引き続き白柳秀湖の『日本外交の血路』(GHQ焚書)の内容の一部を紹介させていただく。この本は白柳が雑誌などで発表して来た時局に関する論説を収録したものだが、昭和七年三月に開かれた徳富蘇峰の古稀記念講演会で彼が「上海と明治維新」という演題で講演した内容が書き起こされている。
上海勢力=英米仏三国の勢力
冒頭で白柳は次のように述べている。
上海という所が、わが明治維新の改革の上にどう働きかけたか、またその働きかけた上海の勢力、即ち英米仏の勢力というものが、どういう状態にあったかについて、一つ自分の考えを述べさせていただきたいと思います。
いったいどこの国でもそうでありますけれども、その国に非常の大改革が起こりかけますと、その国と利害関係の最も緊密な隣国、もしくは隣国のある地点から、由々しい干渉の起こるものだということを、私は平生歴史を読んで深く感じているものであります。つまりその国の改革を妨げようとする外国の勢力と、それからその国の改革を助けようとする勢力とが、非常に複雑な関係に於いてもつれて来るものだということを深く感じるものであります。
白柳秀湖 『日本外交の血路』千倉書房 昭和7年刊 P.63~64
アヘン戦争後に締結された 南京条約 によってイギリスは上海港の一定地域を租借し、居住貿易権と家屋建造権を獲得し並びに行政・警察権を獲得し、その後アメリカ、フランスと共同租界を建設した。その目的は三国の支那大陸経略の足掛かりする点にあったのだが、その次に狙っていたのはわが国であろう。
幕末に英米仏露の四国がわが国に開国を迫って来たことは教科書にも書かれていたが、明治維新については日本人が自らの力で成し遂げたかのように解説されるのが殆んどだといって良い。しかしわが国がこのような大改革をしているのに対して、近隣諸国が無関心で何も動かなかったということは考えにくい。
白柳はイギリスがスペインやオランダ、フランス等の妨害を排除して名誉革命を成し遂げた話や、アメリカ合衆国がイギリスから独立した際に、フランスがアメリカの独立勢力に武器、弾薬並びに資金支援をした話などを紹介し、同様にわが国の明治維新後に、隣国である支那、朝鮮がどのように動きをしたかについて述べている。
徳川氏の封建制度を倒して近代統一国家を打ち建てるという仕事の上に、非常に大きい外国の力が加わっているのであります。外国の力、それは言うまでもなく英米仏の三大強国が主でありました。内では公武合体か、挙兵倒幕かというので、それだけでも国民にとっては由々しい問題でありましたのに、外からは武装した外国の軍艦が開国を迫って来る。
しかもその明治維新の仕事がやっと一段落を告げて、これから新しい制度の建設に取りかかろうとすると、支那、朝鮮が日本に対して甚だしい侮辱を加えて来た。それは近来日本が夷狄(いてき:異民族の蔑称)の真似をして国を開き、彼らの文物制度を取り入れようとしていることは甚だ生意気千萬であると言うのであります。当時彼国は阿片戦争等の結果として排外思想がさかんに燃え立っておった。それで日本が後進国のくせにして夷狄と交際するというのは生意気だと言うので嘲笑も致しましたが、またそれを妨げも致しました。そうしてその嘲笑、妨害から西郷隆盛ら五参議の征韓論となって由々しい事変をさえ惹起しております。かように見て参りますと日本の明治維新にも外国の力が非常に働きかけているのであります。
同上書 p.73
戦後出版された歴史の概説書には、欧米の強国が、特にイギリスが、支那にどんなにひどいことをしたかについては多くが伏せられている。そのことをよく理解しておかないと、幕末から明治の歴史やその頃の支那、朝鮮の動きを正しく理解することは不可能だといって良い。
武力で支那を攻めて開港させたイギリス
戦後の通説では一八三九年に清国の欽差大臣の林則徐がイギリス商人から大量の阿片を没収し、翌年にイギリスからの賠償要求を拒否したことから阿片戦争が始まったと解説されるのだが、白柳の著書では一八三二年の出来事から解説されている。
上海がイギリス海軍の見舞いを受けて砲火のお土産を頂戴したのは、一八三二年六月十六日、日本の天保二年でありました。この日マカオ(澳門)なる英国東インド会社から派遣された上海開港交渉使ヒュー・ハミルトン・リンゼイというものを載せた英国艦隊は呉淞(ウースン:上海市北部の宝山区の行政区画)の砲台を攻撃してこれを沈黙させ、十九日上海城に迫ってその門扉を破壊し、道台(どうだい:地方官庁の長官)をして面会を余儀なくさせました。この事件は日本の歴史で申せば、嘉永六年六月に合衆国のペリーが軍艦を率いて浦賀を見舞ったのと同じ筋合いのもの…であります。
イギリス人がかように恐ろしい権幕で支那を威嚇し、開港を迫ったのは、その領土的野心を充たさんがためであったことは勿論でありますが、それよりもむしろインドで出来る阿片を自由に支那に売り込もうというのが、当面の主要な目的であったのであります。しかし支那でも、阿片の害はよく承知していましたので、一八三八年、即ち天保八年には欽差大臣林則徐が廣東に臨み、阿片の輸入を禁止して、その取締りを厳重にし、翌年英商会の貯蔵にかかる阿片を焼棄したことから、支那とイギリスとの間に戦争が起こりました。
