戦後の教科書ではなぜか触れることが少ない第一次上海事変
前回の記事で、昭和11年に出版された『少年満州事変と上海事変』に、満州事変勃発から満州国の成立についてどう記されているかを紹介した。今回は引き続き第一次上海事変についての解説を紹介したい。
第一次上海事変については『もういちど読む 山川日本史』などのように一言も書かれていない教科書が大半なのだが、この事件で日本人に多くの犠牲者が出たことを何故教科書に書かないのだろうか。Wikipediaによると日本人の戦死者は769名、負傷者は2322名も出ているのだが、そもそもどのような経緯でこの事変が起きたのであろうか。
第一次上海事変の原因
当時の上海はイギリス、アメリカ、イタリア、日本などの国際共同租界とフランス租界があり、居留民保護のために各国の軍が駐留していて、約二万七千の日本人居留民のために日本海軍陸戦隊が約千人駐留していた。もともと上海は排日運動が強かったのだが、昭和六年(1931年)の満州事変以降はそれが激しくなってきて、中国各地の新聞紙が一般の支那人を煽動して排日に向かわせたという。
昭和六年九月二十一日頃からは、日本児童に対して、投石する等の暴行が増加しましたが、二十一日だけでも日本人児童が支那人から暴行侮辱を受けたところの事件が九十三件にも達したのでありました。
九月二十二日には、上海反日大会というものを開きましたが、これには党部総商会・商工会・教育界等各方面の人々が集まって、色々と相談したのでありました。その結果、次のような事柄を議決して、これを宣言したのでありました。一、政府に請願して、革命外交を実行す、
二、内争を止め、一致して日本に当たる、
三、日本に対し、宣戦を布告す
四、徹底的に対日経済絶交を行う
五、反日工作に反対する者は、何人を問わず、これを死刑に処す
六、日本に対して、絶対に、食糧を売らず
七、日本紡績工場使用人のストライキを決行すこれによって分かるよう、支那はわが国に対して挑戦的な態度を取ってきたことは明白でありました。この会はやがて「抗日救国会」と名付けられましたが、上海市党部の指揮さえ受けるようになって、益々排日運動を激しくするようになったのでありました。そればかりではなく、遂には、我が居留民に対して、暴行をなすようなことが日増しに増えてきました。・・・中略・・・
(支那政府は)排日の取締りなどは決して為さず、むしろ、却ってこれを愛国心の発露であるとして奨励したくらいでありました。したがって排日運動の激しくなったのもまた当然と言わなければなりません。
山県信敬 著『少年満洲事変と上海事変』大同館書店 昭和11年刊 p.184~186
そのために支那各地では、邦人の殺害事件が起こったり、あるいは帝国官吏への侮辱事件などが起こされたりしたのでありました。
例えば昭和七年一月八日に東京で行われた陸軍観兵式に天皇陛下が行幸され、その行列に向かって朝鮮人李奉昌が爆弾を投げる事件が発生した(桜田門事件)。この事件を支那各地の新聞が報じたのだが、たとえば上海国民党党部機関紙民国日報では「不幸にして、爆弾命中せず」と報じたために日本人居留民は激昂したのだが、同月十七日には抗日市民大会が開かれ、その翌日にこんな事件が起きた。
翌十八日午後五時頃、上海の東部地の引翔港街路の支那人経営の三友タオル工場付近を、日本居留民の日蓮宗上海江湾路妙法寺のお坊さん水上秀雄とその信徒が托鉢のため歩いていましたところ、そこの 三友タオル 工場の職工及び暴漢が約五十人ばかり飛び出してきました。そして、これ等の日本人を取り囲んで口々にののしり、
「日本人を倒せ」
などと叫んで暴行を働いたあげく、全治までに二週間乃至一ヶ月を要する重傷を負わせたのでありました。しかもその時、側(そば)には支那の警察官が見ていましたが、少しもこれを制止しようともしなかったのでありました。
そのうち、瀕死の重傷を負うた一名水上秀雄は、とうとうそのために、二十四日に死んでしまったのでありました。この重ね重ねの支那側の乱暴をきいては、我が居留民もじっと歯を食いしばっているわけにもまいりません。非常に残念がりまして、直ちに居留民大会を開きまして、直接上海市長に抗議を申し込むことに致しました。
同上書 p.188~190
しかし、これだけではまだ激しい憤りは止みませんでした。上海青年同志会の人達三十二名は、二十日午前二時半頃、降りしきる雨の中を、三友工場へ押しかけたのでありました。そして工場に放火して、一部を焼き払って後引きあげたのでありました。
ところがその途中で、共同租界の工部局警官との間に衝突を致しましたが、そのためにとうとう支那人巡査二名、日本人一名が即死し、その他支那巡査二名、日本人二名が負傷したのでありました。
村井総領事は上海市長を訪問し、正式な抗議文を手渡して排日団体の即時解散を要請したのだが、支那側の新聞は相変わらず排日の論調を続け、「上海危うし」「日本浪人上海に在りて恣に横行す」と書き、支那民衆の敵愾心をますます煽動した。日本人小学校生徒に対する暴行が続出し、学校も休業せねばならなくなった。約千人の陸戦隊だけでは居留民の保護は不可能だ。
