GHQが焚書処分した中国人留学生の手記『支那の少年は語る』を読む

中国関連

 今回紹介したいGHQ焚書は、戦前に日本に留学していた中国人たちの手記をまとめた『支那の少年は語る』(大日本雄弁会講談社 昭和16年刊)である。編者の渡辺泰亮は新潟県の尋常高等小学校の校長を務めたのち、陸軍参謀本部の依頼により中国の要人らの子弟二十数名を教育した人物である。

支那事変後わが国に多くの支那の少年たちが留学してきた

 同書の「はしがき」によると、支那事変が勃発する前から中国からの留学生は非常に多くいて、事変勃発後に一時激減したのだそうだが、その後再び増加して東京だけで千数百名の留学生がいたという。

『支那の少年は語る』より

 支那事変が始まってからに、数多くの中国の少年達が日本に留学するため来日したというのだが、どの程度の年齢の者が多かったのだろうか。編者は次のように記している。

 少年諸君が、大志を抱いて留学したということは、恐らく開闢(かいびゃく)以来始めてのことであろう。
 第一、自国で中学乃至は大学を卒った青年ならば、身体的にも精神的にもある程度まで成熟しているので、両親の気遣いもそれに比してずっと軽いと見なければならぬが、十四・五歳の身心ともに未成熟の少年を異国に留学させるということは、親の身になって考えると、そこには以上の決意と将来の目賭(もくと)とを想像するに余りがある
 どこの親でも、子供を愛して子供を心配しないものは一人もいない。
 私はここに、少年たちを通じて少年たちの父兄との結びつきに、涙ぐましい共感を覚える。

 次に少年達が事変を契機として、特に日本に憧がれ、進んで父兄に嘆願してまでも温かい父母の懐を離れ、千里の異境に学ぼうと決心したそのけなげな心情に思い到って、日支親善の将来に本源的な第一歩であると深い意義を感ぜざるを得ない。…中略…これだけの決意の少年である上は、教育の完成を見れば、必ずや帰国後それぞれの立場を確立し、直ちに国家社会に有為な人物として活躍するに相違ない。

渡辺泰亮編『支那の少年は語る』(大日本雄弁会講談社 昭和16年刊)p.1~3

支那兵は日本軍が来るとすぐに逃げた

地図研究所編『大東亜共栄圏地図帖』昭和19年刊 第七図「北支那」より

 ではなぜ、若い、多くの中国の少年達が日本への留学を志したのであろうか。その理由を知るためには、支那事変勃発後に中国の治安状況がどのように変化したかを理解する必要がありそうだ。最初に紹介する張定國くん『日本に来るまでの三年間』という文章には、支那事変の発端となった盧溝橋事件(1937年7月)が起きた翌月から、棉の生産地で豊かであった晋県やその周辺地域がどのように変わっていったかについて述べられている。

 晋県城内外は事変の前は食物が充分で、どこよりも平安であったが、民国二十六年(1937年)八月に支那兵が何万となく押し寄せて以来、学校は閉鎖され、商売は出来なくなり、そのうえ十歳から四十歳までの男子は皆出て塹壕を掘れと命令されたので、裕福な県がにわかに不安なところになった
 その時私の家は支那兵の大将(営長)の宿所に当てられ、営兵が十人、外に番兵と炊夫がいた。私の家もすっかり商売ができなくなった

 城内を囲む高い土塀の上には大砲が据えられ、東西南の三関を通ずる自動車道路が作られ、その外囲に塹壕が掘られた。塹壕の上には厚い板を渡し、その上に土や草をかけて自動車が通られるようになっている。自動車道路は晋県から石家荘方面、深沢県方面、趙州県方面へ連絡する予定で始められた。

 こんな大掛かりで防備しておったが、九月二十何日かに日本軍が来た時には、その前日に城の門をすっかり土で埋めて入れないようにして、さあっとどこかに引き上げてしまった

 このように支那軍は戦わずして晋県から引きあげてしまい、一方日本軍は石家荘方面に進軍して行き、晋県の人々はそれぞれ遠くへ逃げて行った。張定國くんの一家は、晋県の南にある総家荘という地域にある知人の家に避難したのだが、そこには逃亡兵がよく現れて、彼らは持っていた武器を村の中の井戸の中に投げ込んで、軍服を脱いで農民の姿になって逃げていったという。彼らが井戸に投げ込んだ武器は、村人が拾い上げて家の守り用にしたと書かれている。

