紀行と旅行記はいずれも旅行に関する記録であるが、紀行は文化や歴史についての情報提供が中心で、旅行記というと個人的な出来事や感想を書いたもので、文章の途中に写真や挿絵などがありそうなイメージがある。今回GHQ焚書リストの中から、本のタイトルから判断して紀行や旅行記の類を探してみたが、「紀行」であっても、個人の体験や見聞したことを書いているものもあれば、挿絵があるものもある。
本のタイトルに「紀行」を含むGHQ焚書が十点、「旅」を含むものが十六点存在するが、自らが見聞したことをそのまま記録した作品は、当時の世界の状況や論調を知る上で非常に参考になる。
『黄塵 : 紀行随筆集』

最初に紹介したいのは『黄塵:紀行随筆集』だが、著者の井関雅夫は戦中で書いた本はこの一点のみである。昭和三十六年に書いた『女なんて大嫌い』と、昭和四十年に書いた『グッドアイデア』という本の奥付けに、著者の略歴が書かれている。そこには、京都生まれで京都市立美術大学を卒業し、文展その他の展覧会で入選・入賞したことや、満映、映配、東映などの宣伝部長を歴任し、メトロ・ゴールドウィン・メーヤー映画会社の宣伝部長となったのち同社の特別宣伝ディレクターとなったことなどが書かれていて、「なんでも一流のものなら、能からモダンジャズまで全部スキ。インチキと嘘と低級なものは大嫌い」な人物だと自評している。井関の戦後の著作には、彼の戦争での体験には一切触れられていないのだが、『黄塵』を読み進めると、支那事変が勃発した時に彼は大連のある中学で教鞭をとっていて、召集令状が来たために南京攻略戦に行くこととなった。この本には彼が支那大陸で体験したこと、見てきたことをそのまま記している。

河北省で支那の人々が日本兵に対してどのように接したかが記されている部分を最初に紹介させていただく。引用文の中に「老百姓」という言葉が出て来るが、支那では「百姓」は農民ではなく人民を意味し、日本でいう百姓は支那では「農夫」という。また「老」は支那では年齢とは関係なく敬意を示すときに用いられるのだそうだ。
支那では大体北方ほど人が好いとされている。河北省の老百姓は実際寛大で親切な人が多い。軍隊が行って宿営をするとなると、その家の主人は一番良い部屋を開けて掃除をして招じ入れてくれ、兵隊の多い時には自分たちは納屋へ入っても兵士たちを歓待する。そして選択やら食器洗いまで一家総出で親切にやってくれて、使い走り水汲み迄骨惜しみせずつくしてくれるような人たちもいた。
彼等老百姓は日本軍がいれば、決して匪賊や共産軍の来ないことを誰よりもよく知っていて、日本と協力することを望んでいる。ある時我々が四十日近くもいたある村落を移動せねばならなくなった。隊からは勿論その村に宿営代としていくらかは支払ってはいたが、私たちの班の泊まった家の主人があまりに誠意をつくしてくれたから、お礼の意味でみんなわずかずつの金を集めて主人に渡したが、どうしても受け取らなかった。終にはおこってしまって、
「金が欲しいから、兵隊の面倒を見たのではない」
という。仕方なく我々は口で厚く礼を言って引き上げた。そこから車站まで六キロばかりあったが、その家の十才ばかりの子供は駅まで送って来てくれた。私たちが乗車してからダイヤの都合でこの軍用列車は一時間ばかり動かなかった。その子供は私たちの乗った汽車の窓の下に立って帰ろうとしない。私たちはその子に一円やって、
「何か美味しいものでも買って食え」
と言った。子供は最初なかなか受け取らなかったが、暫くして受け取るとどこかへ姿を消した。”やはり子供は頑是ないな、お金を貰ったらすぐどこかへ行ってしまった”等と私たちは笑っていたら、子供は疾風のように飛んで帰って来た。
「今の一円で煙草を買って来たから、兵隊さん、喫っておくれ」
と言って窓から放りこんでくれた。兵士たちは言うべきこともなく、為すべきところを知らず、ただ茫然とその子を眺めていた。私は今でもその子と文通をしている。現在は華北交通の愛路少年隊に入って鉄道警備をしているという。
井関雅夫『黄塵:紀行随筆集』日本出版社 昭和19年刊 p.29~31
河北の人々が惧れていたのは匪賊であり共産軍であって、村に日本兵がいてくれたおかげでその間平穏に過ごすことが出来て感謝していたことが、こんな短い文章を読むだけでわかるのである。
その後井関らは著者たちは西へ進み、南京戦で軍が勝利した後は、次期作戦のため南京で一ヶ月以上待機を余儀なくされた。戦後の歴史叙述では日本軍が南京戦の後で大虐殺があったようなニュアンスで解説されることが多いのだが、この時期の南京には日本兵も世界の新聞記者も多数いて、克明な記録、写真や記録映画などが数多く残されている。
当時の記録や写真などを自分で探して読めば、中国共産党が声高に主張する歴史などは嘘ばかりであることは誰でも容易に理解できると思うのだが、未だに自虐史観に洗脳されている日本人が多いのは、GHQがそのような記録が書かれた本を焚書処分し、戦後の長きにわたり日本人の目に触れないようにしてきたことや、日本史学会やマスコミ、教育界はいずれも左巻きが多数派となっていることが主な理由だと思う。