居留民からの要請により日本海軍は航空母艦の能登呂を上海に派遣し、さらに呉の軍港からは巡洋艦大井と第十五駆逐艦四隻に陸船隊を乗せて上海に向かわせたのだが、支那側の対応はさらにエスカレートした。
・・・同月二十四日には、支那軍の上海市民連合会(市商会と学生の連合団体)では、臨時代表会議を招集して、
同上書 p.199~200
⑴抗日会解散反対
⑵日本海軍の上陸拒絶
⑶陸海空軍の上海集中請願
⑷自衛団の組織
の勝手な四ヶ条を決議して、呉淞(ウーソン)、龍華、その他の主だった土地に戒厳令を布いて日本人の通行を禁止してしまいました。
そしてさらに、上海の北部の西武の租界の境界線の付近には、土嚢を高く積み上げ、また鉄条網を張りめぐらして、防御工事を施したのでありました。殊に、市内の閘北(オウホク)付近には、蔡廷楷(サイテイカイ)の指揮する所の第十九路軍が機関銃をさえ据え付けて、明らかに敵対行為を示していたのでありました。
かくして上海の形勢は刻一刻と悪化し、二十六日までには 閘北 および西部の支那街方面の防備施設が完成し、さらに 呉淞 方面にまで延びて、所々に機関銃、高射砲が配置されたという。
そのため、第一遣外艦隊司令官は、万が一に備えるために更なる陸戦隊派遣を政府に要請した。
第一次上海事変勃発と停戦協定を守らない支那軍
上海市長は日本側の態度が強硬なのを見て、結局二十八日に日本の要求を総て承認するとしたのだが、支那の排日団体はその決定を許さなかった。夕方になって抗日会員約五千名は市政府を包囲して市長を批難したことから戒厳令が出されている。そして 閘北 方面には多くの支那軍が集結した。同日夜に、海軍司令官は上海市長に対して支那軍の撤退を通告し、陸戦隊に対しては、敵が攻撃に出ない限り、先に攻撃行動を取らないことを命じていた。
ところが、我が軍がいよいよ所定の配備に就こうとしましたおり、突然便衣隊*から射撃を受けたのでありました。続いて正規軍が攻撃を始めたのであります。
同上書 p.208~209
こうなっては日本側も黙ってその弾の洗礼を受けているわけには参りません。自衛上やむなくこれに応戦致しましたが、やがて激しい市街戦があちらでもこちらでも起こりました。
しかし、午前五時頃迄には、大体全警備区域から掃討してしまったのでありました。
この戦闘は暗夜の市街戦であったため、殊に多数の便衣隊が租界に潜入していたことのために、我が軍も一時は、大分苦戦におちいったのでありました。
そこで戦死者も近藤少尉以下十一名、重傷者は内山少尉以下六十四名の多きに達し、軽傷者は坂本特務少尉以下二十四名を出したのでありました。
こうして上海事変はいよいよ火蓋を切ったのでありました。
*便衣隊:平服のままで敵地に入り、一般市民に紛れて謀略・ゲリラ活動を行う部隊
しかし上海には欧米各国の居留民が住んでおり、英米総領事の斡旋もあり支那側の申し込みにより二十九日夕方に日本軍は停戦を承諾し、午後八時以降はお互いに攻撃動作をとらないことを取り決めた。にもかかわらず、支那側は便衣隊も正規軍も射撃を止めることはなかった。そして日が明ける。
三十日、午前五時半頃、支那軍隊はいよいよ停戦協定を無視して、わが第一線及び後方に対して攻撃を開始したのでありました。そこで我が軍も、仕方なく自衛の策に出たのでありました。
同上書 p.213~214
こうした間にあって支那側は民衆の煽動に勉め、三十日の支那新聞には、無根の宣伝をさえなしました。
⑴支那軍の形勢有利にして、二十九日午後五時、すでに日本陸戦隊本部を占領し、日本海軍の残部は租界内に撃退せり。
⑵市政府は、村井総領事の停戦申し込みを拒絶せり。
⑶第十九路軍の主力は、二十九日朝より上海に向かい輸送せられ、沿線の民衆は、勇躍これを送迎かつ激励せり。
⑷日本海軍の支障は、将校以下八百名に達し、しきりに軍艦に移し後送中なり。
⑸支那軍は日本飛行機四を撃墜せり。
以上これらはいずれも根拠のない記事ばかりでありまして、これによって支那側は益々侮日的の態度を激化させようとして、その道具、手段となしたものであったことは言うまでもありません。
三十一日には再び支那軍は日本軍に対する砲撃を開始したのだが、午前四時ごろから日本軍だけでなく、イギリスの義勇軍に対しても小銃射撃を開始したという。午後になって村井総領事は上海市長と会見して争いを収めようとし、日本側は攻撃的動作を行わなかったのだが、支那軍はさらに軍備を増強し装甲列車を配備した。
二月三日 、閘北方面の支那軍は盛んに野砲を発砲して我が軍を攻撃致しました。そこで我が陸戦隊は海軍飛行機と力を合わせて敵の兵舎を爆破しました。
同上書 p.217
また同日 呉淞砲台からも、巡航中の日本の巡洋艦隊を砲撃しましたので、艦隊司令官は海軍飛行隊や駆逐隊と協力して攻撃をさせたのでありましたが、その結果 呉淞砲台 には非常な損害を与え、また対岸の高橋砲台をば完全に破壊してしまったのでありました。
