『持てる国』英国
「持てる国と持たざる国」という言葉を、子供の頃に何度か大人から聞いた記憶があるのだが、今では使われることが少なくなってしまっている。斎藤榮三郎の『英国の殖民政策』(GHQ焚書)を読み始めるとこの言葉が冒頭から出て来た。
戦後の歴史叙述では、わが国が侵略戦争を行った悪い国だというニュアンスで記されることが大半なのだが、当時に於いて世界の重要資源の市場を一部の大国が支配していた事実を抜きにして、この時代の歴史は語れないと思う。

今回は斎藤榮三郎の『英国の殖民政策』(GHQ焚書)の一部を紹介させていただくのだが、著者は昭和十一年(1936年)に早稲田大学を卒業後日本経済新聞社に入社し、上海支局長、シンガポール支局長、出版部長、企画部長などを歴任したのち、昭和二十五年(1950年)にNHKニュース解説委員となり、昭和二十九年に立正大学理事、経済学部教授となった人物で、私の世代に近い方は、テレビ番組の『時事放談』のレギュラーであったといえば、思い出す人がかなりいるのではと思われる。
イギリスはわが国と同様に島国で、本土の面積は日本列島の三分の二にもならないのだが、この国の植民地等を含むと地球上の陸地面積の四分の一程度を領有していた。これは全ヨーロッパの四十倍に近く、アジアの面積と変わらない規模である。

イギリスはただ広大な陸地面積を領有しただけではなく、重要な資源の産地の多くを属領として押さえていたことが重要である。そのために、重要資源が一部の国に支配されていることに不満を持つ国が多かったのである。斎藤はこう解説している。
英国の王室国際問題研究所の出した『原料資源と植民地』というパンフレットの中に、
(1)不満を懐く強国は工業用原料資源を重視していること
(2)工業用原料輸入が急激に増加していること
(3)日、独、伊の輸入中、工業用原料輸入は食料品輸入よりも遥かに多いこと
等を理由として、『持たざる国』が要求している物は工業用原料であると断定している。つまりこれらの諸国は工業国なるが故に、その原料に不足を感じ不満を感じているのである。
だからこれらのいわゆる『持たざる国』は、重工業原料については少ないとはいえ、一応そろえているのだ。これが弱小国の場合になると、そのいずれかを全然持っていない…。文字通り『持たざる国』である。『持たざる国』日、独、伊の資源は、これを英、米、ソに比較すると著しくその量に於いて劣る事実がわかる。(表1ご参照)…これを見ると、英米ソが飛び抜けて重要資源を持っていることが分かる。
しかし英国を除いての、そのいずれもが、資源の大部分を本国に於いて産出している。英国は植民地を除けば『持たざる国』になってしまう。ここに資源関係からみた英国植民地の重要性がある。
斎藤榮三郎『英国の殖民政策』大東出版社 昭和14年刊 p.3~5
【表1】は同上書の表記が縦書きで読みにくいのでExcelで数表化したものだが、これを見ると、なぜ第二次世界大戦が起きたのかが見えて来る。戦勝した「連合国」の主要国である英米仏ソの四ヶ国は『持てる国』で世界の主要資源の主な産出地を確保しており、市場を支配することが出来た。一方、『持たざる国』のわが国やドイツ、イタリアは何を生産するにも『持てる国』から原材料や燃料の過半を調達する必要があったことを知らねばならない。もし「持てざる国」が「持てる国」の意に沿わない行動をとると、重要原料の調達が厳しくなるなどの事態に陥る可能性があり、実際にわが国はABCD包囲網による戦略物資の輸出規制を受けたのである。
戦後の教科書などでは第二次世界大戦は、「連合国」対「同盟国」の戦いであったと説明されるのがほとんどだが、「持てる国」と「持たざる国」との戦いとする方が理解しやすいと思う。
大英帝国のブロック経済

当時のイギリス本国は属領どのような経済関係であったのか。著者は以下のように解説しているのだが、ちなみに文中の濠州はオーストラリアのことで、1901年のイギリスから事実上の独立後もイギリスが参加した戦争にはたびたび参加し、第一次世界大戦では英仏軍と共にオスマン帝国との激戦に参加し、第二次世界大戦でも連合国軍として南洋で日本軍と戦っている。
英本国の必要とする羊毛の大部分は濠州、ニュージーランドをはじめとして帝国内各地より輸入し、帝国外よりはアルゼンチン及び南米西海岸諸国から若干輸入している。
