという話が残されている。
 他にも、高野山奥の院、安土城二の丸跡、名古屋市総見寺などがWikipediaで紹介されている。

阿弥陀寺 山門 Wikipediaより

 以上の中で、私が最も注目しているのは京都市上京区の阿弥陀寺
 当時の住職であった清玉せいぎょく上人は、元亀元年の東大寺大仏再建の勧進職を務め天皇家や織田家とも親交があった人物だそうだが、この寺に残されている『信長公阿弥陀寺由緒之記録』には非常に興味深いことが記されている。それによると、本能寺の変を聞いて清玉上人は僧二十人以上を連れて現場に駆け付けたのだが、表門付近は明智の軍勢が数多くいて近寄れなかったので、上人は裏道から堀溝の垣をやぶって本能寺に入っている。上人は寺の境内に入ったあたりから意訳させていただく。

…(清玉上人は)信長公が御切腹されたと聞いて力を落とされた。
 ふと脇を見ると墓の後ろの藪の中で十人余りが集まって火を焚いていた。清玉上人が不思議に思って近寄ると、みんな上人の知る信長の家臣であった。上人が信長公はどうなされたのかと聞くと、信長公はもはや切腹され、遺言として死骸を敵に取られるな、首を敵に渡すなとおっしゃられた。しかしながら死骸を抱きて寺の外に出ようにも四方敵兵に囲まれている。いい方法が思い当たらないので、やむなく御死骸を火葬して灰にして敵に隠し我々はその後切腹してお供するつもりであると一同が答えたのを見て、清玉上人は、自分は永らく信長公から懇意していただいたが、何かあるのではないかとここに駆けつけた自分は幸運である。もはや皆様方は自害される必要はない。火葬は出家した僧の仕事であり、多数の僧侶を連れて来たので遺骨を寺に持ち帰って葬らせていただき、お墓も築いて御葬礼御法事なども勤めさせていただくので、この場はお気遣いなく我々にお任せいただきたい。敵は表にいるので、各々信長公の為に一働きしてお供されてはいかがかと語られた。
 武士たちは大いに喜び、ここは上人にお任せして我々は敵を防ぐべく戦って主君の後を追おうと表門に向かっていった。清玉上人は火葬を続け白骨を法衣につつみ、本能寺の僧徒らが逃げる風情で阿弥陀寺に戻り、白骨を深く土中に隠しおき、日数が過ぎてから塔中の僧徒ばかりでひそかに御葬礼を執り行い、墓を築いた。…
史籍集覧第二十五冊目録 第五十八『信長公阿弥陀寺由緒之記録』

 その後天下を統一した秀吉が、信長の遺骨が阿弥陀寺に葬られたことを知り、清玉上人に信長の法要を執り行うことを申し出たという話も興味深い。その際に秀吉は法事料として三百石の御朱印を下賜しようとしたのだが、清玉上人は断っている。その後も秀吉は永代御廟所を建てたい等と三度にわたり御朱印を下賜しようとしたが上人が断ったという。上人は、秀吉が信長公から受けた恩を忘れて織田家を軽んじたことから、秀吉のことを常に「人でなしの人非人」と言っていたという。
 清玉上人に断られた秀吉は、大徳寺総見院を創建して信長を弔い、その後天下人となってから、この阿弥陀寺を上立売大宮東から今の寺町今出川に移転(1585年)させ、所領を大幅に削っている点も面白い。

 この『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は事変の起きた当時に書かれたものではなく、享保十六年(1731年)に寺に伝承されてきた内容を書き記したものであるのだが、阿弥陀寺は秀吉の命により現在地に移転後、延宝三年(1675年)に火災に遭遇し、記録の原本ほか信長に関する遺品などを焼失してしまった。現在残された文書は、老人たちの記憶をもとに書き改められたものであるのだが、内容の大筋については原本に近いものと考えている。
 阿弥陀寺の山門の前には「織田信長公本廟」と彫られた石碑が建てられている。大正六年(1917年)に、織田信長に正一位の位階が追贈されることが決まったのだが、宮内庁の調査でこの寺が「織田信長公本廟」と公認されていることは注目して良いだろう。寺の墓地には信長公本廟のほか織田信忠、森蘭丸など信長に仕えた家臣たちの墓が並んでいるという。

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