この戦争で英軍は廣東を犯し、舟山列島を取り、寧波を攻め、一八四一年即ちわが天保十二年には清帝が北京を棄てて熱河に走るという騒ぎとなり、翌年六月には上海が完全に英軍の手に落ちてしまったのです。
この時英軍の上海を略奪したことというものは実にひどいもので、六月二十三日に英軍の引き揚げた後の光景は、さながら洪水の去った跡も同じで、殆んど一物も残さぬまでに洗い去られてしまったということであります。上海が英軍に荒らされて二ヶ月の後、即ち一八四二年(天保十三年)八月二十九日には南京条約が成立して、両国の平和が克復致しました。この条約で清国は、イギリスの為に廣東、厦門、福州、寧波、上海の五港を開き、香港を割譲致しました。
同上書 p.78~79
東洋が完全にイギリスの縄張りの中に、取り込められたのはこの時からであります。
ペリーが浦賀に来航した際に武力による威嚇はしたものの、わが国の領土を攻撃したり占領するようなことはなかったのだが、イギリスはいきなり砲撃して占領行為を行っている。イギリスが清国を攻撃することの正当性はどこにもなく、清国が攻撃された理由は、ただ攻撃力が劣っていたからというしかない。
一八四三年十一月に南京条約により上海が初めて開港され、翌年にはフランス、アメリカもイギリスに倣って清国と通商条約を締結し、一八四八年にはフランス、アメリカも上海に租界を定めている。
このことは、支那の民心を刺激して、一八五一年に洪秀全が太平天国を建国し、清朝打倒をスローガンに戦い続け、一八五三年には南京を陥れ、天京と改め太平天国の首都とした(太平天国の乱)。一八五三年といえば、ペリーが軍艦を率いて浦賀に入った年である。
洪秀全を援助したイギリス・アメリカ
洪秀全は宗教家であり、自らが創始した拝上帝教はキリスト教の影響を受けていたという。信徒は清朝が強制した辮髪を拒否し長髪であったことから、清朝からは長髪賊とも呼ばれたが、信者はそれほど多くはなかった。にもかかわらず太平天国の乱は二年以上も続き、南京を陥落させることが出来たのはなぜなのか。途中から税負担に耐えかねた庶民が大挙して太平天国軍に参加したとされるのだが、戦いに必要な武器はどうやって調達していたのか、誰しも疑問に思うところである。白柳は次のように解説している。
この年(一八五三年)の六月上海に三合会、小刀会などいう秘密結社が起こり、それが長髪賊と気脈を通じて、九月七日に城内を占拠しました。そうして上海はその時から三ヶ年全く洪秀全の支配に帰したのであります。
これは上海に於ける英米が協力して、洪秀全を支持したからであります。そうしてそれはヨーロッパにおける旧教国の総本山であり、また、ラテン文化の精粋でもあるフランスに対する伝統的植民政策であったのであります。北京政府では上海を賊手から奪還するために征討軍を派遣致しました。この征討軍が租界を通過しようと致しましたのが一八五四年(安政元年)四月で、英米は租界を中立地帯であるとして頑強にこれを拒み、遂に両軍の衝突となって支那軍は撃退されました。これは今度の事変(第一次上海事変)に際して、彼らが日本軍の上陸及び通過を拒んだのと全く同じ事情で、日本軍はその故障にもかかわらず、万難を排して廣東軍の撃攘に成功いたしましたが、支那の討伐軍は、英米の妨害に遭って、全くへこまされてしまったのであります。この事変の後に、初めて『租界章程』というものが出来て租界の行政権を執行する政庁が生まれました。これが後の工部局であります。
嘉永、安政の上海事変で、今一つわれわれの記憶しておかねばならぬのは、支那の関税事務が、この時から外人の手に移ったことであります。前述の如く上海は三ヶ年間洪秀全の支配に帰して、支那の官吏は関税事務を行うことが出来ぬ。そこで一時これを英米の手に委ねたのが元で、一八五五年(安政二年)二月、北京政府がフランス軍の援助を得て、上海城を奪還して後も、関税権はもはや再び支那の手に戻らなくなってしまいました。そればかりではない、一八五八年(安政五年)第二阿片戦争(アロー号事件)の結果として、天津条約が締結せらるるに及び、支那は上海と同様、他の四ヶ所の開港所に於いても関税権を外人の手に委ねなければならなくなったのであります。
かように上海はわが国の天保十三年初めて開港場となり、嘉永元年までに英仏米三国の租界が定まり、次いで起こった洪秀全の乱と、第二阿片戦争とによって、租界の独立と関税権の独立とが成ったわけでありますが、貿易の事にかけては英人が最も堪能で、米人がこれにつぎ、仏人は遠く両者に及ばなかったのであります。この関係はアメリカ大陸の植民に於いても、インドの開拓に於いても同様で、フランスはとかくイギリスに押されがちでありました。
同上書 p83~85
当初支那民衆の怒りは、支那の主要な港を武力で開港させ、租界地を勝手に作って、庶民には阿片を売りつけてくるイギリスに向いていたはずなのだが、イギリスは清朝に反旗を翻した洪秀全をうまく利用し、支那人民の不満を清朝打倒に向けさせたのだ。白柳はこの長髪賊の動きが、わが国で江戸幕末期に倒幕運動を行った薩長土に「そっくりそのまま」だと書いている。この点については次回に書くことと致したい。
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