棉花に至ってはこれと全く反対に大部分を米国からの供給に仰いでいる。そこで棉花の帝国内自給を企図している。
世界的に有名な英国の革製品工業に要する皮革の大部分はインド、カナダ、濠州、ニュージーランド等内より輸入し、米国及びアルゼンチンからも少なからず輸入している。…中略…英国は石炭豊富にして欧州諸国へはもちろん、遠方の属領へも供給しているが、石油に至っては、インド(世界生産の0.8%程度)及びカナダにきわめて少量算出するのみで、帝国内の資源としては世界生産のわずか2%しか当たらぬ状態で、しかも需要は、米国、ソ連に次ぐ大消費国で1933年6800万バレルを使用している。
そこで英国はつとにペルシャ、イラク、蘭領インド*、メキシコ、南米などに着目し、油田の獲得に努力し、米国その他の諸国と激烈なる競争を演じている。
*蘭領インド:かつてオランダの植民地であった現在のインドネシア及びマレーシアのマラッカ州重要工業原料の中で、英本国として充分供給し得るものは、石炭ぐらいのものだが、属領をも加えた英帝国としてみれば、ほとんど自給自足できる。
同上書 p.17~19
現在では中東地域が世界の石油生産の約三分の一に達しているが、サウジアラビアで石油が大量生産されるようになったのは戦後のことで、当時はアメリカが最大の石油産出国であり、世界の6割のシェアを占めていた。
イギリスの属領では石油に関してはカナダとインドで少量算出するのみで、そこでイギリスはペルシャ、イラクの油田に投資して生産施設を設け、石油の需要を主にその二国から調達していたようだ。
重要工業原料の中でイギリス本国で自給できたものは石炭ぐらいのもので、他の原料品や食料品は主に海外の属領から輸入し、生産した工業製品などは属領に主に輸出してブロック経済が動いていて、重要物資が枯渇し経済が停滞する懸念はなかったのである。
支那の植民地化
著者は英国の各属領について解説したあと、支那の植民地化について論じている。1637年にイギリスがインドでポルトガルに勝利し澳門に英国船舶の出入りが認められ、その年にイギリスは軍艦を送り、澳門から広州に至り虎門を砲撃して威嚇した。驚いた支那はイギリスと条約を締結して廣東河口における通称を許可している。その後イギリスは台湾の安平、福建の厦門における通商の許可を得、1715年には東印度会社は廣東に商館を設けて対支貿易を独占権を取得した。
では、当時のイギリスの対支貿易はどのような商品を取扱っていたのか。
支那と欧州との通商は大体において絹及び茶の輸出を基礎としていた。
通商は廣東に於ける富裕なる商人の独占的組織たる公行を通じて行われた。
このギルドは買弁の最初の形ではあるが、はるかに独立の権力を有し、英国は後にこのギルドの破壊を必要とするに至ったのである。東インド会社は支那からの輸入品を欧州市場に売ることによって一八一五年以来平均年百万ポンドの利益をあげていた。
しかし、英支貿易は最初は著しい片貿易であって、支那に対する銀の輸出を必要としたのである。インドのアヘンの輸入が漸次増加したことはこの片貿易調整の意味に於いても重要なことであった。
アヘンは一七二九年の二百箱から一八三八年の二万箱に増加した。
かくてここに漸次増加しつつあったインドよりアヘンの支那向け輸出は、次第に政策的な意味を帯び、これに応じてまた英国の対支経済活動は、公行のギルド的独占を破って侵入する必要があった。
かくの如くして廣東を通じて行われたインドよりのアヘン輸入は、十八世紀の半ば前より東インド会社の終焉に至る約一世紀間に殆んど百倍し、英国人はこの支那人の腐食に於いて利益と権力の進出を図った。
同上書 p.237~238
その後イギリスの産業資本家たちは英国商品の市場としての支那大陸の獲得に動き出し、支那貿易を独占していた東インド会社が1833年に廃止されると、それまで英国から支那への輸出額が60万ポンドから132万6千ポンドに拡大したという。

イギリスが植民地化を狙う際には数々の弱体化工作を仕掛けることが常だが、アヘンの押しつけには酷いものがあった。支那側も早い段階から何度もアヘンを禁止したのだが、イギリスはそれでも強引にアヘンを売ろうとしたようだ。同上書に、アヘン戦争に至るまでのイギリスの圧力に対して支那がどのように動いたかが記されているので紹介したい。