思い出すまま

 支那事変が起きて短期間で上海、漢口などが陥落し、河北省全域を日本軍が占領していった。
 次に紹介するのは陳岐俊くんの「思い出すまま」という文章だが、彼の家は晋県に残って、この地域がその後いかなる理由で荒れていったかについて次のように述べている。

 支那では徴兵制度がありませんので、彼らのほとんど全部は村民の子弟です。しかも利口でよく働く田舎青年です。何故彼らは農業をやめて下等な役兵になったかというと、一面に於いては中国を救おうという熱血のしからしむるものではあったが、一面には自警の方策として団体を作ったのです。ちょうどこの団体を組織した頃に、晋県に本当の八路軍が入って来ました。この軍隊は、規律も正しく、兵術も随分上手です。普通の軍隊と違って、民間の金を盗ったり、人を殺したり、火事を起こしたりはしませんでした。そこで百姓たちからもほめられて、長くここに止まって貰いたいと願われていました。

 そこでこの八路軍の動作を真似して自警団の軍隊も余勢を借りていましたが、次第にこのやかましい軍律に我慢が出来なくなりました。本当の八路軍は命令によってここから他の方面に移りました。そこへ敗残兵が来て、村の青年軍と一緒になって、自ら八路軍と称して大威張りに威張って民間には『自分等は白崇禧(はくすうき:蒋介石に誘われ幕僚長代理を務めた)の軍隊だ。蒋委員長の命令を受けてここに来たのだ。我々中国人は最も覚醒しなければならぬ時だ。金持ちは金を出せ。青年のある家では青年を出せ。』と百姓をだましました。純朴な百姓たちは『軍人様の言う通りだ。中国はこれから我々の肉を以てもう一つ新しい長城を築き、我々の血を以て新運河を掘り、我々の力を以て敵の軍勢から一筋の道を切って、前に生活の光明を求めよう。』とこう言うのでした。

 そこで貧しい家の子弟は兵となり、金持ちはどしどし金を出すことになりました。さて一ヶ月も経つと、この事が段々変わって来て、昼間公に金を集めることは額が少ない上に面倒臭いというので、夜出てピストルで無理に金を沢山とる。金を出さぬと命をとる、という風になりました。そこで金持ちの人達は、本当の義勇軍を組織しなければならぬと考えて、青年子弟を出して一つの民軍を作りました。この軍隊の中には大学生が余程いました。一番程度の低いのも完全小学校くらいは卒業していました。そしてこれからは貧乏人の軍隊と、金持ちの軍隊とが時々小さい戦争をやりました。

同上書 p.99~101

 このように敗残兵が来て村の青年団と一緒に動くようになってから晋県はどんどん荒れていったのだが、その治安を回復させたのは日本軍だったという。横山部隊は共産軍に騙されている八路軍の兵士を生け捕りにして言い聞かせ、よく訓練して警士に育てて協力させていったという。

 かくて僅か半年の間に、晋県城内外の治安がすっかり回復しました。五ヶ月前わずかに十五六人だった城内が、事変前よりもずっと人口が殖えました。爆弾にこわされた建物は盛んに復旧されました。城内から石家荘まで(日本里三十里位)の自動車道路も出来、棉を積んだ荷車や旅客車が織るように通ることになりました。事変前に北支第三位だった晋県が、今は第一位の県になりました。

同上書 p.102

 陳岐俊くんは早くから日本語を勉強していて、晋県公署で通訳を務めた経験があったという。彼が日本に留学できたのは晋県の知事のお蔭と書いているが、知事は日本の明治大学に留学した経験のある人物で、日本びいきであったようだ。 

匪賊の怖さ

 陳岐俊くんの文章には、晋県に来た敗残兵らが略奪や繰り返していたことが書かれていたが、もともと晋県には「匪賊」といって、集団をなして掠奪・暴行・殺人などを行う賊徒が少なくなかった。
「匪賊」については先ほどの張定國くんの文章にも書かれているが、ここでは王肇興くんの「私の隣家に匪賊の入った話」という文章を紹介したい。これを読むと「匪賊」が中国の普通の人々にとってどのような存在であったかがよくわかる。

 晋県の匪賊は、大抵川の付近に住んでいる。春や夏は出ないが、秋から冬にかけてなかなか出る。家には皆番人を置き、鉄砲や手榴弾を備えてある

 私の家でも、この時期になると、兄さんも私も匪賊にさらって行かれると困るので、雇人の真似をして、雇人の室に一緒に寝ている。私が日本に来る前、民国二十七年(1938年)の十一月のある夜のことだった。お隣りの金持ちの家に匪賊が押し寄せてきた。何十人か知れない匪賊が、私の家の一方の隣の小さい家から私の家の屋根の上に登って、その屋根を伝ってお隣りの家に入るのだ。支那の匪賊は、どんな急な高い所にも鼠のようにすらすらと登ってしまう。パンパンパンとピストルの音が聞こえた。それ匪賊だというので皆がたまげて起き上がった。兄さんは、すぐ手榴弾を持って作業室の方へ飛んで行って、匪賊のいる方へどなりながら投げつけようとした。