こうして、その翌日、四日、五日、六日と、毎日毎日彼我の間に戦いが続いたのでありました。
このように支那軍は協定を全く守ろうとはしなかった。海軍兵力の陸上派遣だけでは日本人居留民を守れないので、日本政府は陸軍を上海に派遣することを決定し、第九師団及び第十三師団の混成一旅団を出動させている。
日本軍はこれ以上の軍事衝突を避けるために、支那軍第一線の20km地点までの撤退を申し入れたが、支那軍はそれを拒否したために植田師団長は総攻撃を決断した。両軍の戦闘は激烈を極めたのだが、詳細については是非本文を読んで頂ければと思う。
戦前の日本人なら誰でも知っていた「肉弾三勇士(爆弾三勇士)」の話は、敵陣突入のために鉄条網を爆破撤去する作戦で目的を果たしたものの自ら爆発に巻き込まれて戦死した三人の物語である。詳細については同上書のp240~252に記されている。
停戦協定中の爆弾事件
三月三日の日本軍の総攻撃により租界外20km掃討が実行され、三月二十四日からイギリス総領事館で停戦交渉が開始され、十数回の会議の末、五月五日に日本軍の撤退と中国軍の駐兵制限区域を定めた停戦協定が成立するのだが、停戦協議中の四月二十九日に上海で開かれていた天長節の祝賀会の式台をめがけて朝鮮人活動家から爆弾が投げられる事件(上海天長節爆弾事件)が起きている。
この事件で白川軍司令官ほか1名が死亡し、4名が重傷を負っている。当日式台にいた公使の重光葵は右足切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たし、後に外務大臣として活躍した。また重光の隣にいた海軍司令長官の野村吉三郎も片眼を失う重傷を負ったが、のちに外務大臣、駐米大使として活躍している。
上海租界、上海事変に関するGHQ焚書リスト
下記のリストはGHQ焚書の中から上海租界、上海事変に関する書籍を集めたものである。大半のものはすでに著作権が切れていると思われるのだが、ルール通りにネット公開されていない本が多いのは残念である。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL | 出版年 |
海軍陸戦隊上海戦闘記 | 有馬成甫 | 海軍研究社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
活機戦 第2部上海事変 | 佐藤庸也 | 日本軍用図書 | デジタル化されているが非公開 | 昭和18 |
上海経済年鑑 昭和19年度版 | 冨塚鐸二編 | 中支野田経済研究所 | 不明 | 不明 |
上海共同租界誌 | 上原 蕃 | 丸善 | デジタル化されているが非公開 | 昭和17 |
上海激戦十日間 | 海軍省記者倶楽部 編 | 揚子江社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1255555 | 昭和14 |
上海事情 | 菊村菊一 | 博文館 | デジタル化されているが非公開 | 昭和16 |
上海事変従軍日記 | 赤尾善徳 | 日本政治経済通信社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和10 |
上海事変の裏表 | 中山勤之助 | 二友堂書店 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
上海事変の経過 | 仲麿照久 | 新光社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 | 昭和7 |
上海事変を語る | 村松梢風 | 平凡社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
上海戦に輝く皇軍の面目 | 特別大演習統監部 | 特別大演習統監部 | 不明 | 不明 |
上海租界を撤収せよ | 鹿島準六 | 文松堂 | 不明 | 不明 |
上海は起ち上る | 東英男 | 国民政治経済研究所 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453875 | 昭和18 |
上海北支戦線美談 | 朝日新聞社 編 | 朝日新聞社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和12 |
上海北支戦線美談 第二輯 | 朝日新聞社 編 | 朝日新聞社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和12 |
上海北支戦線美談 第三輯 | 朝日新聞社 編 | 朝日新聞社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和12 |
