なぜ明治四年に徳島県は名東県と名称が変わったのか
明治二年(1869年)の版籍奉還で藩主であった蜂須賀茂韶(もちあき)は、それまで支配していた阿波・淡路の版籍を朝廷に返還し、改めて徳島藩の藩知事に任命されている。
ところが、その後実施された禄制改革で、これまで蜂須賀家より大名並みの特別待遇を代々受けて来た洲本城代の稲田邦植らが卒族と扱われることとなり、収入が激減することに稲田家臣団が納得できず、徳島藩から独立しようとしたことは前回の歴史ノートの記事で書いたとおりで、このような稲田家の動きに激怒した徳島藩の一部過激武士らが、明治三年に稲田家と家臣らの屋敷を襲撃する事件(庚午事変)が起きている。
明治四年(1871年)七月の廃藩置県で全国の藩が廃されて県が置かれ、藩知事は東京に住まわせて、府県の統治は政府から任命された府知事・県令が担うこととなった。この時に徳島藩も徳島県となったのだが、同年十一月に、徳島県は名東県(みょうどうけん)と名称が変更されている。
この事情について、『徳島市史 第2巻 行政編・財政編』にはこう解説されている。
徳島県は廃止となり、新たに名東県がおかれた。この措置には、多分に賞罰的な意味があった。忠勤藩と朝敵藩・曖昧(あいまい)藩とを区別するため、忠勤藩つまり王政復古のとき、勲功のあった大藩地方の県名には、藩名をそのまま用いることをゆるし、朝廷に反抗した朝敵藩や、帰順の意思表明がおくれ、日和見的ではっきりした態度を示さなかったので、曖昧藩とよばれた地方の県名には、藩名を用いることを許さなかった。それまで藩名をつかっていたそれらの県は、その国内の郡名か、あるいは、山名、川名などに改めさせられた。
(徳島市市史編纂室 編『徳島市史 第2巻 行政編・財政編』徳島市 p.55~56)
前回の記事に書いたが、徳島藩最後の藩主・蜂須賀茂韶(もちあき)の父・斉裕(なりひろ)は、徳川十一代将軍家斉の子であり、蜂須賀家としてはギリギリまで幕府を支援せざるを得なかった。一方、洲本城主の稲田邦植は早々と新政府に帰順し、出兵して維新に貢献したのである。ところが庚午事変が起きて、新政府は旧徳島藩と蜂須賀家との抗争を鎮静化させるために両家を切り離し、洲本を含む津名郡(稲田氏知行地)を翌明治四年(1871年)五月に兵庫県に編入し、稲田家に北海道開拓を命じ移住させて事態を鎮静化させようとした。稲田家を切り離してしまえば、旧徳島藩は曖昧藩と評価するしかなく、名東県という名前に変えることになったと理解すれば良いのだろうか。ところで「名東」というのは、県庁がおかれた徳島が所属していた郡の名前である。
名東県が廃止されて高知県に併合された時代
徳島県が名東県になったときに讃岐の高松県と丸亀県も統合され香川県となったのだが、この香川県は明治六年(1873年)二月二十日に名東県に併合されている。前掲書によると、「当時名東県には県令が置かれておらず、香川県権令の林茂平が、名東県権令となった。こうして、讃岐国は、明治八年九月五日、香川県が再置される迄、およそ三年間、名東県に所属した。」(同上書 p.57)とある。
しかしながら政府は明治九年(1876年)四月十八日と八月二十一日の二度にわたって、さらに大規模な統廃合を実施し、全国の府県数は三府七十二県から三府三十五県となった。この時に四国は大胆に統合され、高知県と愛媛県の二県となっている。
この八月二十一日の統合で、名東県は廃止され、阿波国は高知県へ、淡路国はすべて兵庫県へ併合されてしまった。この措置によって、阿波国人の受けた不利益は、言語に絶するものがあった。
