東京奠都の後の京都のダメージを考える
前回の「歴史ノート」で、明治二年(1869年)に明治政府は、京都市民らを騙してまでして東京に都を移したのは、関東・東北地方に睨みを利かせながら、わが国全体をバランスよく統治するためには首都は東京がベストであり、荒廃が進み治安が悪化していた当時の東京の状況をいつまでも放置するわけにはいかなかったことを書いた。
しかしながら、京都市民にとっては、京都が都(みやこ)でなくなるという事は大変な事である。単に千年以上続いた歴史が終わるということだけではなく、それまでの京都の繁栄が朝廷の存在に負うところが大きかっただけに、遷都後のダメージは甚大なものとならざるを得なかった。そのことは幕末の京都の地図を見ればおおよその見当がつく。
以前は『“超検索”幕末京都絵図』というサイトがあり、幕末の地図をPDFファイルで入手できたのだが、最近このサイトは閉鎖されて、そのかわりスマホのアプリ【おおきに京都】を入手することで、幕末の京都地図と現在の地図を簡単に比較できるようになっている。KICS社の次サイトでアプリのQRコードが出ているので、京都へ旅行に行かれる方は事前にインストールされることをお勧めしたい。
このアプリの幕末の京都地図を確認すると、幕末の京都には各藩の屋敷や宮家や公卿の家があちこちにあり、かなりの面積を占めていたことがわかる。
例えば、今の京都大学のキャンパスには尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷などがあった。同志社大学のキャンパスには薩摩島津屋敷や多くの宮家や公卿の屋敷があった。平安神宮から市立美術館、市立動物園あたりも、彦根井伊屋敷、越前松平屋敷、加賀前田屋敷があった。また京都御所やその周辺には多くの宮家や公家屋敷が存在した。
首都の機能が東京に移転してしまえば、これらの建物の大半が空家となり、さらに、これ等の建物で働き、あるいは出入りしていた多くの人々が、京都を去ることにより人口が急激に減少し、武家や宮家や公卿が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して京都の賑わいは消え、荒廃していくことにならざるを得ない。京都市上京区役所のHPによると、実際に京都の人口は維新前の三十五万人から二十万人と激減したのだそうだ。
薩摩藩屋敷は桑畑になった
立命館大学の河島一仁氏がネット上で『大学と旧制高校の立地で考える近代京都の地理』という論文を公開しておられる。その文章の中に、同志社大学の今出川キャンパスの土地を取得する際の状況が書かれている。
同志社英学校は1875年に寺町丸太町上ルで開校され、翌年に薩摩藩屋敷跡に移転した。『同志社百年史』によると、新島襄らは、もと会津藩士山本覚馬が『所有していた旧薩摩屋敷あとの桑畑を校地として譲り受けること』になった。『山本がそれを入手する以前は薩摩屋敷といわれた』と同書には書かれている。この記載によれば、明治維新後に薩摩藩屋敷は取り壊されて、その跡地は桑畑になっていたことになる。
『大学と旧制高校の立地で考える近代京都の地理』
尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷、彦根井伊屋敷などが、明治時代の初期にどのような状態になったかはよく解らなかったが、薩摩島津屋敷とよく似た状態になっていたのではないか。
しかしながら、「遷都の詔勅」を出さないで京都市民を騙して遷都を強行した明治政府も、騙された京都市民も、千年の都である京都の経済基盤を、このまま瓦解させ、荒廃させていくわけにはいかなかったのである。
町組改正と小学校
慶応三年(1867年)から明治元年(1868年)にかけて西谷淇水(にしたにきすい)という寺子屋経営者から数度にわたり官営の教学所すなわち公立学校の設置を建白していたそうだが、京都府はこの建白を採用し、寺子屋に代わる施設として小学校をを「町組(ちょうぐみ)」ごとに創設する計画を立てて強力に推進したことが京都市情報館のHPに出ている。
「町組」というのは、道路を挟んで形成された「町」が地域的に連合した住民自治の組織で、十六世紀ごろから京都で形成され、幕府など洛中への布告や通達などは、「町組」宛てに出されてきた歴史がある。
自然発生的に形成されたものであったために戸数にばらつきがあり、京都府はまず町組を改正してそれぞれの戸数を平均化しようとした。上記の「京都市情報館」には次のように解説されている。
第一次町組改正では、江戸時代の町組が基本となり、町数の平均化などに不徹底がありました。そこで,明治二年(1869年)、京都府は再び改正に乗り出しました。
三条通を境線に、平均町数を一組あたり二十六から二十七か町とし、上京が一~三十三番組、下京が一~三十二番組の計六十五の町組が成立。京都の新しい行政基盤となりました。これが第二次町組改正で、このとき確定した町組が現在の元学区(もとがっく)につながっています。