『黄塵』の南京に関する記述の一部を紹介したい。
南京へ来てからもう一ヶ月以上の月日が流れた。そして今私たちは次期作戦の為ここから別の地方へ転出しようとしている。さて去るとなると南京もまた思い出の多い町である。北支から江南へ廻ってきたのが十一月の初め、いよいよ上陸したのが中旬、それから我々は南京攻略戦線に参加した。その間の辛苦も多かっただけに入城した時は嬉しかった。
南京へ来るまでの苦労が大きかっただけに――南京へ停ってから次期作戦までの待機の間が長かっただけに――ひとしお南京に対する慕しさが増して来て、いよいよ出発となると南京もまた去りがたい親しみを覚える。南京はメカニズムな街である。近代的な装備が整然と行きとどいている。首府として都会としての必要な諸官公衙が美しく軒を並べている間に民家がつつましやかに立ち並んでいる。しかし入城した当時は静まり返った死の如き街であった。其処此処の街角には敵兵の屍体がゴロゴロ転がっていたし、所々で無気味に家屋が焔々と燃えていた。日本軍の歩哨が立っている以外は人の顔を見ることが出来なかった。誰もいない、静まり返った都会の一隅でメラメラと燃え上がっている却火は嫌な気のするものである。そうして狼の様にやせこけた主人のない犬が人の顔さえ見れば吠え立てていた。
今は避難民もボツボツ帰って来たし、酒保が軒を並べたり慰安所が出来るようになって、いくらか人間の暖かさを感じるようになった。お正月も南京で過ごした。内地からはるばる送られて来たカビだらけの形ばかりの餅が一切れずつ兵士たちに配られた。そして小さな缶詰も貰った。その缶詰には可愛い金魚のような鯛と海老と牛蒡。黒豆・数の子が少しずつ実に行儀よくつめてあった。
元旦の朝まだき、東天を拝して感激した私たちの眼は、また違った喜びと感激でその小さな缶詰を飽きずに何時までも眺めたものか――時々敵機もおめでとうを言いに来た。こちらも相変わりませずと、挨拶でもするように高射砲や高射機関銃を撃ってやる。
こんなお正月であった。
同上書 p.83~85
左翼の学者は南京攻略後数ヶ月にわたって日本軍が一般市民や捕虜を虐殺したと主張するのだが、井関らは攻略後一ヶ月以上平穏に南京で生活し、避難民たちも南京に戻って来たと書いている。いったいどこで大虐殺があったというのか。当時の一次資料は大量に残されているが、写真や映像を見たら南京はすぐに秩序を取り戻したことは明らかである。井関らが南京を去ったのは昭和十三年一月十九日なのだが、それまでに避難民は南京に帰って来ていたことを知るべきである。南京戦についてはいずれこのブログで書くことにしたい。
芝染太郎『アメリカ旅行その日その日』

次に紹介させていただくのは『アメリカ旅行その日その日』という本で、筆者の略歴についてネットで拾える情報をまとめると、東京英和学校(現 青山学院大学)卒業後ハワイに移住し、日系新聞『ハワイ新報』で活躍し後に社長を務めたという。帰国後はJapan Timesの役員となりここでも社長を務めたのだが、大正十年に開かれたワシントン会議の結果、日露戦争の日本海海戦で旗艦であった三笠の廃棄処分が決定されてスクラップにされようとしてきた際に「三笠保存運動」が起こり、その運動の中心になった人物が芝染太郎である。彼は自分の新聞で三笠を保存することの重要性を訴え続けた結果、彼の熱意が通じて三笠は記念館として永久保存されることが決定し、今も横須賀市にある三笠公園で内部を見学することが出来る。
芝はこの『アメリカ旅行その日その日』は1939年(昭和14年)に米国に旅行した際に「米国人に読ませんが為に寄稿せるものの邦訳」とあり、アメリカに対して結構厳しいことを書いている。アメリカの門戸開放政策に対する彼の主張を紹介させていただく。
昨夜はある宴席に招かれて、食後五六名の相客と四方山の会談をした。その内の一人であった某弁護士はさかんに日本が支那の門戸を閉塞せんとしていると非難されたので、私も少々癪に障らざるを得なかった。そこで、言葉和やかにその人に答えて言った。――
「門戸開放ということは普通人に国際道義の主張の如く誤解されている。しかし、支那の門戸は如何にして解放されたのであろうか。歴史上の事実から言えば、支那人の肯んぜぬ阿片を喫ませ、その常習を予想して、この毒煙を売り付けて利益を得んと試みた英国が、一八三七年に人類の歴史あって以来最も嘔吐すべき阿片戦争によって支那に開放を強いたる門戸がそれである。即ち強盗が押し明けた門戸に外ならぬのである。その強盗の所業は何時までも支那人を始め東洋人の忘れんとして忘れ得ざるところのものである。その暴力に訴えて明けられた門戸をアメリカが吾こそその番人であると頑張り、当の犯人をそっちのけにして表面に立って争うことは、米国の為に甚だ遺憾とするところである。通商上の機会均等は吾々も熱望する処であって、日本はそれを何れの国とも争わんとするものでは無い。しかし英仏の如きは、政治上の既得権を楯として通商上の機会均等を後進国に拒まんとしてきた。その英仏の野望を利用して蒋介石政府は遠交近攻の策を講ずる奸策に出ている。それが絶え間なき日支紛争の原因をなしたものと断言し得ると思う。
