GHQが焚書処分したリストの中から、本のタイトルに「風土(記)」あるいは「風物誌(詩)」を含むものを探してみたが全部で十点が引っかかった。
以前このブログで、支那事変以降に多くの小説家や画家が日本軍に従軍して戦場に向かい、多くの記録を残していることを書いたが、今回作成したリストの著者を調べると、『従軍風土記』を書いた寒川光太郎は小説家、『北支風土記』を書いた向井潤吉は画家、『満州風物誌』を書いた春山行夫は詩人であることがわかる。『中支風土記』を書いた高井貞二はネット検索しても引っかからないのでよくわからないのだが、この人物も作家として従軍した人物ではないだろうか。
向井潤吉著『北支風土記』
まず最初に紹介したいのは、向井潤吉の『北支風土記』。

著者の向井潤吉は戦前から戦後にかけて活躍した有名な洋画家で、古い民家を画き続けたことから「民家の向井」と呼ばれていたのだが、向井が日本各地の民家を多数描いたのは戦後になってからのことのようだ。
大正十二年に大阪高島屋に入社し勤務しながら絵を描き続け二科展で何度か入選したという。その後昭和二年にパリで修業し、昭和五年に帰国後二科展に出品した作品で樗牛賞を受賞。昭和十一年には二科展会員に推挙されている。

昭和十二年に支那事変が勃発して向井は、天津、北京方面に従軍したのだが、『北支風土記』はその時に描いたスケッチとともに、彼がそこで見聞したことを記録している。最初に天津に到着した印象を書いている部分を紹介したい。
初めてこの土地を訪れたものは、天津車站(駅)に降りて忽ちに不思議な雑聞と叫喚と困惑の虜になってしまう。このすべてが支那の姿であり生活であり声でもある。そしてこの印象は、支那のどの土地へ行っても訂正する必要のない、頗る便利な縮刷版なのである。
車站前の無残にも爆撃された家屋を見て萬国橋を渡ると、人車の往来は益々劇しくなり、叫喚はもはや一大音響化し、困惑は到底混和しきれないような荷の構成につき当たって、しかしそこに(北支の大阪)としての面目と文化姿態を眺めることが出来る。
日本租界の真中には中原公司の五層楼がそびえ、フランス租界に入った所には勧工場組織天祥市場がある。一階は大抵雑貨品ばかりだが、ヘナヘナの階段を昇って行くと、インチキ書画屋、骨董店、安毛皮商があり、戦地土産だとてここで青龍刀や勲章を買って帰るお客が相当にあるらしい。上の方には戲院(映画館)があるらしく、お定まりのカネや太鼓の響きが中央のガラン洞になった空気を引っ搔き廻すように落ちてきて、さすがに少々の戦争にはビクともせぬだけの耳度胸が民衆に徹底しているのに感嘆させられる。
ビクトリア公園を散歩し、フランス租界で買い物し、旧ドイツ租界で夕食をすませて、夜は支那芝居かイタリア租界の囘力球でも見物している分には、人種の見学も兼ねて恰好な洋行気分になれる。
向井潤吉『北支風土記』大東出版社 昭和14年刊 p.12~15
向井は天津から北京を経由して大同に進みそれまでは観光も楽しむことが出来たのだが、いよいよ前線部隊の後続として編入される部隊と共に、最前線である忻口鎭の要塞に汽動車で向かうこととなる。

遠くで輜重や騎兵の大縦隊が見えたかと思うと、屋根を撃ち抜かれた駅があり、そこで大同に向かう汽動車に乗る負傷兵の一群と出会っている。向井はその時のことを次のように記している。
…みんな大同の野戦病院に収容されるために後送される途中だが、八ツ裂きになった軍服や、急ごしらえの松葉杖や繃帯が血と泥と汗で異様に光っており、疲労に弱っているに拘わらず、僕たちの姿に気がつくと、
「これからどっちへ行くんですか」
と、懐かしそうな表情で質問を浴びせかけた。そして僕たちが忻口鎭の攻撃に加わるのだときくと、口々に、
「ああ、向こうのチャン(支那兵)は中々強いですよ。充分に気をつけてやって下さい。」
と、涙ぐましい忠言を餞けてくれた。それを耳にすると、小隊長はしばらく感慨無量の面持ちだったが、いきなり、
「うむ、ありがとう」
と礼を言い、それから後ろを向くなり、部下の上にこう叫んだ。
「おい、みんなよく聞いたか。いずれお前達もニ三日したらあなんになるかも知れんのだぞ。その位の覚悟がなくてはいかん。見い。みんな不自由な目をして帰って来たのだ。不要な缶詰や煙草があったら、どんどんとわけてやれッ」
思いがけない悲痛な命令である。
そして自分も、その背嚢や雑嚢の中から、おそらくこれから先の行軍と戦闘を考えると、まず何よりも貴重な筈のそれらの食料品を取り出すと、惜しげもなく線路を越えて行って、負傷兵達に、
「みんなと分け合うのだぞ」
