前回記事で、『ナチスのユダヤ政策』(GHQ焚書・内務省検閲発禁図書)に、ロシア革命の翌年にドイツ革命が少数のユダヤ人の共産主義者によって仕掛けられ、帝政ドイツが打倒された後ユダヤ人は、第一次大戦に向けての戦時体制移行を契機としてドイツ経済を牛耳り、その後ドイツの政治も主導権を奪い取っていったことを書いた。そこでドイツでは愛国的民族団体が立ち上がり、当時オーストリアのウィーンで働きながらユダヤ人の研究をしていたヒットラーがミュンヘンに戻り、一九二〇年にナチス党を結党している。
ナチスの「ユダヤ人排撃綱領」に対しユダヤ人は戦うことを宣言した
ナチスがユダヤ人排撃綱領を発したのは一九三三年のことだが、その後ユダヤ人たちはどのように対抗したかしたかに解説されている部分を紹介したい。
一九三三年年二月、ヒットラーが首相となった頃は、反ユダヤ運動も未だ部分的であった。しかしながら、総選挙前、内務執政官ゲーリングが「ユダヤ商人の保護は、プロシア警察の任務に非ず」と宣言して以来、ユダヤ人の弾圧は俄然強化せられた。
ドイツのユダヤ人圧迫は、既に古くから存在していて、ユダヤ人の全人口による比率は、一九〇七年〇.九二%、一九一〇年〇.九五%、一九二五年〇.九一%であり、五六四、三七九人である。
三三年一月三十日、ドイツ政府は、首相をヒットラーとし、他の大部分はブーゲンベルグの指揮下にあるドイツ国権人民党によって構成せられた。
ブーゲンベルグ党はその支持を重工業及び大地主(ユンカー)に受け、ヒットラー党も産業ブルジョアジー等に金融的援助を与えられ、プチ・ブル中間層に立脚せるために、ユダヤ人追放は大いに歓迎せられた。
この反ユダヤ主義はシュテッカーの政策を継承せるものであるが、ブーゲンベルグ党は次第に資本家重工業の金融分子と結合し、中間層はナチスが主となり、かくて反ユダヤは、ナチスが最も積極的となったのである。
しかもこの時、既にヒットラーは、ティッチェン、クルップ等のドイツ産業資本を強圧的にその傘下に入れ、これて密約を結ぶことによって、ヒットラー政権獲得後の経済政策が立てられ、排撃せられ追放せられるユダヤ人の資金網をも、このティッチェン、クルップの経済網に結びつけるの企画がなされ、既存の国際ユダヤ金融網に抗して新しき世界経済機構を建設せんとするのである。
ナチスの統計によれば、ドイツ小売商人は、大部分、ユダヤ豪商の大百貨店に圧倒せられて苦悩しており、ドイツ国内の生活は益々困窮し、失業群は恒常化し、これを救うためにはドイツ金融界を独占するユダヤ人の排撃が絶対必要となったのである。
かくて三三年三月二十三日、ヒットラーは、ユダヤ人排撃綱領を発したが、それは次の如くである。
国民足り得るものは宗教の如何を問わずドイツ民族のみとす。
故にユダヤ人はすべてドイツ人たることを得ず。
将来ドイツ人以外の移住を禁ず。
一九一四年八月二日以後ドイツに移住したるドイツ人に在らざる者の即時撤去を要求す。しかもこのヒットラーのユダヤ人排撃に対して、ユダヤ人は全世界に対して、あらゆる宣伝機関を通して、宣戦を布告したのである。
一九三三年三月二十四日には、イギリスのユダヤ新聞デーリー・エキスプレスには次の如く発表された。
「全世界のイスラエルの民は、ドイツに対して経済戦争を宣言する。―― 新しきドイツの鉤十字旗の出現は、ユダヤの戦いの伝統的象徴、ユダの獅子を眠りより覚ましたのである。―― 千四百万のユダヤ人は、ドイツへの戦争宣言に当たって、一体となって結束するのである。―― ユダヤの大事業家は彼らの家を、銀行家はその財を、商人はその店を放棄し、そしてまた乞食もそのみすぼらしき小屋より出でて、ともに立ち上がり、ヒットラーに対する「聖戦」を戦いとるのである。――
まことにこれこそ、ユダヤのナチスに対する戦いの宣言である。
淸水宣雄 著『ナチスのユダヤ政策』,アルス,昭和16 p.78~82