 すると匪賊は、『お前の家に入るのではない。さわぐな。さわぐと危ないぞ。』と制した。この物音を聞きつけて、お隣りの番人は番室の小さい戸を開けて様子を見た。とたんに匪賊は番人を打ち殺した。そしてどんどん入り込んだ。家人は大騒ぎで逃げ出したが、大事なお祖父さんがつかまって何処かへ連れて行かれた。そのうえ家にあった沢山のものをとられた

 家人達は、お祖父さんのことを大変心配して、村の人達にお金をやってさがして貰った。頼まれた人達は、川の付近の匪賊の家をさがして匪賊と相談して来た。
 『十一月二十七日の午後一時頃、村の南方二里の森の付近に、お金を一千円持って来い。そうすればお祖父さんを渡してやる。その時自転車に赤いおなじような小荷物をつけたものが三人、森の付近をゆききしている。お前たちも自転車に赤い包みをつけて来い。』
 ということになった。

 お隣りの家では、お金を持って三人で迎えに行って、お祖父さんを貰って来た。
 警察などに報告すると、後で匪賊にひどい目にあわされるので、誰も報告しない。

 さらわれた人をたずねに行かないと、匪賊は待ちくたびれて、さらった家の門に夜こっそり表を貼っていく。
『何日何時頃お金千円持ってどこへ来い。これに従わないと殺してしまう。』
 というような意味を書いたものだ。
 その家の門に貼らなければ、どこか人の目につきやすいところに票を出す。これを見つけた人はさらわれた家に知らせる。

同上書 p.103~106

 戦後のわが国の歴史叙述では、匪賊の悪事に触れることはまずないといって良いのだが、当時の中国の治安状況について、このような文章を読まないと正しく理解できるとは思えない。マスコミなどでは日本軍が中国で悪事を働いたかのように解説されることが多いのだが、あの国が声高に語る内容の多くが真逆であることは、今も昔も変わらない。

匪賊のいない国へ

 当初、張定國くんは共産軍に入って国民としての任務を果たすことを漠然と考えていたのだが、彼の祖父から、共産軍は中国を焦土化し国民をた塗炭の苦しみに陥れるとんでもない連中だと諭されて彼は考え方を改め、その後日本に関心を寄せるようになった。ある日張くんは家に来た日本軍の本城軍曹に日本の事を訊ねて、日本は海もあり山もあり自然が豊かで美しい国だと軍曹が答えたのち、張くんは次のように訊ねている。

 私が、『山の中に匪賊があるか。』と聞いたところが、変な顔をして何べんも聞き返した後、『あ匪賊か、日本には匪賊は一人もいない。どんな山の中でも、治安が支那とは違って行き届いているから。万世一系の天皇陛下の御威光で、民衆は永久に安楽な生活をしている。』と。

 私はこの日この話を聞いて心が躍り上がった。日本に行きたい。その夜のこと、祖父は私を呼んで、『晋県の郵便局長の朋友から手紙が来て、その方のお友達が北京で中学校を開いたそうだ。お前をそこへ入学させようと思う。』と話された。私はとっさに『おじいさん日本に留学に行きたい。』とねだった。
 祖父は『そうか。』と一言言われただけだった。

 その翌日、承審所の顧問さんから、日本に留学のことを勧めて来た。私は飛び上がってよろこんだ。早速また祖父の所へかけつけて允許を得た
 祖父は大変上機嫌で、
『行ってもよろしい。しっかりやるんだよ。改めてゆっくり話をきかせる時がある。自分の勉強はもちろん大切だが、日本の少年たちと真に仲よくして、一緒になって興亜の為に働く人物になるのだ。そのためには日本へ留学するのが一番良い。わしはお前を遠く離すのは淋しいがが、将来の事を考えて喜んでお前を送る。』 

同上書 p.236~238

 張くんの祖父は共産党嫌いで孫には共産主義に染まって欲しくはなかったようだが、当時の反日・排日教育を望まなかった中国人が少なからずいたからこそ、この時期に多数の中国の少年たちが日本に留学したということなのだろう。中国の少年たちがわが国に書き残したこの文集を、多くの方に読んでいただきたいと思う。


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