と、乱暴な言葉の中に優しい心遣いを見せて手渡すのである。兵隊さん達もそれに見習って、それぞれに大切なキャラメルや缶詰や煙草をとり出して、この後送される不幸な、しかも初めて見る戦友に分けるのである。長い間飢えていたそれらを手にし口にした負傷兵達の喜びと感謝は、恐らく言葉では言い尽くせぬほどの深いものだったろう。
やがて又汽動車は動き始めた。
「しっかりとやってください」
「早く治って出て来いよ。一緒になって大いに働こう」
と、お互いに励まし合いながら、手を、手拭いを、軍帽を振って徐々に車は遠ざかって行った。部隊長もいつの間にか起き出でいて、黙々と見送っていた。…中略…我々の一行は今から先、益々食料や煙草に事欠く生活が、何時何処まで続くか判らずに待っている状態なのに、眼前にそうしたものの欠乏に忍んで来た負傷兵を見れば、じっとしておれない親身さ、温かさ、僕はこの僅かな停車時間中の美しい情景に偶然立ち合って、感動の涙の出て来るのをどう止める方法もなかった。天津、北京、張家口、大同と、その間に擦れちがい、または肩を並べ、あるいは話し合ったが、前線へ来れば来るほど、兵隊さんたちの人情の加速度的に篤くなるのは不思議と思うほどである。
同上書 p.144~148
忻口鎭の戦いは戦後に出版された本にはほとんど記されていないのだが、当時出版された本などで確認すると、閻錫山が六年を費やして構築した支那軍の陣地で、山から山に坑道が掘りめぐらされていて、空襲や砲撃があると支那兵たちは洞穴から坑道に逃げ込んだという。一方支那軍は日本軍に対し空爆を仕掛け、毎夜のように夜襲を繰り返し、しばしば毒ガスを使用したために日本軍もかなり攻撃に手こずったようである。
そこで日本軍は後続部隊を投入して十一月三日に忻口鎭を完全占領することに成功したのだが、残念ながら向井の前線の記録は十月二十九日までで、その後彼は大同に向かっている。従軍作家は危険な最前線には送られることがないよう配慮されていたと思われる。
宮原武雄 著『泰国風物詩』

次に宮原武雄の『泰国風物詩』という本を紹介したい。著者はネットで検索してもどういう人物かよくわからないが、『国立国会図書館デジタルコレクション』で検索すると、タイ国関連の著書を多数上梓しており、他の著書の肩書には「三井タイ室室長」と書かれている。「三井タイ室」というのは、、昭和十年に三井合名会社内に暹羅室が設置され、昭和十五年に三井合名会社から独立して名称をタイ室東京事務局と改称したものである。上の画像は「三井タイ室」が刊行したタイの研究書の刊行物のうち非売品のリストだが、昭和二年に設立された「日本タイ協会」よりもはるかに出版数が多く、戦前戦中期の三井財閥のタイ国研究はかなりレベルが高いものであったことが推察される。ちなみに現在の「日本タイ協会」は昭和四十二年に「日本タイ協会」「三井タイ室」が合併したもので、主要な役員には三井グループ企業の出身者が占めている。

第二次世界大戦でタイは枢軸国として日本と共に戦い、マレー作戦、ビルマの戦いでは日本軍に協力して現地軍の進軍を援け、兵站、補給などの役割を果たしている。しかしながら連合国とも連絡をとり、タイは一九四〇年以降獲得した領地を変換することで英米と講和し、降伏や占領を免れた経緯にある。
『泰国風物詩』には、タイの気候や国民性、歴史など、興味深い話が満載なのだが、当時バンコクに多数居住していた華僑(異国に移住した支那人)にタイ人が苦労した話は、今後のわが国にも少し参考になりそうなので少し長めに紹介致したい。
タイの国民は元来天恵豊穣の天地に生まれた関係上、生活は極めて安楽なので怠惰癖が強く、勤勉生活を厭う念が高く、加うるに宗教国として誰でも僧侶になれば民衆が捧げる托鉢で一生過ごせるという環境にあるので、全く働く気持ちにならないのである。従ってかかる天地にこそ、本国で絶えざる天災や内乱で苦しんでいる支那人にとっては、願ってもない楽土なのである。
さればこそ、彼等は僅かな船賃によって豚の如く甲板に詰め込まれ、裸一貫でタイに渡来してきたのである。そしてあるいは店員に、あるいは苦力となって、絶えざる努力と忍耐と才能とで、苦闘十数年、漸く今日の地歩を獲ち得たのである。殊に生活力の旺盛な華僑は進んでタイ人と結婚している。タイの習慣として、女の親はその娘の嫁入りの費用として、必ず財産を息子と同様二分して与えてあるので、華僑はこれを目当てに結婚する。