この事情を当時の新聞は「名東県を廃し、高知県都兵庫県へ合併するという布達は、八月二十八日に到着した。県庁の正門には『元名東県庁』と書いた札がかかり、玄関には『名東県庁廃せられ候につき、事務処分致さず候こと』という張り紙が出た。」色々の願いや伺いは言うまでもなく、届書にいたるまで、一切受け取らないので、事務は停滞した。また、営業許可を申請しても、鑑札の下付がないので、開業できない状態であった。定期的に提出する文書の提出先もわからず、たずねても、まだ、その協議ができていないので、わからないという返事。この様に合併後、半ヶ月余りの間の、県民の迷惑は、言いようのないほど大きかった」と報じている。
徳島に高知県支庁が開設されたのは、合併後一か月半も過ぎた十月六日のことであった。初代支庁長に宮崎鉄幹が就任した。明治十一年十月二十五日、徳島支庁は出張所に格下げせられた。ただでさえ、高知県合併を快しとしなかった阿波国人の不満は、また一段とたかまった。
(同上書 p.57~58)
阿波国の人々が不満を持つことは当然である。そもそも人口では土佐国よりも阿波国の方がかなり多かった。明治十二年(1879年)に高知県令渡辺国武は第一回高知県議会を解説するために二月中に議員選挙を行うことを布達しているが、議員数は管内各郡の人口に応じて決定され、土佐国二十七名、阿波国三十一名の議員が誕生したのだが、合併された阿波の議員の方が多かった点に注目したい。県会ではそれぞれの地域の優先度合いの考えが異なることから、議事の運営は困難を極めた。
土佐側は峻嶮で悪路の土佐街道(今の国道三十二号線)の改修を計画し、またその経費負担を両国均等にすることを提案した。阿波側は土佐街道の改修によって、大きい便益を受けるのは土佐側であり、阿波側にはほとんど恩恵はない。それにもかかわらず、費用の均分負担は、土佐側の横暴であると反対する。これに対し、阿土といっても、今は一県である。県の方針に従わないのは、県民のつとめを怠るものだと反論する。土佐側議員が弁論でのぞめば、阿波側議員は議員数で応じる。
(同上書 p.58)
このような対立抗争が激しかったことは高知県議会のHPに出ている歴代議長のリストを確認するとある程度想像がつく。初代議長の片岡健吉は土佐の出身者で、第一回の県会が開かれた十月三十日に就任している。ところが一か月も経たないうちに辞任して、十一月二十八日に阿波の出身者の磯部為吉が議長に就任している。
第一回県会では選挙法改正の建議で紛糾し、収支予算案と民税徴収案を可決してようやく十二月二十七日に閉会したのだが、阿波の分県の話が急速に進展していくことになるのである。
徳島県の再設置と淡路島の所属
第一回県会が紛糾している最中の十二月に、高知県令北垣国道が内務卿伊藤博文宛てに「徳島に支庁を置くの議伺書」を提出している。その要旨が同上書のp.59に掲載されている。
本県(高知県)は、阿波・土佐の二国を管轄しているが、その姿勢上の不便は、枚挙にいとまがない。
地形上からみても、両国の境には高山が連なり、車馬も通じない。(略)人情風俗をみても、阿波は通商によって富み、利をみることにもさとい。これにくらべて、土佐は鎖国の余習が残り、民智も頑固で、商業は開けていない。このように二国の慣習は異なり、利害が相反している。これが施政の不便の原因となっている。(略)
県会を開設して、いよいよその利害を共にすることができないことがわかった。(略)
そこで、地形・人情・慣習などから最も適した対策は阿土二国を分割し、阿波と讃岐、土佐と伊予とをそれぞれ合わせるより、ほかない。しかし、地方の分合改置は、容易なことではないので。それはさておき、まず阿波国徳島に、高知県支庁を設けていただきたい。そこに奏任官一人をおいて、通常の事務を委任し、地方税の支出を分離し、会議も両国に分けると、やや施政の便も得られ、両国人民の不幸は免かるであろう。
(同上書 p.59、原文 p.485~486)
