神祇官再興と神仏分離令
このブログで鳥羽伏見の戦いののち三件の外国人殺傷事件が相次いで起こり、最後のパークス襲撃事件が解決したすぐあとの慶応四年三月十四日(1868/4/6)に五箇条の御誓文が発布されたことを書いたが、実はその前日である三月十三日に王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官再興が布告されている。そして、三月十七日には神祇事務局から全国の神社に宛ててこのような命令が出ている。
今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当(べっとう:社寺を統括する僧職)或ハ社僧抔(など)ト相唱ヘ候輩(やから)ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
(神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応四年三月十七日)
それまでは、大半の神社において神仏習合が行われ、神と仏は同列に祀られ、神殿と仏堂とは同居し、神殿に仏像などが存置され、僧侶が神に奉仕して、神前で読経があたりまえのように行われていたのであるが、いきなり神社における僧侶の復飾(ふくしょく:俗人となること)が命じられたのである。それだけではない、三月二十八日には「神仏判然令」と呼ばれる神祇事務局達が出されている。
一、中古以来、某権現(ごんげん)或ハ牛頭(ごず)天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事
(神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日)
「権現」というのは仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号で、「牛頭天王」というのは、祇王精舎の守護神とも薬師如来の化身とも呼ばれ、祇園社(現在の八坂神社)の祭神だが、このように仏教の用語で名付けられた神号を祀る神社は、それぞれの神社の由緒の詳細を調べて書面にて提出すること。また、仏像を御神体としている神社や、御祭神が仏の姿で現れたとして仏像を社前に掛けたり、鰐口、梵鐘などの仏具を用いている神社は、それらを取り除けと命じたのである。
新政府が登用した神祇官のメンバーは、排仏家の国学者、儒者の集まりであった
このように矢継ぎ早に発せられた神仏混交禁止、別当・社僧の還俗の通達は、神社における神官と僧侶との抗争を各地で激化させることとなったのだが、神仏分離については新政府の基本方針である五箇条の御誓文には書かれておらず、新政府が三月十五日に民衆に対して最初に出した五榜の掲示にも記されていない。しかも、旧幕府勢力との内戦はまだまだ続いていたのだが、こんな時期に神仏分離を発令した神祇官とはどのような組織であったのだろうか。
羽根田文明著『仏教遭難史論』にはこう記されている。
幕府時代には、白川家が神祇伯、吉田家が神祇大副、藤波家が伊勢祭主の職を、各三家が世襲して、神祇に関する事務を取り扱っていた。しかるに王政維新の際、すべて世襲の官職を廃し、職員は人材登用となり、先ず最初に古制に則り神祇官の設置となった。この神祇官は古例のごとく、太政官各位の上位にある独立の官衙である。慶応四年すなわち明治元年二月、神祇官最初の総督は白川三位、大輔が亀井茲監(かめい これみ:前に排仏主義を実行せる、津和野藩主)その他、正権判事も、みな排仏家の国学者、儒者であったから、神祇官は、あたかも排仏者の集合団体の如くであった。
さて、日吉山王権現の社司、樹下(じゅげ)、生源寺二家は、伝教大師以来親近の者であったゆえに、一山より扶持を給して家来の様にしてあったから、権現について何等の勢力もなく、法親王、座主宮に面謁することさえ憚る卑官であった。その樹下石見守茂国という人、年来、社僧の下風に立ち、下役に使われるのを憤慨していたが、なにぶん当時比叡山延暦寺は寺領五千石の領主にて、三執行代という政務所あって領内人民を支配し、地頭の権威を以て山王の全権を握っているから、如何ともすること能わず涙を呑み、窃に時機の至るのを待っていた。
(羽根田文明著『仏教遭難史論』国光社出版部 大正14年刊p.114~115)
排仏家の国学者、儒者の集まりである神祇事務局が神仏分離令を発したのだが、そのメンバーの中に日吉山王権現の社司であった樹下茂国がいた。彼は、延暦寺が日吉山王権現の全権を握り神官が軽んじられていることに憤慨していたのである。
日吉大社の歴史と神仏分離令発令後最初の廃仏毀釈
滋賀県大津市にある日吉大社は、かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれ、比叡山の地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀るために崇神天皇七年に創祀されたものとも伝えられている。
平安遷都後この神社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになったが、延暦寺の勢力が増してくると、やがて日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は唐の天台宗の本山である天台山国清寺の守護神・山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)にならって山王権現と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていくようになった。日吉社は次第に延暦寺と一体化していき、平安時代中頃には八王子山の奥に神宮寺が建てられ、日吉社の参道に延暦寺の里坊が並ぶようになっていったという。