地図を開けて御覧なさい。英国は支那に北米合衆国の二分の一くらいな領土を掠奪し、仏国も南支を侵略して仏領インドシナを領有し、ロシアに至ってはシベリアはとうの昔のこと、現在百万方哩の外蒙古を事実上その領土としている。かかる事実の現存するにもかかわらず、米国は日本に対してのみ責任呼ばわりをする。これは実におかしなことである。今また海南島を占領したと騒ぎ立てられるが、その小島にフランスが国旗を立てた時アメリカは一言半句門戸開放機会均等を叫ばなかったではないか。まるで米国は欧州強国の番犬でもあるかのような振舞いをなさる」。云々と歴史を引用して逆襲してみた。
しかるに相手の法律家はやや打ち解けながら、なおも私に向かって「それでも現在日本は支那で第三国人の旅行の束縛をしているではないか」と反問されたから、わたしは「無論のことです。火事場でさえ交通遮断を行うではないか。それは戦争中一時的の処置として止むを得ざることで、火事さえ熄めば交通は自由に開放されるので、平和が回復されても交通遮断をしていたならば商売も出来ず工業も繁昌せず、その土地は疲弊してしまう。それくらいのことが解らぬほど日本人は幼稚な人種ではありますまい」と答えた。
芝染太郎『アメリカ旅行その日その日』昭和14年刊 p.34~36
こんな具合に芝は旅行中にいろんな人物と議論しているのだが、避暑地でたまたまアメリカ第二十七代大統領のウィリアム・タフトの実弟であるヘンリー・タフトと出会っている。ヘンリー・タフトとはニューヨークの日米協会の活動を通じて懇意にしていた仲なのだが、ここで芝はタフトと日支問題について語り合っている。
タフト翁は日支問題について、
「現在は日本に対する反感が旺盛であって、如何なる説明も米国人の耳には入らぬ。日本は当分沈黙して米人の感情が冷却するのを待つの外ない」と語られた。
タフト翁以外の米人からもしばしば日本は宣伝負けをしていることを告げられた。それならば、日本も対抗して宣伝を試みるべきかというと、私はそうは考えぬ。日支事件に関して全米に行われている反日宣伝なるものは、その道に達者な支那の宣伝のみではない。その背後に英国と言う老獪極まる大帝国が控えて助太刀どころか、全力を挙げて日本を縛りあげようとしている。この両者の宣伝に対して、日本は到底対抗し得る望みはない。無駄だとしれば手を着けないに限る。無はやがて有となろう。それだけでなく、日本が戦争に勝利を博して百戦百勝の事実そのものが、日本の宣伝には不利である。もしも米国人の家庭に使傭されるガーデンボーイとコックとが争論のあげく、園丁が料理人をしこたま撲りつけたと仮定しよう。奥さんは何とご亭主に告げるであろうか。ジョンはジムをひどい目に撲りつけてジムは明日から仕事ができないのです。ジョンは実に乱暴で野蛮ではありませんか――と報告するに違いない。
…中略… 婦人の同情は常に弱者に注がれ、その同上は弱者の行為を正常視する。しかも米国の世論は常に婦人によって作られ、大統領の選挙さえ夫人を味方にせねば到底勝味は覚束ないという国柄である。
即ち、(1)支那人が彼ら自身既に宣伝上手であること、その上に(2)英国が東洋に於ける盗品を他人の手に渡すまいと懸命に助太刀している。(3)米国婦人の同情が支那側にあること、そこへもって来て(4)日本が戦争に勝っているのであるから、宣伝戦に勝つ見込みは更にない。更に第五の理由がある。それは(5)日本人は性来宣伝を好まぬという否むべからざる事実である。
同上書 p.43~45
今でもこの国はわが国に何も問題がなくとも日本の問題だとしたり、自国がやった悪事を日本がやったとか世界中に宣伝することが日常茶飯事だが、彼等が過去の歴史について声高に主張する内容についても、ほとんどが彼らの得意とするプロパガンダに過ぎない。日本人は歴史の真実を学び、彼等の主張する歴史が嘘ばかりであることを根拠とともに世界に示すべきなのだが、わが国の政治家、官僚にはもっと勉強してほしい所である。
GHQが焚書処分した紀行・旅行記リスト
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルに「紀行」「旅(行)」を含む本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
亜細亜の旅人 | 林 房雄 | 金星堂 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1685945 | 昭和15 | 新選随筆感想叢書 第10 |
アメリカ旅行その日その日 | 芝染太郎 | 芝染太郎 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1032946 | 昭和14 | |
海南島紀行 | 水平 譲 | 光画社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1043931 | 昭和16 | |
