韓国統監府初代統監・伊藤博文
明治三十八年(1905年)の第二次日韓協約によって大韓帝国が大日本帝国の保護国となり、韓国統監府が設置されると伊藤博文はその初代統監に就任した。
『伊藤博文言行録』によると、伊藤が統監として韓国に赴任する前に家族や一門を集めた決別の宴で次のように述べたというが、命の危険を覚悟していないとこのような発言はありえない。
今やこの老体を提げ、至尊の委託を重しとなして韓国に赴く。韓国は陰謀の巣窟なり。刺客の淵叢なり。しかして予が受けたる任務は、最も陰謀国の陰謀と刺客国の刺客とに注意して迎えらるべきものなり。予自ら予の危うきを知らざるにあらず。また予の老いたるを知らざるにあらず。されど万死は平生の志のみ。残躯何ぞ惜しむに足らん。
秋山悟庵 編著『伊藤博文言行録』大京堂出版部 昭和9年 p.107
戦後の教科書などではわが国が韓国を強引に植民地とし、住民を搾取したようなニュアンスで描かれているのだが、このブログで十九世紀末に朝鮮半島を旅行したイザベラ・バードや明治三十八年(1905年)に視察に訪れた荒川五郎の記録を紹介させていただいた通り、朝鮮半島の人々は長きにわたり李朝による搾取と虐政の中にあって極めて貧しく、国家の体をなしていなかったことをまず理解しておく必要がある。
加耶大学客員教授の崔基鎬(チェ ケイボ)氏は『歴史再検証 日韓併合』で、伊藤が統監として朝鮮半島でどのような課題に取り組んできたかについて述べている。
当時の韓国の財政は破滅的状態で財源は涸渇し、政財界には不正と腐敗だけが蔓延していた。
伊藤が統監として赴任した三年間、彼は祖国日本から無利子、無期限の資金三千万円を引き出し、韓国の道路、学校、土木工事、鉄道、病院建設にこれを充当した。
彼は韓国および韓国人のために、中央政府の大臣と、地方長官には韓国人を任用し、日本人はその下の補助役に就かせるにとどめた。そればかりではなく、日本人には荒蕪地の開発などの難しい仕事をやらせた。だがこうした事績は、韓国では(あるいは日本でも)、不当にも抹殺されて、顧みられることもない。…中略…李朝当時の韓国は、両班(ヤンパン)という堕落した不労所得者の貴族集団が、良民、農民たちから財産と生産物を奪い、百姓たちは瀕死の状態に喘いでいた。
李朝の五百余年間、正式の学校もなく、名ばかりの国立(官立)学校が四校あるにすぎなかったが、伊藤は、教育の重要性を考えて『普通学校令』を公布し、統監府時代(一九〇六~一〇年)には、すでに日本の資金で百校以上が築造され、合邦以後もそれは続き、一九四三年には五千校に達した。
また李朝の腐敗した統治にあってインフレーションに悩む民衆のために、朝鮮を『円通貨圏』に統合した。朝鮮史上、紙幣が流通したのは、実はこれが初めてのことで、これによって物価が安定し、朝鮮に『現代的貨幣制度』が確立されたことも、伊藤の功績である。
『歴史再検証 日韓併合』祥伝社黄金文庫p.18~19
わが国の支援で朝鮮はどう変わったのか
わが国が朝鮮の近代化支援を開始したのは日露戦争開戦後のことだが、そもそもこのような貧しい国に財源は乏しく、わが国が人材を派遣し巨額の資金支援をして近代化が実施されたことは戦後の一般的な歴史叙述で語られることはない。
一九〇四年、日清戦争に続いて日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を見かねて、目賀田種太郎を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として建て直すという態勢がようやく緒につくことになった。
目賀田財政顧問と統監府は朝鮮の歳入不足分を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金『立替え』を実施したほか、直接支出で援助した。
たとえば一九〇七年度で、朝鮮の国家収入は七百四十八万円しかなく、必要な歳出は三千万円以上であったから、その差額は全額日本が負担した。
一九〇八年度には、これがさらに増えて、合計三千百万円という巨額の資金を日本は支出した。
統監府時代の四年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、千四百二十八万円にのぼった。そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、九千万円に達している。現在の朝鮮・韓国の歴史では、日本の特恵的支援には一言も言及がなく、侵略だけを強調しているが、これがいかに偏狭な史観であるかを自覚しなければ将来は開けない。
一九一〇年八月二十九日には、明治天皇から恩賜金として三千万円が与えられ、旧韓国が日本政府から借用していた二千六百五十一万円は、そっくり棒引きされた。
同上書p.20~22
わが国の教科書も崔基鎬氏のいう「偏狭な史観」に毒されていることになるのだが、韓国の学者が次のように述べていることを日本人はもっと知るべきではないだろうか。
日韓併合によって、搾取され呻吟したのは、韓国・朝鮮国民ではなく、日本国民であった事実を認めるべきである。
同上書p.24
この記述が正しいことはわが国が統治する前と統治後の写真を比較すれば誰でもわかる。
上の画像は明治三十九年(1906年)に出版された『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』の京城(ソウル)南大門の写真だが、その九年前の下の写真と比較してほしい。
上の写真は同じく『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』に出ている京城鐘路で、下の写真は明治四十三年(1910)に出版された『韓国写真帖』の同じ道路のものである。これだけ見ても、わずか数年の間に随分変貌を遂げたことがわかる。