そして一つの番組に自治会所的機能を併せ持つ小学校を作ることとなり、明治二年(1869年)中には六十四校の小学校が開校されたという。(町組の番号が付されていたので「番組小学校」と呼んでいた。)
これらの小学校は明治五年(1872年)の、国家による学校制度の創設に先立つ、わが国で最初の学区制小学校であった。
とはいえ、建築資金には町組にも負担が求められていたため、教育の必要性が十分に認識されていたわけでもない当時に於いて、この事業の推進には困難を伴ったようだがそれを乗り切り、次に建築資金の負担をどうするかという点について町組との調整が行われている。
昭和十六年に刊行された『京都市政史 上巻』にこう記されている。
(明治元年)十一月右の三十三組より小学校建設を申出で、自余の各組も相次いで上申するにいたり、学校経営の機運漸く熟し来ったので、同年十二月創設費用として金八百円を各組に交付し、内半額はこれを十ヶ年賦を以て返還せしめることとし、…(明治二年)五月小学教則を定め、また市中小学校教師給および学資概算の達示をなし、同年五月二十一日始めて上京第二十七番組小学校(現柳池小学校)が全国に魁(さきがけ)て光輝ある開校の典を挙げるにいたったのである。
(『京都市政史. 上巻』京都市 昭和16年刊 p.282)
次いで六月八日下京第十二番組小学校(現豊園小学校)、六月十一日下京第十三番組小学校(現開智小学校)相次いで開設せられ、翌三年十二月末までには市内六十四校の設置を見るに至った。
上の画像はわが国で最初に開校された学区制の小学校である上京二十七番組小学校の講堂の写真だが、この学校は明治六年に「柳池校」と改称され、平成十五年(2003年)には京都市立柳池中学校と京都市立城巽中学校とが統合され、御池中学校となっている。同様に豊園、開智小学校は平成四年(1992年)に有隣、修得、格致小学校と統合され、豊園小学校の校地に洛央小学校が開校している。
開校資金の捻出
ところで、一校あたり八百円を六十四校に交付したとあるのだが、総額五万一千二百円もの資金をどうやって捻出したのかは非常に興味深いものがある。明治元年の新政府の財政は戊辰戦争の戦費調達のために相当不如意であったはずなのだ。
高野澄氏の『京都の謎~~東京遷都その後』によると、高野氏は二条城にあった幕府のものや、旧旗本等から没収された財産を転用した可能性を示唆しておられる。
旧幕府の財産没収の手続きをしたのがだれであったか、くわしくはわからないが、責任者のひとりは槇村正直(まきむらまさなお)であったはずだ。
槇村は議政官史官試補の身分として、京都府出仕を兼ねていた。太政官の三権――立法・行政・司法――のうち立法をつかさどるのが議政官だが、槇村の例をみてわかるように、議政官は行政にも介入したのである。
旧幕府関係の没収財産はすべて政府の所有であり、京都府の小学校建設の補助金として投入されるとしても、政府の判断が前提となるべきである。だが、京都の小学校に投じられた補助金については、この手続きは踏まれなかったのではなかろうか。というのは、明治元年十二月二十六日付で、槇村が京都府から特別表彰をうけたのである。小学校建設の費用調達の目途がついたというのが表彰の理由だが、早すぎるのではないか。
府から八百円の補助金の件がしめされたのが十二月六日。それからちょうど二十日すぎた時点で府は槇村を表彰した。…学校が建てられた時点で槇村を表彰すればいいはずなのに、なぜ、これほど急ぐのか。――建設補助金を調達したことに格別の意味があったに違いない。…政府の金庫に入れると、そのままとりあげられるおそれがある。はやいうちに京都の小学校建設の補助金につかってしまって、功績者の槇村を表彰したばかりです――こういえばまさか政府も、返せとはいわないだろう――ということではなかったか。
(『京都の謎~~東京遷都その後』祥伝社黄金文庫p.53-54)
槇村は長州藩の出身で、後に第二代の京都府知事となり京都の復興に尽力した人物だが、要するにこのとき槇村は、京都市の小学校建設のために、明治政府に入れるべき金を流用したと高野氏は書いている。
「国立国会図書館デジタルコレクション」で当時の財政資料を探すと、『明治財政史 第三巻』に明治元年の政府予算・決算が載っているのが見つかった。
経常歳入はわずか三百六十六万しかなく、戊辰戦争の軍資金や幕臣・諸藩に対する貸付金などの臨時歳費二千五百万円の大半を太政官札の発行と借入金で賄っている。
歳入項目を見ていくと、地所売払代二万三千三百九十九円、不要物品売払代二万六千六百七十一円という項目がある。明細については記載がないが、もしこの中身が槇村の尽力により捻出した部分が過半であるならば、この金の大半を京都の小学校建設資金に充てたいという説明で事前に幹部を説得していた可能性は残る。政府としては東京奠都後の京都の復興を何もしないわけにはいかず、町組が半額負担するのならば、その程度の支出を認めたということは十分ありうることだと思う。その場合は「流用」という表現は適切ではない。
