GHQは支那事変(日中戦争)に関する研究書や記録などを数多く焚書処分したことはこのブログで何度か書いてきたが、長野朗の『遊撃隊・遊撃戦』(GHQ焚書)に支那事変に於ける支那の戦い方について重要なことが書かれており、現在の中国が各国に仕掛けている浸透工作に繋がるところがあるので、何回かに分けて紹介させていただくこととしたい。

長野朗と本書の序文
長野朗は陸軍の軍人であったが、辛亥革命後中国に派遣され、1919年の五・四運動などの動きを目の当たりにし、1921年に中国問題研究に専念するために軍を辞し、その後共同通信、国民新聞の嘱託となり、『中央公論』『改造』などの雑誌に寄稿しているほか、数多くの著書を残している。彼の著書のうち18点がGHQにより没収廃棄されており、焚書点数の多さでは、野依秀市、仲小路彰についで第3位の多さである。
『遊撃隊・遊撃戦』の序文に長野は次のように記している。
支那事変が始まって既に満三年になろうとしている。しかも事変は戦いから建設に移った。この建設も世間の一部で考えられているように決して生やさしいものではない。これを邪魔している一つの大きな怪物がある。世界の戦史で今まで殆んど問題にしなかった支那製の新しい怪物、それは「遊撃戦」である。これが日本軍の占領区の到る所にダニの如くへばりつき、支那の青蠅のようにうるさくやって来て、日本のやっている政治、経済、文化のすべての工作を妨害するのである。支那式の無神経さを以て、追えば逃げ、帰れば寄せる手に負えないしろ物で、非常の執拗さで、日本の忍耐力を試そうとしている。しかも非常に広い範囲に於いて、莫大な数に及んでいる。これの始末がつかなければ、どうにもならない。これが今事変の一大特点である。世界の驚異でもある。
遊撃戦を知らなくて、今度の事変を了解しようとすることは、山中に入って魚を求むるが如きものである。またいやしくも支那に行って事をする人は、その方面の如何を問わず遊撃戦を知らずしては何事も出来ない。
長野朗『遊撃隊・遊撃戦』和泉書院 昭和15年刊 p.2~3
「遊撃戦」とは何か
序文だけでは「遊撃戦」について理解することは困難だが、長野は「遊撃戦」がわからないと支那事変の性質を理解できないと述べている。日本軍は日露戦争とは全く異なる戦いを余儀なくされていた。軍隊同士の戦いであれば、目前の敵と戦うだけなのだが、支那事変に於ける日本軍は支那の正規軍と戦うだけではなかったのである。匪賊との戦いや、奇襲や鉄道破壊等もあったが、「遊撃隊」の様々な工作活動に日本軍は悩まされていたのである。
…実は軍事行動は一部分で、経済戦、政治戦、思想戦が主になっている。
政治戦というのは、今度の事変は支那の民衆を敵とするのではないから支那の民衆を握った方が勝ちだということになる。民衆を握るには民心をしっかりと掴まねばならぬ。そのため遊撃隊は種々と民衆に働きかけるのである。例えば山西省で活動している共産系のある遊撃隊は、跣足で歩いている。山西の山道を跣足ではというので、村民が気の毒に思って聞くと、我々は民族存亡のために戦っている。靴などはいておれないと答える。それでは余りだと村民が見かねて靴を寄付すると、遊撃隊の方では、君ら貧乏な村民にこうした迷惑をかけては済まぬといって、靴の代償より高い金を払うので、村民はすっかり有難がる。これはもちろん彼ら一流の巧妙な芝居ではあるが、これは民心を捉える。彼らは村に来ても民の一物も冒さないし、婦女を辱めない。…中略…村に来ても農繁期には百姓の手伝いをするので、中々人気が良い。経済戦の方では、日本としてはなるだけ現地の物資によって自給し、日本からの者をもっていかないようにするだけでなく、日本に必要な物は支那から持って来なければならぬ。これに対し支那の方では、日本側には一つも物資をやらないようにし、日本の品物は買わないようにする。遊撃隊の大きな役割はそこにある。日本が米を撮ろうとすると、米を持ち出すし、綿花を支那から取ろうとすると、綿花の栽培を禁止し、これを冒した百姓で銃殺されたのがある。そのため北支でも中支でも綿花の栽培は非常に減った。また日本軍が行くと食料も馬糧も持ち去るか、持っていけないものは役にたたないように捨てる。こうして日本軍に利用されないようにする。
