以前このブログで旧長州藩の奇兵隊が明治三年(1870年)頃に新政府に反旗を翻し、騒動に関与したメンバーが百人以上斬首されたことを書いた。どういう経緯でこのような事件が起きたかについては「旧長州の奇兵隊が明治新政府に反旗を翻した事情」で書いたので繰り返さないが、かつてこの奇兵隊のメンバーであった人物の中に、明治の大富豪になりあがった人物がいる。藤田財閥の創立者である藤田伝三郎がその人である。
奇兵隊脱退と失明

藤田伝三郎は天保十二年(1841)に長州藩・萩の酒屋の四男として生まれ、文久三年(1863年)に白石正一郎邸で奇兵隊が結成されると伝三郎も参加したのだが、元治元年(1864年)の蛤御門の変(禁門の変)で運悪く創(きず)を負い、武士として身を立てることを断念して萩の実家に帰っている。
そもそも伝三郎が奇兵隊に入ることについては、父も兄も大反対していたのだが、その伝三郎が奇兵隊を脱退し、実家に帰って諸国を回る旅費が欲しいと兄に頼んだ場面を、白柳秀湖 著『日本富豪発生学. 下士階級革命の巻』(昭和六年刊)には次のように描かれている。
兄の鹿太郎は伝三郎の要求を聞くと、直ちに五十両の金包みをその前に置き、これはお前に貸してやるのではない。お前にくれてやるのだ。兄弟の手切れ金だ。お前のような不心得のものと、永く兄弟の縁を結んで居たとしたら、藤田の家も、いつどんな災難に見舞われるか知れたものでない。兄弟の縁も之限りだ、サアこの金を以て、どこへでもサッサと立ち退いてくれ、その代りきつと藤田家の敷居をまたぐことのないようにしてくれと、恐ろしい権幕であった。
白柳秀湖 著『日本富豪発生学. 下士階級革命の巻』千倉書房 昭和六年刊 p.29
それからのち伝三郎は中国地方を巡りながらその金を使い果たしてしまい、そのうえに奇兵隊時代から患っていた眼の病が重くなり、摂津国有馬温泉に辿り着いた時には、両目が見えない状態であったという。
斎藤辰吉(中野梧一)との出会い

伝三郎は、有馬温泉第一の宿である「御所の坊」の主人に助けを求めると、主人は湯山町にいた盲人頭に頼んで伝三郎に按摩を習わせたという。まもなく伝三郎はその術を取得して、一人前の按摩として独り立ちすることとなる。
そして慶応三年(1867年)の三月のある日、有馬温泉に滞在していた武士に按摩の声がかかり「御所の坊」に向かったのだが、その武士は斎藤辰吉という名で、伝三郎の按摩に身を委ねながら二人は時局などの話題に会話が弾んだという。
辰吉は第二回長州征伐で幕府のために力を尽くしたが、この争いで体に何か所か創を負い、回復するまで有馬で静養していた経緯にある。会話の途中で辰吉は、伝三郎の左腕に創があることに気が付く。前掲書にはその場面についてこう記されている。
ふと見ると按摩の左の腕に創痕がある。辰吉は流石に商売柄。それを鉄砲創と見てとった。さっきからの話し振りと思い合わせて、辰吉は早くも按摩を長州方の落武者とにらんだ。
そこで辰吉は咄嗟(とっさ)にその左の腕の創についてたずねた。按摩は少なからず狼狽した。しかし何食わぬ顔で、その場をつくろい、アッサリ話頭を他に転じようとした。けれども初めの一目で鉄砲創とまでにらんだ辰吉は容易に逃がさなかった。『鉄砲創もただの鉄砲創じゃない。椎の木玉じゃないか。』とまで問い詰められては、按摩も隠し切れず、到頭その素性を明かした。
按摩は果たして奇兵隊の脱走者で、辰吉とはきのうまで敵味方として戦陣の間に相見えた藤田伝三郎であった。辰吉は人間の運命の奇なるに驚いた。そうして藤田が失明した前後の事情を聞くに及んで、心からその不幸に同情した。
同上書 p.38
少し補足すると、文中の「椎の木玉」というのは薩長両藩が先んじて導入したミニエー銃の弾丸で、椎の実の形で銃身にライフリングと呼ばれる螺旋状の溝があり、有効射程は球形の弾丸を用いるゲベール銃の三~六倍に伸び、極めて殺傷能力が強かった。
それ以来辰吉は何度も伝三郎に按摩を依頼し、休暇が終わり有馬温泉を去る時に伝三郎に百両の金を贈ったばかりではなく、伝三郎の眼病の治療のためヘボンの治療を受けるように薦めたという。伝三郎は辰吉の行き届いた親切に感謝し、辰吉に教えられたままヘボンを訪ね手術を受けて、両眼の視力を回復したのである。
ちょうどその頃に将軍慶喜は大政を奉還し、ほどなくして鳥羽伏見で戦争が始まった。