しかしこれを読んだ伊藤博文は、十二月二十五日に太政大臣三条実美に次のように上申した。
高知県令から管内の徳島に、支庁を設置したい旨の伺い出があった。思うに阿土二国は、古来から地形が相へだたることも大きく、そのため風俗人情もまた、大きい差違がある。これを一県の統治下に統御することは、実際上、困難であることは、県令の述べているとおりである。
しかしながら、支庁を設けて処務を分離すると、一県とは名目だけとなり、その実は二県を置くのと異なることはない。しばしば県の分合廃置を行うことは、好ましいことではないが、もう一度、阿波を分離し、これに淡路を合わして、一県を設けたい。」(同上書 p.59、原文 p.486)
伊藤が、淡路島を合わせて徳島県とする上申を書いたのは、そもそも藩政時代から阿波と淡路は一体であり、たまたま庚午事変を機に淡路が兵庫県に編入されたが、その事件処理も終わったので、本来の姿に戻して良いと考えたのであろう。伊藤の上申はそのまま審議されて、高知県を分割し新たに徳島県を設けることが決定し、裁可の後布告する直前まで進んだのだが、徳島県に淡路国を入れることに反対する淡路島の陳情書が届いて、伊藤の考えが変わるのである。淡路国三原郡人民総代藤江章夫と津名・三原郡長加集寅次郎の連名による陳情書の要約が、同上書にでている。
1 淡路の物産(米・薪炭・魚類・木綿糸)は多く大阪・兵庫に輸出し、輸入品も大阪・兵庫から仰いでいる。
2 阿波へは輸出する物はなく、また生活必需品で阿波から輸入するものは、何一つない。
3 阿波との交通は、鳴門海峡があって、一か月平均十日くらいは、渡海できないことがある。
4 兵庫とは交通が便利なので、人の往来が多く、人情・言語なども相通ずるものがある。
5 明治九年八月以来、兵庫県に所属していたので、この間に兵庫とのつながりは、一そう深まり、淡路の有志が洲本と兵庫大阪の定期航路を企画したり、家禄を失った旧士族が、神戸に活版会社の設立を計画するなど、生計の道を兵庫に求めている者が多い。
(同上書 p.60、原文p.487)
この陳情書は明治十三年(1880年)二月八日付で兵庫県少書記官・原保太郎に提出されたもので、すぐに内務卿伊藤博文に上申されてきたのだが、伊藤はこの陳情書を読んで先に議定していた徳島県設置布告案を修正すべきことを決意し、太政大臣三条実美に上申してその了解を得、阿波一国だけを分離して徳島県とし、淡路島は兵庫県のままとする内容に修正している。二月二十四日に修正案が元老院で可決され、三月二日に徳島県を再置し、阿波一国を管轄することが布告されたのである。
他の分県の事例では「〇〇県の父」と呼ばれる人物が存在するのだが、徳島県には「父」と呼ばれている人物が存在しないのか、ネットで検索しても見当たらなかった。第一回の高知県議会で議事が紛糾したことが徳島県再置の流れを作ったようなのだが、そもそも経済交流の乏しい地域同士を同じ県にしたこと自体に無理があることに、旧土佐藩の人々も政府の重鎮も納得したということではなかったか。
徳島県は明治九年(1876年)の第二次府県統合の後で再置を果たした全国で最初の事例なのだが、伊藤博文の手腕により短期間で決着がつけられたのはラッキーであった。
一方、全国で最も再置が遅れたのも四国のことであり、香川県が明治二十一年(1888年)にようやく愛媛県から独立を果たしている。中野武営という人物が尽力したようなのだが、ネット公開されている書籍やサイトで、香川県再設置に至る経緯が記された詳しい記録や史料がみあたらなかった。今後良い資料が発見出来たら、チャレンジすることと致したい。
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