思想戦では、日本軍の手で閉鎖された排日抗日の学校を、どこか目立たないような所に復活するとか、遊撃区では新聞を発行するとか、村芝居をやって抗日思想を煽るとか種々のことをやるのである。
これは今日の欧州戦を見てもわかるように、今日の戦いは武力戦よりも、外交戦、経済戦が大げさに行われている現状である。遊撃戦もまた然りで、武力戦と政治戦、経済戦、文化戦が並行して行われていることを知らねばならぬ。
同上書 p.12~14
支那事変で日本軍が南京戦のあと武漢や廣東で戦っていた頃は正規軍の戦いが主で遊撃戦は従であったが、その後支那軍は遊撃戦を重視するようになり、日本側が占領地域を清掃して、インフラなどの建設を行おうとしても支那の遊撃隊に妨害されたという。支那は重慶に遊撃士官学校というべきものを作って遊撃戦の訓練を行っていたのである。
抗戦中支那は軍事方面に於いて多くの進歩を見たが、特に遊撃方面に於いて著しい。そこで戦争中の貴重なる経験により、従来の軍事教育を補足するため、南岳遊撃訓練班なるものが設けられた。即ち新戦術の学校で、蒋介石の「遊撃戦は正規軍よりも重し」の原則によったもので、既に第一回の卒業生を出した。
昭和十三年の八月十五日に、南岳衡山の山中に、遊撃幹部訓練班が開校され、参加者一千余人で、訓練班主任には蒋介石自らこれに当たり、副主任が白崇禧に陳誠、教育長が湯恩伯、同副長が李黙庵と共産新四軍の副軍長葉剣英と、錚々たる連中が名を列ねているところを見ても、遊撃戦は正規戦より重しの原則がなる程とうなづかれる。
同上書 p.15
学生の平均年齢は二十五歳で、メンバーの八分の一は女性だったという。彼らは軍事知識の基本を学んだ上で、遊撃戦における政治工作や民衆工作について叩きこまれるのである。武力戦では日本軍に勝てないと考えた彼らは、武力を用いないで日本軍を疲弊させ戦意を喪失させようとしたと考えて良い。支那には正規軍二百万に対し遊撃隊が二百万いたと言われており、遊撃戦を重視していたのである。
遊撃隊の正体
遊撃隊といっても様々な役割があり、メンバーも様々であったという。
遊撃隊と一口に言っているが、この中には種々のものが混ざっている。正規軍もいれば共産軍もいるし、いわゆる遊撃隊もいれば土民軍もいるし、さらに土匪軍も加わっている。北支では共産軍の遊撃隊は自ら戦わずして主に民衆工作をやり、土匪に対しては、その国家非常時に掠奪などしていては怪しからぬ。前線で戦えといって戦線に出したり、後方で再訓練をしたりしたのである。
遊撃隊がどうして出来たか。それについては毛沢東は次の七つの場合を挙げている。
一 直接民衆の中から発生したもの。
二 正規軍から分派した一時的支隊。
三 正規軍から分派された永久的支隊。
四 正規軍の支隊と民衆の遊撃隊とが混合して編成されたもの。
五 地方民団が遊撃隊に転化したもの。
六 親日系武装団が叛乱して遊撃隊に転化したもの。
七 土匪団が遊撃隊に転化したもの。
その中で最も多いのは、戦闘で逃げ遅れた雑軍が、敗残兵となって各地に集ったもの、土匪から転化したもの、共産軍とその編成した遊撃隊である。…中略…毛沢東は言っている。「かかる状況下では、遊撃戦の指導責任は大体において青年学生の肩にかかっている。教職員とか大学教授、文化人、在郷軍人、科学者、芸術家、自由職業者もまた身を挺して進み出で、彼らの最後の地の一滴をも流さんと欲している。最近山西、河北、察哈爾、綏遠、山東、浙江、安徽、江蘇等の各省に広範に発展せる遊撃戦争は、民間の愛国志士が唱導して組織されたものでその数も多い」と。事変の当初、北京には数百人の赤化教職員と、同じく数千の大学生がいた。彼らは事変が起きると、一部は南下して当時の南京府政に馳せ参じ、一部は北支の遊撃隊に加わってその指導者となった。北京郊外の遊覧地西山の奥にも、大学教授の指揮する遊撃隊が出没した。
同上書 p.40~42
本書によると正規軍から遊撃隊になったものはかなり多く、一説では三分の一程度いたという。他に地方の警備隊からの転身者、叛乱軍からの転身者も多かったようだ。
中国共産党と遊撃戦
この遊撃隊を動かしていた中心勢力は中国共産党である。