こういう状態でバンコクには支那系タイ人が多く、そして支那語もタイ語も話せる混血華僑すなわち「ルッチン」が相当数いる。現在タイに在留する華僑の数は約三百万と称せられ、全人口の五分の一を占めている。したがってその地歩たるや動かし得ないものがあり、ありとあらゆる職業にわたり、都市はおろか奥地に至るまで散在している。そして恐ろしい程非経済的なタイ人は、すべての経済的活動を華僑に奪われている。例えば地方における農民は、米の植付期に種籾さえ買えず、漸く華僑より種籾を借り入れ、米の収穫期には無法外な高利を付して彼らに支払うのである。そして残った籾もまた仲買人たる華僑によって二束三文に買い集められ、バンコクにある華僑の精米業者に送られるのである。タイの諺に精米所の吐く煙は、骨身を焼く煙だと言われているが、その上日用雑貨から質屋まで華僑が経営し、農民はその様々な方法で搾取せられ、一生かかってもうだつの上がらない惨めな奴隷的生活におかれている。誠に華僑はタイの無言の支配者である。
それでも今から約二十年前までは、これら華僑は平和な外来者として歓迎せられ、タイ政府は自国人と同じような待遇を与え、自由な活動と開拓舞台とを無制限に許して来たのである。
その後孫文の渡タイによってなされた華僑の革命運動に対する援助と武漢革命の成功とは、ひいては祖国意識を著しく昂揚させ、支那人が製造しているマッチのレッテルにさえ「忽忘祖国」等銘記したり、国民党支部の開設や三民主義の宣伝は、従来無風地帯であったタイ国にようやく政治的な低気圧を生ぜしめる惧れを感ぜしめたのである。そこでタイとしてかくのごとく勢力を増大しつつある華僑の動きに対し、このまま放置する時には、自国内に有力なる他の一国が発生する虞れありと見て、その防衛策として移民法を次の如く改正したのである。タイ政府は、一九三〇年迄は入国税十五銖(一銖は百五十銭)であったものを、今では一躍二百銖にまで引き上げている。之によって華僑が甲板客として汕頭あたりから来るだけでも十五銖の運賃がかかる上二百銖の入国税を払っては到底タイに渡ることは出来ず、一時グッと減ったので、タイ政府はこれで一安心と考えていたところ、間もなくこれら移民の供給地に移民ブローカーという珍妙な商売が生まれ、女房か娘を抵当に月賦償還の方法で渡タイ資金を貸したため、再び華僑が渡来し始め、折角考えたタイ政府の名案も効果なくなったので、今度は矛先を換え、華僑の学校に一日四時間以上のタイ語を教授すべしと規定を設け、更に移民流入の防止策に出たのである。そして一方に於いて国民党支部を圧迫し、先年孫文の慰霊祭が行われた時、警官が式場に臨検して解散を命じたり、飾付てあった孫文の写真を撤去させてしまった事件もある。
殊に支那事変以来重慶政府はこの機会に華僑内における民族意識を昂揚し、ひいては自己の政治資金の献納をを充実せしめんと企画し、華僑に対し絶えず日本に不利なる抗日デマを盛んに宣伝し、更に多数のテロ団を送った。そして親日的華僑に対するテロ行為が続出した結果、タイ政府はこれによって日本との政治的紛争を恐れると共に、この機会に華僑の勢力を駆逐せんと考えたのである。
そこでまづ第一着手として、昨夏これら排日の根源地たる華僑経営の中華日報を始めとし、抗日漢字新聞九紙の閉鎖を断行し、残る一社に対しては排日的文字が一語でもある場合は、容赦なく発禁を命ずるとの条件を付したのであった。
ついで華僑の二大銀行たる廣東及び華僑の両銀行に対し弾圧の手を下し、同行総裁の王泰義、副総裁の孫清喜を検挙し、また国民党支部を襲い梁偉成その他を検挙、更に約三十校にわたる抗日学校の一斉閉鎖を行ったのである。政府はまたこの機会にバンコクの街を支那的性格から一変させるために、漢字看板の一掃を考え、漢字使用の看板には大きさ五百平方㎝毎に一銖の税金を課したため、華僑は恐慌を来たし、ほとんど全部が看板を下ろし、あるいは塗りなおすなどの悲喜劇を起こしている。…
宮原武雄 著『泰国風物詩 (新東亜風土記叢書 ; 第1)』岡倉書房 昭和15年刊 p.74~79
その後タイ国は支那系の国防軍将校を罷免し、軍人の支那名を厳禁し、支那系官吏や教員を放逐し、さらに華僑化稼いだ資金を母国への送金することが大問題となった。
華僑が毎年貿易上で搾取した金の母国送金は国内問題となり、この問題に関係し無任所大臣ルアン・ヴヂット氏はチュラロンコン大学に於いて「タイ国における華僑の存在はユダヤ人以上の悪質である。何故なら欧米におけるユダヤ人はその国で得た利益の若干を割いてその国の文化に寄与しているが、タイにおける華僑はタイ国に何物も残さず、これを悉く本国に送るのみである。この際政府はかかる敵性を持つ華僑を放逐すべきである。これによってタイはとりもなおさず国家財政を安定な差しむる結果となり、華僑の搾取下にある我が国の経済を取り戻すことによって、国民生活の安定を確立するであろう」と述べ、在タイ華僑間に一大センセーションを巻き起こしたのであった。