紀行案内大満州 | 中村美佐雄 | 旅行文化出版部 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1043963 | 昭和18 | |
黄塵 : 紀行随筆集 | 井関雅夫 | 日本出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1130802 | 昭和19 | |
江南二旬の旅 | 櫻井長徳 編 | 日本新聞連盟 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1685145 | 昭和14 | |
少年北支の旅 | 梶田周作 | 葛城書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1720001 | 昭和19 | |
征旅二千里 聖戦手記 | 片岡正平 | 金正堂 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和14 | ||
セイロン紀行 | C・レッティー 石久保重好 訳 |
岡倉書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1043871 | 昭和17 | 新圏紀行叢書. 第2 |
大旅行記 | 上海東亜同文書院36期生 | 東亜同文会業務部 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和15 | ||
中亜民族共和国事情 カサクスタン紀行 | 中央アジア研究会 | 中央アジア研究会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1686606 | 昭和14 | 中央アジア叢書 第二輯 |
南方科学紀行 | 多田礼吉 | 科学主義工業社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1876567 | 昭和18 | |
南洋記 : 踏査紀行 | 安藤盛 | 興亜書院 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1112920 | 昭和14 | |
南洋羈旅 | 堀内一雄 | 堀内一雄 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1213095 | 昭和8 | |
日本国民に告ぐ : 風雲を孕む北満北支に旅して |
佐藤洋之助 | 動く日本社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1092886 | 昭和12 | |
東印度紀行 | 島崎新太郎 | 那珂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1877372 | 昭和17 | |
文学紀行 満州旅日記 | 新田潤 井上友一郎 豊田三郎 | 明石書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1884689 | 昭和17 | |
北支満鮮旅行記. 第2輯 | 本多辰次郎 | 日満仏教協会本部 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1096248 | 昭和11 | |
マレー蘭印紀行 | 金子光晴 | 山雅房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1687780 | 昭和15 | 中公文庫版、Kindle版あり |
満支戦線 詩と随筆の旅 | 白鳥省吾 | 地平社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1884663 | 昭和18 | |
満州、暹羅、上海の旅 | 三島昌子 | 三島謹子 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1032604 | 昭和14 | |
満支旅行日記 | 平野亮平 編 | 平野亮平 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1031542 | 昭和13 | |
満蒙支犒軍慰霊の旅 | 梶浦逸外 | 尚志寮 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1052370 | 昭和14 | |
満蒙の旅 | 橋本隆吉 | 堀新聞店書籍部 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1055427 | 昭和8 | |
ラオスの旅:仏印随想 | 中村義男 | 山根書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044110 | 昭和19 |
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