槇村がいかにして資金を引き出したかはともかく、明治二年(1869年)五月二十一日に上京二十七番組小学校が富小路通御池の片山町に完成したのを皮切りに、同年十二月のうちに六十四すべての番組小学校が完成した。
これらの小学校は町組会所を兼ねていただけでなく、校内に見廻り組や火消し役の詰所なども設けられていて、町組の中心施設であったというのがおもしろい。
当時の小学校は義務教育ではなかったので、京都府からの補助金の年賦返済と学校の運営費を町組の人々が平等に負担しなければならなかったが、負担能力は家によって異なるので、貧窮者に対しては支払いを免除するようなこともあったようだ。また、商売に行き詰った者に資金を貸付するようなこともあったという。
そして、町組ごとに出資金を募ってそれを貸し付けに回し、その運用利息によって小学校の運営費を賄おうという計画が生まれて、「小学校会社」と名付けられたこの基金運用方式を示唆したのも、槇村正直なのだそうだ。
それぞれの番組で小学校会社が設立されて京都市民から総額一万両を超える出資金が集まり、町組の結束を強めることに大いに役立ったという。
京都の番組小学校について興味のある方は、京都市学校歴史博物館で「京都・開化の風景」という展示が六月一日から再開される予定である。私も是非展示物を見に行きたいと考えている。
槇村正直が京都で実行した復興策
明治天皇が明治二年(1869年)に東京に行幸され、これが実質上の遷都であることを知って京都の人心は動揺したが、京都府は学校設立ばかりではなく様々な勧業政策・開化政策を推進し、それに京都の商工業者が呼応し、官民の協力により京都の近代化が進んでいったという。
明治時代の初期に様々な施策実施されたが、そのほとんどに槇村正直が噛んでいるのだ。
槇村は京都に議政官の役人として京都に着任後、権大参事となり、太政大臣三条実美に謁して「京都府施政の大綱に関する建言書」を提出し、その許可を得たとされる。その後大参事となり、明治八年(1875年)には第二代の京都府知事に就任している。彼が知事を離任した明治十四年(1881年)までに起こった京都の出来事を拾うと、
・明治二年(1869年) わが国最初の学区制小学校の開設
・明治三年(1870年) 舎密局(せいみきょく、理化学講習所:京都大学の前身)の開設
・明治四年(1871年) 勧業場(産業振興センター)の創設、製革場の設立、京都博覧会の開催
わが国最初の博覧会が西本願寺で行われ、それを機に京都博覧会社が京都府と民間によって創設され、明治五年(1872年)に西本願寺、建仁寺、知恩院を会場として第一回京都博覧会が開催され、それ以降昭和三年(1928)まで毎年開催されたという。そのうち第二回から第九回までの会場は京都御苑であったというのがおもしろい。東京奠都により宮家や公卿のほとんどが東京に移転し、京都御苑内の多くは空地になっていたのである。
つづいて、
・明治五年(1872年) 新京極の建設、牧畜業の開業、わが国で最初の女学校である「新英学校女紅場」が旧九条殿河原町邸(上京区土手町通丸太町下ル)に設立。(京都府立鴨沂(おうき)高等学校の前身)
・明治八年(1875年) 同志社英学校(現 同志社大学)が開学。日本初の幼稚園(幼稚遊嬉場)が京都・上京第30区(柳池)小学校内に開設。
・明治十二年(1879年) 京都府の「療病院」に医学院(現 府立医科大学)を開設。西本願寺大教校(現 龍谷大学)が開学
・明治十三年(1880年) 京都府画学校が開学(のちに 京都市立芸術大学美術学部)
など、驚くほど多くの出来事が集中して起こっている。
京都は大阪よりも人口が少なく経済規模も小さいのに、なぜ大きな大学が沢山あるのかと長い間不思議に思っていたのだが、東京遷都の後の京都を復興の歴史を学んでようやくそのことを理解した。
教科書では「東京遷都が行われた」と簡単に書かれているだけなのだが、京都から東京に都が移れば良質な消費者が大挙して京都を離れ、生産者や流通に関わる業者は大幅に売り上げを失って衰退していくことが避けられず、連鎖倒産や廃業が続いて人口が減りさらに荒廃していくというスパイラル現象が避けられなかったのである。そうならないために、当時の京都府は官民が協働して、都が移された後の京都を復興させたことをもっと評価すべきだと思う。
東京遷都あとの京都で、このような官民あげての努力がなされなかったとしたら、京都の文化財がこれほど多く残されることはなく、今日のように京都が多くの観光客で賑わうことにはならなかったのではないだろうか。
規制緩和至上主義的な経済施策で地方を疲弊させ、地方の経済基盤を台無しにさせ、新型コロナ感染対策では根拠の乏しい施策を繰り返して総需要不足を発生させ、大半の企業と従業員を疲弊させているどこかの国の政治家や官僚は、槇村のやったことを見習うべきだと思う。
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