遊撃戦は共産党の最も得意とするところである。彼らは長い間、蒋介石の討伐軍に対し、遊撃戦で対抗して来たのである。ことに昭和五年から九年にかけては、わずか十万くらいの兵力で、六、七十万の軍隊を相手に、江西の山の中で神出鬼没の働きをしてきた。その手を今日本に対してやっているのである。今度の事変でも、共産軍は正規戦にはほとんど参加しないで、遊撃専門にやって来た。そうして共産系の遊撃隊がだんだん増えて来た。事変前には支那軍総兵力二百二十万の中で共産軍はわずか七万であった。ところが今日では正規軍こそ二百万の中で十万しかないが、遊撃隊は二百万の中に七十万は共産系で、次第に国民党と勢力伯仲し、このままでは共産系の方が優勢になるかも知れぬ。共産軍は北に第八路軍があり、南に新四軍がある。これが中心となって南北支那に遊撃戦を展開している。
中国共産党は、遊撃戦を以て抗日戦の主な戦闘形式としているだけでなく、また支那に於ける共産革命の一手段としている。少なくとも彼らの政治上の政策遂行の主要手段としている。彼らは抗日遊撃戦をやっている間に、民意の政治意識を昂揚し、自衛団を組織し、遊撃隊を編成し、一切の民衆の武装動員を煽動し、各地に抗日根拠地を設け、抗日政権を造り、支那民族の解放を目標とし、抗日最上主義で行っているが、これによって民衆が組織され、武装され、共産党がそれを握って行けば、彼らの政権獲得への道は開かれて行くと考えているらしい。
同上書 p.50~52

では支那事変の間に中国共産党が遊撃隊をどのように動かしていたのだろうか。例えば第八路軍は盧溝橋事件のあと八月二十二日に結成され、抗日戦に参加するようになった。その後彼らがどのような遊撃戦を行っていたかについては、次のように解説されている。
彼らは黄河の濁流を渡ってまず山西に侵入し、今日のように山西を遊撃隊の巣にした。始めは正規戦と遊撃戦と双方やっていたが、山西が皇軍の手に帰してからは、遊撃戦を専門に行うに至った。第八路軍の遊撃隊は、山西から河北平野へ、察哈爾へ、山東へと北支一帯に流れ出して来た。わが後方の兵站戦を襲ったり、病院を襲撃したり、鉄道を壊したりした。また日本の援助で出来た地方治安維持会を壊し、共産系の県政府を造った。この頃から既に民衆に手を伸ばし、民衆の中に遊撃隊を造り始めた。また人民とよく連絡を取っているので、わが軍の行動が分かり、包囲しようとするといち早く逃げて空っぽになっていて一ヶ年の間に六百三十八回戦ったと言っている。彼らは臨時政府側の保安隊に手を伸ばし、いくつかの保安隊を寝返らせ、それで武器弾薬を獲得した。こうして第八路軍から各遊撃区に支隊を出し、それを遊撃隊と自衛団とが巻き付いているし、これが共産系の県長と連絡し共産党の縄張りを進めていく。
共産軍が頑固であるのは、彼らが昔からやってきた戦法により、わが占領区域内にある山岳地帯や省境等に多くの抗日戦の根拠地を造ったことである。…中略… ここに食糧を集め、小さい武器の製造修理工場を設け、宣伝機関を備え、学校を設け、紙幣を発行しているのもある。それらの県には共産系の県政府と県長とがあり、共産軍はお手のものの民衆の訓練と組織とをやり、人民の自衛団を造って抗日戦に捲き込んでいく。こうして日本軍占領地の真中に、こうした抗日の拠点が点在するのである。
戦闘の際には共産軍は堂々と戦線には加わらないが、たえず横の方や裏から悪戯して、わが交通輸送を邪魔するので、このほうに少なからざる兵力を取られることになる。戦闘部隊が来ると逃げて、後の方から来る輜重部隊を襲うという有様で、手に負えない連中である。はじめに九ヶ月の戦闘で彼らの死傷二万数千、その中で戦死七千人といわれ、共産軍の幹部も少なからず混ざっている。
同上書 p.52~54
のちに「歴史」として叙述されるのは、戦争の場合はほとんどが正規軍同士の戦闘であり、支那事変が次第にゲリラ戦と破壊工作、政治工作、経済工作などの戦いに変化していったことは戦後の日本人にはほとんど知らされていない。しかしながら、このような記録を読まないと、支那事変で共産党軍がどのような動き方をし、先人たちがどのような戦いを強いられて苦しんだかを理解することは不可能だと思う。
GHQに焚書処分された長野朗の著作
GHQに焚書されている長野朗の著作を五十音順に並べてみた。
分類欄はすべて「△」で、焚書された彼の作品でネット公開されているものはなく、読むためには「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込む必要がある。
| タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
| 暗雲ただよふ満蒙 | 長野 朗 | 千倉書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1035335 | 昭和6 | |
| 現代戦争読本 | 長野 朗 | 坂上書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1262066 | 昭和15 | |
| 皇民読本 | 長野 朗 | 光生館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044683 | 昭和17 | |
| 自治日本の建設 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1212913 | 昭和7 | |
| 支那三十年 | 長野 朗 | 大和書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1043891 | 昭和17 | 2020呉PASS出版で復刻 |
| 支那読本 | 長野 朗 | 坂上書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1877901 | 昭和11 | |
| 支那の再認識 | 長野 朗 | 大都書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1229071 | 昭和12 | |
| 新舞台支那 | 長野 朗 | 正信同愛会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1255736 | 昭和11 | |
| 日本国民の生存と満州 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1719282 | 昭和6 | 満洲問題叢書 ; 第4巻 |
| 日本自治史観 | 長野 朗 | 建設社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1213215 | 昭和7 | |
| 日本と支那の諸問題 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1177647 | 昭和4 | |
| 満州の過去と将来 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1214236 | 昭和16 | 満洲問題叢書. 第5巻 |
| 満州の鉄道を繞る日米露支 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1872491 | 昭和16 | 満洲問題叢書 ; 第1巻 |
| 満蒙併合か独立か | 長野 朗 | 千倉書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1908644 | 昭和6 | |
| 民族戦 | 長野 朗 | 柴山教育出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683868 | 昭和16 | 2020呉PASS出版で復刻 |
| 民族問題概説 | 長野 朗 | 小学館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1045098 | 昭和16 | |
| 遊撃隊遊撃戦 | 長野 朗 | 和泉書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1138504 | 昭和15 | |
| 遊撃隊遊撃戦研究 | 長野 朗 | 坂上書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062843 | 昭和16 |
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