この宣言を受けて、三月二十八日にヒットラー・パーペン内閣は全世界のユダヤ人によるドイツ商品ボイコット計画への報復として、全土にわたるユダヤ人ボイコットを宣言し、その日からユダヤ人が順々に国外に逃亡していくのだが、ベルリン株式取引所はユダヤ人所有マルクの売り物が殺到して証券は大暴落となった。そのためナチスは、四月五日にやむを得ずボイコットを中止している。次にナチスは四月八日には官界よりユダヤ人を放逐し、五月に入ってベルリン大学、ケルン大学のユダヤ人教授を免職し、芸術分野で活躍していたユダヤ人の辞職を強要した。
またナチスは、ユダヤ系の多かった新聞社を弾圧し、休刊された有力紙は百以上、廃刊は六百余に及び、この時にドイツの新聞の二割弱が廃されて、残る新聞社もナチスに迎合するようになっていったという。
ドイツの街々では到るところにユダヤ人排撃のビラが貼られ、カフェ、レストラン、オペラ、映画館等には「ユダヤ人入場お断り」の高札が立てられたりした。ユダヤ人が激怒したことは言うまでもない。
これに対して、ユダヤ人はかく叫ぶのである。――
「全世界のユダヤ人の忍耐もこれで最後である。これについてはいかなる考慮も希望も今となりては無駄である。我々はドイツとは完全に最後のところまで来てしまった。――このゲルマン・アリアン族と称する無智にして愚昧なる動物的人種は地球上より消失すべきである。」
しかも、この追放せられたるユダヤ人は、オーストリアに、ベルギーに、オランダに、イギリスに、南米に、ナチスの「第五列(スパイ)」として活躍する!
同上書 p.91~92
当時ユダヤ人は英米を始め世界の主要国に分散して根を張っていて、それらの国々で政治・経済に強い影響力を有していたばかりでなく、大手主要通信社を経営して、世界情報をユダヤ人の都合の良いように編集して発信していた。ドイツにおいてもユダヤ人の力を排除することは容易ではなかったようだ。
一九三八年に実施されたナチスの大改革
ナチスが政権を獲得しで五年後にヒトラーは大変革を実施した。
一九三八年二月四日、ヒットラーは、党及び国軍に対して一大変革を行い、ヒットラーは自ら全国軍の最高指揮官として直接これを統帥するに至った。一方、内政的には、外交問題、政治問題の顧問機関として、前外相フォン・ノイラートを議長とする参議院の設置を見、又空軍は強化され、シャハトに代わって、久しく欠員となっていた経済相にはフンクが任命された。
これはナチス政権獲得以来の大事件であり、一九三三年より一九三八年に至る五ヶ年間をナチス政権第一期とすれば、この事件を契機として、ドイツ第三帝国は第二段階に進むべきものと一般に見られるにいたったのである。
このナチスの党および国軍の強化は、たちまちにして三月のドイツ・オーストリア合邦として現れる。
一九三八年三月十四日、ヒットラー総裁はウィーンに入ったのである。
ドイツ・オーストリア合邦の宣言と共に、オーストリア政府は、ドイツ・ナチスに倣ってユダヤ排撃運動を開始した。
十四日には早くも各官庁からはユダヤ人官吏が続々放逐せられ、新鋭なるナチス分子が之に代わって行政機関を握り、同時にユダヤ人判事は全部罷免され、ウィーン市長にはナチス領袖ノイバッヘルが任命せられた。更にオーストリア新教教会は、すべてドイツ新教教会に併合されることとなり、これまたナチス・ドイツに倣ってオーストリア労働戦線の結成が決定され、ナチス制覇に伴うオーストリア内政の改革は着々と実行せられるのである。
同時に、オーストリア・ナチス本部は、十四日、全ナチス党員に向かって、自己の裁量によって勝手に反ナチス分子に対して、捜査、検束、没収などをなすことを禁止したため、国内は案外に平静を保ちつつこの急激な変革を成し遂げ、三月十五日にはオーストリア政府は、四月十日施行される国民投票に際して、ユダヤ人はすべて投票を許さぬことを宣言した。
同上書 p.93~95