元亀二年(1571年)の織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉社も焼かれて灰燼に帰してしまったが、その後豊臣秀吉や徳川家康が復興に尽力したという。建物の大半は安土桃山時代の建築で、西本宮本殿、東本宮本殿が国宝に指定され、他の建造物の大半が国の重要文化財に指定されている。
日吉社と延暦寺とは昔から仲が悪く、延宝九年(1681年)には日吉社が神仏習合や山王神道を改めようと延暦寺と争ったが論争に敗れ、逆に山王神道を守ることを延暦寺から厳命された歴史がある。
樹下茂国は日吉社で千年以上続く神官の家に生まれ、神仏分離が行われる日を待っていたかの如く、仏像仏具などの徹底的な破壊行為を行ったのである。再び『仏教遭難史論』を引用する。
ここに、天運循環して王政維新の春を迎え、神祇官の再興となり、樹下茂国は神祇官権判事に登用せられた。時に神仏混淆禁止の朝令が発せられ、三月二十八日には、仏像を以て神体とする神社は以来相改め申すべき旨布告せられ、同時に大津裁判所(滋賀県の前身)より、山王社も相改め申すべしと、社司へ達せられた。
ここにおいて茂国は、時こそ至れ、今ぞ年来の宿憤を晴らすべき時節到来せりと雀躍りして立った。さて山王権現とは、大宮、二宮、聖眞子、十禅師、八王子、客人子、三宮の七社を併称して言うのである。そして七社とも、いずれも天台の一實神道で祭られ、みな仏式に依られている。ゆえに、仏像または僧形の木造の神体にしたものがあり、かつ七社とも、社前に鰐口がある社殿に仏影の扁額あって、経巻および仏器、法用具等が、神殿の内外に多くおいてあった。
時は四月朔日(ついたち)、社司樹下茂国、および生源寺等の社司より、延暦寺三執行代に通知して神殿の鍵の引渡しを申し込んだ。執行代は、これを一山の大衆に通知したによりて、衆徒の大会議となったが、衆議沸騰して、たちまち一山の騒動となり、あまつさえ殺気を帯びるに至った。ゆえに委細を座主法親王宮に言上して、指図を仰ぐ事となり、双方ともに問答往復して、容易に解決するに至らなかった。
ここに社司方は、もはや猶予するに及ばず。武力を以て実行に着手せんとて、樹下茂国、生源寺社司、ならびに部下の祝部に同志の壮士、三四十名に槍、棒等の兵器を携えさせ、これに坂本村の人夫数十名を加えて一隊となり、山王権現の神域内に乱入し、神殿に昇り、神扉の錠を捻じあけて殿内に入り、神体なる仏像・僧像はもちろん、経巻、法器等、いやしくも仏に係る物品は悉く取り除きて、之を階下に投げ出した。
七社ともこのごとくであるから、その取り除いた仏物は数多あったが、これを二宮社(現在の東本宮)前に積み上げ、あまつさえ土足で蹴り、或は槍の石突もて突き砕きなど、種々の乱暴狼藉の上、ついに火を放ちて一時に焼き捨てたが、その中には千年以来の法宝、珍器もあって、今より見れば貴重なる国宝となり、世界に誇るべき古美術、逸品もあったであろうに、何の容赦もなく、悉く灰燼に委してしまったのは、実に惜しいことであった。
時に山僧の談に二宮社殿内にあった、紺神金泥の法華経は、八巻で余程の重みのあるほどに金泥の多く用いてあった経巻であったという。当時社司樹下茂国は弓矢を取り、仏像の面部を的に之を射貫き、大いに快哉を叫んだということである。
(同上書 p.115~117)
神祇官から出された神仏判然令には、神社から仏像や仏具などを「取り除け」という命令であり、「破壊せよ」とはどこにも書かれていない。しかしながら実際には、仏像や仏具などが徹底的に破壊されたのである『神仏分離史料 第一巻』のp.686~700に、破壊されたものの明細が記録されているが最後に「神体仏像数千経巻法器等灰燼 結数百二十四品 金具之類社司等取奪通計四十八品」とまとめられている。現在日吉大社の建物の二棟が国宝に指定され二十棟が国の重要文化財に指定されていることや、桃山時代から江戸時代にかけて作られた七基の神輿も国の重要文化財であることを考えると、樹下らが破壊した仏像や経典、仏画、文書類には、貴重なものがかなりあったに違いないのだ。
破壊を戒める太政官布告と神仏分離に関する追加命令
このひどい破壊行為を主導したのは、神仏分離令を出した神祇官事務局の現役の権判事であったのだが、この廃仏毀釈が、神仏分離令が出て最初に行なわれたものであるという重要な史実が、なぜか歴史の叙述から抹消されてしまっているのだ。
同様な破壊行為が、各地の神社に波及していくことは避けられなかった。新政府は日吉山王権現の暴動から九日目の四月十日に、神職らによる仏教施設等の破壊を戒める太政官布告を出している。
諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早早取除相改可申旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事、
但 勅祭之神社、御震翰、勅額等有之向ハ、伺出候上、御沙汰可有之、其余ノ社ハ、裁判所、鎮台、領主、地頭等ヘ、委細可申出事
(太政官布告 慶応四年四月十日)