当時英国は、その出先官憲に対し、密かに次のような指令を発したという。
『東インド会社の名によって、アヘンを徹底的に支那に持ち込め。これに要する買収費の如きは意に介するな。非合法手段によりて飛躍せよ』と。
一八〇〇年 アヘンの禁厳重となる。当時アヘンは英国商人によって輸入されその額は年々増加していった。
一八〇二年 英国は軍艦六隻を以て廣東香山縣の雞頸洋に停泊し澳門をうかがったが、直に退去したが、この時英・仏は兵を構えた。…中略…
一八一五年 アヘンの禁煙をなした。当時英国上人の輸入するアヘンは一年三千箱に達していた。…中略…
一八二二年 両廣総督阮元はアヘンの販売を禁じた。当時支那のアヘンの輸入は年一万箱に達していた。
一八二三年 アヘン禁煙条例の監督を厳にした。
一八三〇年 アヘンの内地販売を禁止する章程を定めた。
一八三四年 東インド会社の対支貿易独占権が満期となり、これがため貿易監督ロード・ナピールを支那に派遣したが支那は未だ許可しなかった。
そこで砲艦二隻、虎門に入り、黄浦に碇泊した。ナピールは病気となり去り、同年澳門で死んだ。
一八三六年 ナピールの死後これをついだデヴィス・ロビンソンもまた交渉に失敗した。そこで英国政府はキャプテン・エリオットをしてこれに代わらせた。かれこそアヘン戦争の中心人物である。
一八三八年 英国は海軍少将フレデリック・メインランドを派して軍艦を率いて支那に来たらせ,英商を保護させた。
時に清朝は朱罇、許球、黄爵滋が協議してますます禁煙を厳にした。
一八三九年 清朝は林則徐に命じて廣東に至らしめた。則徐は両廣総督鄭廷に重ねて禁煙をなし、期限付きにて禁絶させ、これに違反する者を絞罪し、販売する者を斬罪に処した。
この際英国商人のアヘン一万九千百七十九箱及び二千百十九袋、合計二百三十七万六千二百五十四斤を焼却した。
また則徐は命じて英人に対する薪水食料の給付を禁じた。
ここに於いてキャプテン・エリオットは軍艦を率いて九龍を犯し、砲撃を開始した。アヘン戦争の戦火は切って落とされた。
同上書 p.243~247
アヘン戦争やアロー号事件については多くの本に書かれているし、このブログでも記事を書いたので詳細は省略するが、イギリスは圧倒的な軍事力でアヘン戦争で勝利し、南京条約で賠償金21百万ドルの支払いと、香港島の割譲、廣東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めさせている。またこの頃から苦力(支那人の出稼ぎ労働者)の輸出が開始されるようになった。苦力は奴隷と同様に売買され、主に大英帝国の属領や米国で低賃金で苛酷な労働を強いられている。

またイギリスは、アロー号事件のあとの天津条約・北京条約で外交官の北京駐在、中国での旅行と貿易の自由と治外法権、キリスト教の布教の自由、漢口や天津などの開港、九龍半島の割譲等を認めさせている。
その後英国商品が支那市場に進出して行ったことは言うまでもない。綿製品の対支輸出は一八五二年以降の三十年間で約五倍となり、長い間英国の対支貿易は輸入超過であったのだが、一八九〇年代になってようやく輸出超過に転じたという。
綿糸綿布は、昔日のアヘンをしりぞけて、輸出品目の第一位を占めた。かくして対支活動の指導的位置に立つにいたったものは、十九世紀の半ば以後、アヘン輸出者でなくして、既にランカシャの綿業者であった。
しかし英国の資本主義はやがて、鉄、銅の時代に入り、鉄鋼業者はその資本の増大につれて、次第に対支政策に於いても、ランカシャ貿易業者を斥けて指導的位置を占めんとし、これてともにまた英国金融資本もようやくその驥足を極東に延ばしはじめた。
すなわち香港、上海銀行は早くも一八六五年に香港に創立され、相前後して麥加利銀行、有利銀行等の進出があり、また一八九〇年代に於いて鉄道に対する金融機関として中英銀公司、福公司等が創立された。
同上書 p.257
当時ロシアや日本、米国も鉄道建設などで支那に投資をしていたが、英国の投資額は他国を圧倒していたことが書かれている。
当時英国の支那支配の程度を推考する手段としてリーマーの計算を見よう。