当時のオーストリアに於けるユダヤ人は人口の約一割に過ぎなかったが、首都のウィーンはかつてはハプスブルグ王朝の下に音楽や美術、科学、文学、医学が栄え、ユダヤ人の最も多く集まる都市であったのである。そのウィーンにナチスが侵入したのである。
ドイツ自身においては、ユダヤ人の弾圧はむしろ徐々に行われ、数年を要したのであって、国内のユダヤ人も逃亡するの時間が与えられたのであったが、オーストリアの場合には全くその余裕がなかった。たちまちにしてナチスの検束隊は行動を開始した。ユダヤ人は逃亡を目的としてチェコやハンガリーの国境に殺到した。しかしながら、そこは、既にナチスが第一に閉鎖した関門であった。
今や二十万のユダヤ人と、六十万の非アーリアンが袋の鼠となった。
三月十六日、ザイペル、ドルフス、ツェシュニック三代のオーストリア首相の顧問として暗躍したユダヤ人クユールワルドは、自宅で死体となって発見された。
大鉄鋼業者ユダヤ人ライトリングルはその娘と共に自殺を遂げた。ユダヤ人狩りは日と共に峻烈を極め、ウィーンの政治犯収容所は何れもこれら検束者で満員であり、逮捕をおそれて国外に逃亡する者続出、オーストリアとチェコの国境には数百名の越境者が殺到する。
ドレフュス内閣及びシュシュニック内閣初期の内相としてオーストリア・ナチスに峻烈な弾圧を加えたファイ少佐は、身辺の危険を感じ、遂にこれまた十六日夫人及び子息と共に自殺を遂げた。―― かくして自殺者は約四十名に上った。
同上書 p.96~97
その後ナチスはユダヤ人商店に弾圧を加え、ユダヤ人文化をも攻撃しナチス芸術を称揚していき、ドイツ民衆の反ユダヤ運動も激化し、さらにハンガリーやオランダ、ポーランドにも反ユダヤ運動が波及していった。
ヒットラーの問題認識
同書に、ヒットラーがユダヤ人問題に関して次のように演説した言葉が紹介されている。
一九三九年一月三十日、ドイツ国会開会にあたって、例によってヒットラー総統は大演説をなしたが、そのうち、ユダヤ人問題に対しては次の如く言っている。
「国際金融ユダヤ資本こそは、欧州諸国を次大戦に引き入れんとして懸命の努力を続けている分子の最大なものである。しかしながら、彼らが戦争勃発の契機を作る成功するとしても、それに依って彼らは自己の墓穴を掘るのみであろう。
世界の諸国は、結局においてユダヤ資本の桎梏を脱し、却って戦争の真の責任者たる彼等に鉾先を向けるに到るであろう。」
かくするうちにも、ドイツの対ヨーロッパ工作は着々と進展し、三月十四日、独軍チェコ進駐、チェコは十五日ドイツ保護領となった。
同上書p.119
昨今は新型コロナパンデミックやウクライナ問題や地球温暖化問題や食糧問題からLGBTQまで、大きな問題が不自然に繰返し起きているのだが、これらの問題を仕掛けているのは、DS(ディープステート)とか、国際金融資本などと呼ばれる集団からであることが多いのである。
戦前・戦中ではよく「ユダヤ人」と書かれていたのだが、この言葉はすべてのユダヤ人を意味するのではなく、ユダヤ人の中で特に支配的・狂信的思考を持って行動をしていたメンバーを指していると考えるべきだろう。
彼らは世界を分断し、国民をバラバラにし、混乱から紛争を導き、兵器を売りつけてボロ儲けした後に世界の主導権をより強固にしようとしてきた。世界史で描かれている革命や戦争の多くは彼らが関わってきており、第二次世界大戦も同様なのだが、そのような史実が記された本の多くはGHQによって焚書処分されてしまった。
戦後になってわが国で刊行された世界史関連書の大半は、「ユダヤ人」にとって都合よく描かれていると理解してよいのではないだろうか。戦前・戦中のユダヤ研究書や新聞解説に紛争の仕掛け人として描かれているユダヤ人をDSのメンバーだと読めば、先賢たちがが研究していた「ユダヤ人問題」は、今も連続しているということを理解する一助になりそうだ。
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