簡単に要約すると、神仏分離令が出て神官が急に権威を得たような振る舞いをして、私憤を晴らすような動きがある。これは新しい国造りの妨げとなるので、今後は仏像仏具を取り除く際にはその都度お伺いを立て、粗暴なふるまいはしてはいけないというものである。
王政復古、祭政一致を保つために、神仏分離を推進する新政府の方針は揺るがず、その後も細かい命令がだされている。重要なことは、戊辰戦争で新政府軍と旧幕府軍が戦っているような混乱期に、このような命令が相次いで出されている点にある。『維新史 第五巻』にはこう記されている。
ついで四月二十四日には石清水・宇佐・筥崎等の諸神社において、八幡大菩薩と称していたのを改めて単に八幡大神と称せしめ、閏四月四日には、更に別当・社僧に還俗を命じて神主・社人等の称に改めしめ、之を肯ぜざる者は、その職を解いて神社から退去せしめた。
超えて四月十九日には、政府は、神職はその家族に至るまでその死去に際してはすべ神葬を行うべきことを命じ、十月十八日には、従来日蓮宗の寺院において、三十番神と称して皇祖を始め、諸神祇を配祀していたのを禁止し、かつ寺院に奉斎していた神像を除去せしめたのである。
(維新史料編纂事務局 編『維新史 第五巻』昭和16年刊 p.487)
「三十番神」というのは毎日交代で国家や国民などを守護するとされた三十柱の神々を祈る信仰だが、最初に最澄が比叡山に祀ったのを日蓮宗の日像が布教に取り入れ、同宗において広まっていった。それを明治政府が禁止し、神像を撤去させる命令を出したのである。
仏像仏具を取り除けといっても、移す場所を指定したわけでもなく、取り除かれた仏像などが雨ざらしにされることも少なくなかった。そのためにわが国はこの時期に大量の文化財を失い、その後神社と仏堂との分離を始め、社地と寺域との分離、あるいは社家と社僧との紛争、僧侶や信者の抵抗など様々な問題を各地で惹起することになるのだが、明治維新の歴史においてこのような史実を語ることは、ほとんどタブーにされていることを知るべきである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
コメント
仏教には一部反日的な、反天皇などを掲げる宗派がありますが、その淵源は神仏判然令にある。以前、竹田恒泰先生がそんなことを言っておられました。
江戸時代までは、天皇の即位に仏教のぎ例があったことなども語られませんね。結局、明治政府はキリスト教まで含めて認めるわけですが、いくらか考えるべき点がありそうです。
カノエタツさん、コメントありがとうございます。
反天皇、反日を唱える仏教団体についてはあまり知りませんが、韓国の仏教は反日的だということは聞いたことがあるので、比較的新しい動きだと思っていました。明治維新期にそのルーツがあるという話は興味深いので、竹田恒泰先生がどの著作にそう書かれているか、御教示いただくとありがたいです。
明治以前は京都に都があって天皇家が仏教徒であり、仏教を保護してきたのですが、明治4年9月の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、宮中から仏教色が一掃されました。宮中で反対がなかったのが不思議なのですが、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離が正しいとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかなのでしょう。
10年前に旧ブログでこんな記事を書いたことがあります。よかったら覗いてみて下さい。
「明治の皇室と仏教」
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-125.html
竹田先生の以下の動画、一本目の後半(無料)から二本目の動画(有料)にかけて上記のお話をなさっています。
https://sp.ch.nicovideo.jp/search/%E4%BB%8F%E6%95%99?type=video&mode=s&sort=f&order=d&channel_id=ch1254
カノエタツさん、早速情報戴きありがとうございます。
一回分だけ視聴させていただきましたが、それまで神仏習合で一つにまとまっていた神道と仏教が、対立関係に入ったという話は興味深いですね。ここまで聴かせていただいた印象では、反日的な仏教が明治初期の神仏分離令をきっかけに生まれたという話ではなさそうですね。
こんばんは☆
千年以上の神仏習合の歴史と廃止された時の状況がよくわかりました。
地域によっては仏像を地中に埋めて保存したとも聞きますが……。
一方で、神官側に永年にわたってのおん念があったとしても、
千年間にわたって蓄積された文化財を感情的に廃棄したのは残念なことです。
Ounaさん、コメントいただきありがとうございます。
徳川幕府が寺を優遇しすぎたこともあるのですが、幕末から日本近海にロシアやアメリカなどの外国船が現れるようになり、国防の意識の高まりから攘夷思想が広まっていきました。
水戸藩でその思想が体系づけられましたが、いま読んでも結構説得力のあるものです。国防力を高めるために大砲を設置が必要であり、原材料が足らないので、寺の梵鐘も用いることもやむを得ないという話から、次第に仏教は日本本来の宗教ではなく、昔の神道に戻るべきだという思想が加わり、その考え方に凝り固まった役人が各地で寺や仏像などの破壊を行いました。
わが国は明治維新で多くの文化財を失ってしまったのですが、そのことをこれからしばらく書こうと思っています。