上海問題研究資料 | 樋山光四郎 | 偕行社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
上海陸戦隊 | 福永恭助 | 第一書房 | デジタル化されているが非公開 | 昭和13 |
上海陸戦隊の華 噫忠魂 | 浦路耕之助 | 杉本書房 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 | 昭和7 |
少年満洲事変と上海事変 | 山県信敬 | 大同館書店 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1717367 | 昭和11 |
昭和満州・上海大事変史 | 松尾政夷編 | 立正護国会本部 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
戦火閃く満蒙から上海へ | 小松謙堂 | 玲文社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
戦時上海の金融 | 東亜研究所上海支所 | 東亜研究所 | デジタル化されているが非公開 | 昭和17 |
戦禍の北支上海を行く | 吉屋信子 | 新潮社 | デジタル化されているが 国立国会図書館限定公開 | 昭和12 |
対支国策論 : 満洲上海両事変解説 | 宮地貫道 | 宮地貫道 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1907733 | 昭和17 |
血潮は飛び散る 上海事件の体験を語る | 加藤政太郎 | 兵用図書 | デジタル化されているが非公開 | 昭和9 |
忠勇列伝. 満洲上海事変之部 第15巻 | 忠勇顕彰会 編 | 忠勇顕彰会 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114651 | 昭和12 |
長駆強行五百キロ、上海戦線、 残花一輪*、飛行基地警備記 | 西田稔 林房雄、 市川禅海、渡辺正治 | 潮文閣 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 | 昭和16 |
帝国海軍と上海事変 | 高橋邦夫 | 日本評論社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
日本の戦慄 上海篇 | 直木三十五 | 中央公論社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
爆弾三勇士 : 満洲上海事変美談集 | 金蘭社 編 | 金蘭社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1717180 | 昭和7 |
富士勇士 上海血戦記 | 藤沢建之助 | 富山日報社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
松井翠声の上海案内 | 松井翠声 | 横山 隆 | デジタル化されているが非公開 | 昭和13 |
満州、暹羅、上海の旅 | 三島昌子 | 三島謹子 | デジタル化されているが非公開 | 昭和14 |
満州及上海に正しき日本を観る | 三島章道 | 東学社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
満州及第一次上海事変 銃後の回顧 | 三島幸雄 | 東学社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和12 |
満州建国と満州上海大事変史 | 神戸又新日報社編 | 神戸又新日報社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和17 |
満州建国と満州上海大事変史 | 下野新聞社編 | 下野新聞社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 | 昭和17 |
満州建国と満州上海大事変史 | 東洋文化協会編 | 東洋文化協会 | デジタル化されているが非公開 | 昭和17 |
満州建国と満州上海大事変史 | 日出新聞社編 | 日出新聞社 | デジタル化されているが 国立国会図書館限定公開 | 昭和7 |
満州建国と満州上海大事変史 | 横浜貿易新報社編 | 横浜貿易新報社 | デジタル化されているが 国立国会図書館限定公開 | 昭和7 |
満州上海事変全記 | 朝日新聞社 編 | 朝日新聞社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和17 |
満州上海事変盡忠録 | 田中国重 編 | 満州上海事変盡忠録編纂部 | デジタル化されているが非公開 | 昭和8 |
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