辰吉は彰義隊に身を投じた後、箱館に走って大鳥圭介らとともに榎本武揚の軍に身を投じたが、明治二年(1869年)に箱館戊辰戦争も終結し、榎本と一緒に捕えられることとなる。
ところが、箱館で捕らえられたメンバーのほとんどは翌年の特赦でその罪を許され、釈放されている。白柳の前掲書には、その背景について次のように解説されている。
著者は維新の歴史を研究する毎に、一から十まで薩長下士階級の功績として通念づけられている文物制度の草創が、おびただしく幕臣の手によって成されていることを見て、微笑を禁じ得ぬものだ。勿論、徳川氏の封建制度を倒すために、いわゆる尊攘運動の第一線に立って働いたものは彼等だ。しかし彼らの幕府打倒運動が一段落を告げ、いよいよ新政府の組織となった時、財政の事は勿論、教育の事にしても、産業の事にしても、衛生の事にしても、それは譜第といわず、旗本といわず、彼等がきのうまで叛賊よ、朝敵よと叫んで殲滅を期した幕臣の中から人材を抜擢して、その助力を借りるのでなければ手の下しようもなかったものらしく、その焦心の跡の歴然としておおい難きものがある。
同上書 p.49~50
政権打倒を唱えてきただけの明治新政府のメンバーに政治や財政の実務を担える人材は少なく、実務的な人材の多くを幕臣に頼らざるをえなかった事情があったようだ。そのおかげで辰吉は、予想外に早く自由な身となったのである。
大阪で靴屋を開業したのち中野梧一と再会
辰吉は明治三年(1870)に釈放されたのち静岡に移住し、従兄弟の籍に入って「中野梧一」と改名後、明治四年(1871)九月に大蔵省に勤務となり、十一月には山口県参事に登用されている。
旧幕府出身者が討幕派の旧領の県幹部に任命されたのは極めて異例な人事であったのだが、明治七年(1874)には中野梧一は山口県県令に昇進を果たしている。県令としての評判はかなり高かったようなのだが、翌年には梧一は職を辞している。その理由は、前原一誠ら山口県の不平士族が反乱を起こす動きがあり、旧幕臣で山口県令という自分の立場で反乱の鎮圧をした場合に、その後苦しい立場に置かれることになると考えたのではないだろうか。梧一は、その後実業界に転身し、大阪に居を構えることとなる。

その頃、藤田伝三郎も大阪にいて高麗橋二丁目で靴屋(藤田伝三郎商社)を営んでいた。
藤田伝三郎商店が非常に繁昌して発展していった経緯について、白柳秀湖は前掲書で以下のように解説している。
藤田の店がなぜかように繁昌したかというに、それは第一に時機もよかった。藤田が開店すると間もなく佐賀の乱があり、征蕃の役があり、神風連の騒動があり、秋月の変があり、萩の乱がこれについで起こるという有様にかてて加えて、全国各地の小さい一揆騒動は引きも切らず、政府は全くその鎮圧に忙殺せられていた。出兵また出兵、軍需品はいくらあっても足りぬという時勢であったから、藤田の靴店は素晴らしい勢いで発展した。もちろん藤田も長州人で、その上に奇兵隊の残党の一人であったからある程度まではかような形勢を当て込んで開業したものかもしれない。
その頃、大阪鎮台の司令長官は四條隆謌(たかうた)であった。これは文久の政変に長州に落ちた七卿の一人で、長州人とは古くから切っても切れぬ関係にあった。かような四條隆謌であったから、藤田が取り入るには何かと便利が多かったに違いない。藤田はこの人によってまず武庫司の御用達に取り立てられた。
四條についで大阪鎮台の司令長官に任じたのは、同じく長州人の陸軍少将、鳥尾小弥太であった。ところが藤田にとって都合のよかったことは、この鳥尾がまた自分と同じく奇兵隊士の一人であった。
同上書 p.69~70
このようにわが国では不平士族の反乱が各地で相次いで起こっており、政府はその鎮圧に忙殺されていて、そのため軍需品はいくらあっても足らない状態で、靴も良く売れていたのである。白柳はその頃に、伝三郎と梧一との関係が親密化していったものとみている。

そして明治十一年 (1877年) には、国内で最後の内戦とされる西南戦争が勃発し、藤田伝三郎商社は正当軍の輜重用達を命じられ、軍隊用の靴だけでなく被服、糧食、器械などを一手に引き受け、さらに人夫の請負までして大儲けしたという。また戦地でコレラが流行したために、当時消毒剤として用いられていた石炭酸(フェノール)が十倍に高騰し、予め多めに仕入れていた藤田組はそこでも巨万の利益を得ることになる。
しかしながら戦争が終わると、戦争で大儲けした藤田組に対して社会のあらゆる方面から非難の声が高まっていった。大多数の国民がこの戦争のために大なり小なり犠牲を払っている中で、八ヶ月か九ヶ月の間に莫大な利益を得たことが心情的に許せなかったのである。
この非難の声につれてまず起ったのは、藤田組が請け負って戦地に送った人夫の一部であった。彼らは戦争が済むと、契約以外には一文の手当にもありつけず、そのまま解雇されることになった。藤田組に対する世間の悪いうわさは散々に聞かされていた彼らの不平は忽ちに爆破した。
人夫どもは叫んだ。吾々は弾丸の下をかいくぐって戦死者の死骸を取り片づけ、あらゆる惨苦を忍んで糧食、弾薬の運搬を手伝った。吾々の働きは軍人と同じだ。吾々の勲功も軍人と同じだ。しかるに藤田組は吾々が命と交換に給せられる賃金の頭をはねてしたたかもうけておきながら、今、吾々の解雇に際し、契約をたてにとって、一文の手当ても出さぬというのは不都合であるというので一斉に起って、藤田組に迫ったものらしい。
同上書 p.75
この時の人夫側の要求は、千余人に対し五千円なのだそうだが、一人あたりにして五円程度。Grokに尋ねると当時の五円は現在価値にして十万から十五万円程度ということである。人夫との交渉は中野梧一が当たり、その結果要求額の半額の二千五百円で妥結したとある。
人夫の問題は一応片付いたのだが、世間の藤田組に対する嫉視反感はその後も収まらず、その後藤田伝三郎は大きな事件に巻き込まれることになる。この事件は藤田組贋札事件と名づけられているが、この話をすると長くなるので、次回の「歴史ノート」に記すことに致したい。
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