この時代の朝鮮半島の写真を紹介しているサイトが少なからずある。興味のある方は「黙っていられない」というサイトに集められた、日韓併合前・併合後の写真などを参考にされるとよい。
朝鮮半島はわが国のインフラ投資などにより人々が豊かになったことは、人口が大幅に増加していることがからも窺うことができる。
韓国の教員用国定歴史教科書によると、一七七七年、総人口は一八〇四万人であったが、一〇〇年後の一八七七年には一六八九万人で六.七九%減少した。
同上書 p.32
さらに日韓併合時の一九一〇年には一三一三万人となった。それが三二年後の一九四二年の人口は二千五百五十三万人で、併合時の倍近くになった。
このことは、李朝五一八年の統治がいかにひどいものであったかを如実に証明している。
当初は日韓併合に強く反対していた伊藤博文
伊藤は国際協調重視派で、韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥としばしば対立し、韓国の国力がつくまでは保護国による実質的な統治で充分との考えから日韓併合には懐疑的であった。Wikipediaに明治四十年(1907年)七月の伊藤の演説が紹介されているが「余は合併の必要なしと考ふ。合併は却て厄介を増すに過ぎず、宜しく韓国をして自治の能力を養成せしむべき也」と新聞記者相手に語ったという。
しかしながら、その後韓国内で統監府に対する反対運動(義兵闘争)が盛んになって考え方が変化したのか、明治四十二年(1909年)四月に、時の首相・桂太郎と外相・小村寿太郎が韓国併合策を陳述すると伊藤はそれを是としたという。そして六月には統監の職を辞し、副統監の曾禰荒助が第二代の統監に就任した。その後伊藤は事後処理のため再び訪韓し、「韓国」政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、また「韓国軍部廃止勅令公布」を行わせている。
暗殺事件直後韓国太皇帝(高宗)が伊藤公を「韓国の慈父」と呼んだ
そして伊藤はその年の十月二十六日、ロシア帝国蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために哈爾濱(ハルビン)を訪れた際に、何者かに暗殺されてしまったのである。
この大事件に韓国人が関与していたという情報が京城に届くと、韓国太皇帝(高宗)および皇帝(純宗)は驚愕したという。韓国のサイトで韓国統監府の文書データベースが一部公開されていて、それによると暗殺事件の翌日である十月二十七日に太皇帝(高宗)は次のように述べたという。
太皇帝曰ク伊藤ヲ失ヒシハ東洋ノ人傑ヲ失ヒシナリ伊藤ノ吾國ニ對スル常ニ忠實正義ヲ以テスルノミナラス彼ハ骨ヲ長白山ニ埋ムルモ吾國文明發達ヲ睹シタシト揚言セリ日本ニ政治家多シト雖モ何ソ能ク伊藤ノ如ク世界ノ大勢ヲ見テ東洋平和ヲ念トスルモノアランヤ伊藤ハ實ニ吾國ノ慈父ナリ此慈父ニ對シ兇害ヲ加フル我國民アリトハ事理ヲ解セサルノ甚タシキモノナリ恐クハ伊藤ノ眞意ヲ解セサル海外流浪者ノ所爲ナルヘシ
(60) 伊藤公ノ遭難ニ付宮中ノ模樣 (其二)
そして翌二十八日に皇帝(純宗)が統監府を弔問に訪れ、帰途に徳寿宮を訪ねた際の太皇帝の言葉も同じ文書に記録されている。
伊藤ヲ失ヒタルハ吾國ト云ハス日本ト云ハス東洋ノ不幸タルヲ悲ムト同時ニ伊藤ニ對スル同情ノ念禁スル能ハス次ニ兇徒カ吾國人タルニ至ツテハ赤面ノ至リナラスヤ然ルニ日本天皇ハ唯一ノ重臣ニシテ而モ大師タル伊藤ヲ害シタル兇徒ヲ出セシ國ノ皇太子ヲ飽マテ輔育セントノ誠意ハ其恩山海尙ホ及フ處ニアラス何ヲ以テ日本皇室ニ謝スヘキカ云々
(60) 伊藤公ノ遭難ニ付宮中ノ模樣 (其二)
太皇帝(高宗)の考えが以前と変わったのかもしれないが、二年前の一九〇七年に高宗はオランダのハーグで開催された第二回万国平和会議に密使を送り、ロシアの助力を得て日本に奪われた外交権回復を図ろうとしたことがあった。この会議では高宗の密使は参加国すべてに拒否され、高宗はわが国から責任を問われて退位を迫られた(ハーグ密使事件)。このようなことがあったので、わが国では太皇帝をあまり信用していなかったようだ。
二〇〇九年八月二十九日の聯合ニュースに、日本政府が伊藤公暗殺の背後に高宗がいたと判断していたことを示す機密文書が発見されたことが報じられているが、この事件は安重根らによる単純な犯行ではなさそうである。
日韓両国で「併合」を目指す動きが加速した
安重根は韓国の独立を目指していたのだろうが、その後は彼の意図とは反対の方向に事態が進んでいった。伊藤公暗殺事件のわずか三十九日後に、韓国最大の政党であった一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏している。
日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか。
「韓日合邦を要求する声明書」
伊藤公暗殺を機に韓国では独立を堅持することよりも日本との併合によって地位の向上を図るとする考えが優勢となっていった。
また、これまでわが国では莫大な資金が必要となる韓国併合に反対する声が強かったのだが、伊藤公暗殺後に併合推進派が優勢となり、主要国も日韓併合に賛成したことから、早期併合することが閣議決定し、一九一〇年八月二十二日に日韓併合条約が調印されて、正式にわが国は韓国を併合したのである。
今の韓国では安重根を「独立の闘士」などと呼んで英雄扱いしているようなのだが、伊藤博文暗殺事件によって、結果的に日韓併合は早まったのである。日韓併合を望んでいた勢力に勢いを与えた安重根の行動を賞賛することは論理的にもおかしなことなのである。
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