華僑の有力者は一斉に華僑はタイの経済に貢献して来たと反論したのだが、タイ政府は次に華僑の有力者を大量検挙し始めたのである。支那にとってはタイ国華僑の興廃は重慶政府の死活問題になるので、蒋介石がビブン首相に親書を送って在留華僑の生命財産の保護を懇願し、ビブン首相がラジオで在タイ華僑に対し、「善良なる中国人にとっては従来と変わらない」と宣言することにより華僑との紛争は一旦は収束したという。
今日のタイではタイ人と華僑との混血が進み、中国系企業のタイ進出が進んでタイ経済と中国企業とのつながりはさらに強まり、華僑の人口が大幅に増加しているのだが、華僑がタイ経済にどのような問題を起こして来たか、現在ではどのような状況にあるかについてわが国のマスコミが伝えることは殆んどないといって良い。
今日のわが国では、「人材確保」を理由に外国人の受入れ拡大を推進し、所定の要件を満たす外国人労働者を家族帯同で事実上無期限に受け入れており、引き続き五年以上日本に居住しているなど所定の要件を満たす外国人には帰化申請が可能となっているが、このような政策が続いた場合に将来どのような問題が起こりうるかについてどれだけ検討がなされたのであろうか。移民を推進してきた先進国で現在どのようなことが起こっているか、世界の過去の歴史を紐解いてどのような問題が起こったかについて、政治家や官僚や財界の首脳にもっと勉強して頂きたいと思う。彼らが何も勉強せず、方針を変える気がないのなら、選挙で移民推進派を落選させるしかない。このままではわが国は、国を守るために戦前のタイ国以上に厳しい対応を余儀なくされることになるだろう。
GHQが焚書処分した「風土記」「風物誌」リスト
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルに「風土(記)」あるいは「風物誌(詩)」を含む本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
従軍風土記 | 寒川光太郎 | 興亜日本社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1130852 | 昭和18 | 海軍報道班員選書 |
新生蒙古の首都 張家口風土記 | 谷 健次 | 秀文閣書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1685949 | 昭和14 | |
泰国風物詩 | 宮原武雄 | 岡倉書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1272924 | 昭和17 | 新東亜風土記叢書 1 |
中支風土記 | 高井良二 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1877182 | 昭和15 | |
南洋風物誌 | 鈴木經勳 | 日本講演協會 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1900040 | 昭和19 | |
南洋風土記 : 在南二年の体験記録 | 岡田浩治 | 南光書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044074 | 昭和17 | |
北支風土記 | 向井潤吉 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1257801 | 昭和14 | |
満州風土 | 田口 稔 | 中央公論社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1877769 | 昭和17 | 東亜新書 |
満州風物誌 | 春山行夫 | 生活社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1043949 | 昭和16 | |
蘭印風物誌 | 小津さちを | 刀江書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1048654 | 昭和15 |
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