一九〇二年英国の対支投資額は既に一般事業投資及び政府借款合計二億六千三十万ドルの巨額に達し、これに伴う土地所有高三千三百六十万ドルと評価された。
これは列国の対支投資総額の三十三%を占めており、また政府借款はもちろん鉄道および付属地の経営権を譲渡し、あるいは国家収入の大宗たる関税、塩税の行政に対する英国の介入を対価とし、直接に植民地収奪の機能を発揮した。この傾向は爾来引き続いて強化され、一九一四年の大戦前に於けるリーマーの推定額によれば、英国の投資総額六億七百五十万ドル、すなわち列強対支投資総額の三十八%に上昇している。同年の第二位投資国はロシアだが全体の十六%、日本は十三%、米国はわずかに三%に過ぎない。
さらに外国貿易について見るも、英国の対支貿易は四億七千万両。これは支那対外貿易総額の四十八%に当たっている。かくの如くして、英国は内にあっては領土的、経済的に内政支配の実権を把握しつつ、外にあっては日英同盟を結んで、日本をしてロシアを伐たしめ、英国は支那に於ける覇権を確立して行った。
ところが、欧州が第一次世界大戦で戦っている間に、わが国は大幅に対支貿易を拡大したのである。
大戦まで、英国の前にはほとんど問題にならなかった日本の対支勢力は、欧州の大戦による疲弊を契機として急速に進展し、一九二五年には既に対支貿易に於ける地位が転倒している。また投下資本について見るも一九三一年のリーマーの計算によれば
日本の投資額は十一億三千六百万ドルで全体の三十五.一%に上昇したが、英国は十一億八千九百万ドル、全体の三十六.七%とわずかに日本より上位にあるに過ぎない。
同上書 p.263
イギリスはわが国の対支貿易が急拡大したことに危機感を持ち、対支政策が根本的に変更し、わが国を制約するためにアメリカと提携したのである。支那の排日運動は英米が仕掛けたものであることは当時の新聞にも詳しく出ているのだが、教科書などでは支那で排日運動が起きた理由については外交が行き詰ったことぐらいしか書かれていない。これでは、なぜわが国が支那事変に巻き込まれたかを正しく理解することは難しいだろう。
GHQに焚書処分された斎藤榮三郎の著書
GHQ焚書リストの中に斎藤榮三郎の著作は全部で六点存在するが、『英国の殖民政策』と『英国の世界侵略史』は書名は異なるが、内容は殆んど同じであるのでどちらを読んでも良いのだが、『英国の世界侵略史』では第二十六章の「巧妙なる英国外交政策」が欠落しているので、『英国の殖民政策』で読むことをお薦めしたい。
ネット公開されている作品は存在せず、分類欄に「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能。
| タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
| 英国の殖民政策 | 斎藤栄三郎 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1281403 | 昭和14 | |
| 英国の世界侵略史 | 斎藤栄三郎 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1440402 | 昭和15 | |
| 国策から見た戦争 | 斎藤栄三郎 | モナス | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1462194 | 昭和13 | |
| 支那の人的資源調査資料 | 斎藤栄三郎 | 伊藤書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1445094 | 昭和17 | |
| 戦時下中小商業者の生く道 | 斎藤栄三郎 | 伊藤書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1245942 | 昭和15 | |
| 戦時日本経済史 | 斎藤栄三郎 | 伊藤書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1459360 | 昭和16 |
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