パークスの怒り…渡辺清(大村藩士)の談話
前回の「歴史ノート」で、慶応四年三月十五日に江戸城を総攻撃することが決まり、木梨精一郎(長州藩士)が東海道先鋒参謀・西郷隆盛の命を受けて三月十四日に、横浜の英国公使館を訪ねた際にパークス公使を激怒させたことを書いた。
木梨に同行していた大村藩士の渡辺清(清左衛門)がこの日のやり取りについて談話を残しており、『近世日本国民史. 〔第68冊〕』に出ているので紹介したい。木梨は次のような命令を、恐らく西郷から受けている。
木梨が言うには、このたび江戸城を攻撃については、実に不案内の官軍であるから、第一負傷者の手当てに、如何とも詮方ない。それで横浜に参り、英のパークスに逢うて、彼の世話で横浜に病院を造りたいという論で、彼に談じて病院を建てて貰いたい。英の管轄の病院があらば、それを流用して貰いたい。かつまた医師その他一切のことを依頼せよという命を承けて参った。清左衛門も同道してともに横浜に参って談判せいという内命で、すぐ行かなければならぬということである。
(徳富蘇峰『近世日本国民史. 〔第68冊〕』p.313~314)
東征軍が江戸城下で戦うとなると多数の負傷者が出ることが想定されるので、西郷は二人に対し、英公使パークスに会って傷病兵の為に病院の世話を依頼することを命じたのである。薩摩藩からすれば、これまで英国の支援により最新鋭の武器を大量に購入してきた経緯があり、京都で負傷者の治療を要請したこともあるので、今回の戦いの負傷者のための病院の世話ぐらいなら引き受けてくれるだろうと軽く考えていたのかも知れないが、前回の記事でも書いた通り、パークスをはじめ諸外国の代表は、東征軍との不慮の衝突があることを怖れていた。本来ならば、居留地の治安維持は新政府がなすべきであるが、日本の主権者が変わったにもかかわらず新しい政府からは何の連絡も来ていなかったので、東征軍はもしかすると横浜を攻撃することになるかもしれない。諸外国の代表は協議の結果、新しい政権が代表して治安の維持にあたるまでの間、居留地を守るために各国の軍隊を出動させていたのである。
そんな時に、東征軍から傷病兵の世話の話を持ち掛けられてパークスの怒りが大爆発したのである。
パークスは如何にも変な顔つきを致して、これは意外なることを承る。吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は、恭順ということである。恭順している者に、戦争を仕掛けるとは、如何という。
木梨いう、それは貴君の関する所ではない。吾々はどこまでも戦えという命令を受けてきた。ともかく用意してくれといったところが、そんなことは出来ませぬ。いずれの国でも恭順即ち降参という者に向かって戦争せねばならぬということは無いはず。その上いったい今日は誰から命を承けて来られたか。大総督から。それは如何なることか。…いったい今日貴国に政府は無いと思う。
…もし貴国で戦争を開くならば、居留地の人民を統括している領事に、政府の命令が来なければならぬ。それに今日まで何の命令もない。また素より命を発するに際しては、居留地警衛という兵が出なければならぬ。その手続きが出来た以上に、戦争を始むるべき道理。かくありてこそ、始めて其国に政府があるというものである。しかるに、それらの事は一つもしてない。それゆえ、自分は無政府の国と思う。
…またお見掛け通り、居留地に帰国より警衛の兵も出さない。しかるに兵はどんどん繰り込んでくるという話で、何時いかなることあるや判らん。それ故に仕方がないから、我が海軍兵を上陸させて居留地を守らせている。…かような乱暴な国がどこにあるものかと、実に一言もない論でありまして、われわれはそれに対して言うことができなかった。
(同上書 p.315~317)
空気が読めないのか木梨は、「何とか勘弁してくれぬか。われわれの願いであるから、万一怪我人があったならば、此処において療治するだけはしてくれぬか」と言うと、パークスは戸を閉めて出てこなくなった。
江戸城総攻撃は明日の予定なのだが、東征軍の傷病者の手当てはイギリスがきっぱりと拒否したのである。
渡辺は木梨と横浜で別れた後、品川にいる西郷にこのことを報告したのだが、さすがに西郷も、諸外国に対して何の告知もしていなかったことの誤りを認めざるを得ず、渡辺にこう述べたという。
西郷もなるほど悪かったと、パークスの談話を聞きて愕然としておりました。…
暫くして曰く、それは却って幸いであった。このことは自分から言うてやろうか、なるほど善しという内、西郷の顔つきは、そうまで憂いて居らぬようである。…
自分も困却している。かの勝安房が、急に自分に会いたいと言い込んでいる。これは必ず明日の戦争を止めてくれというじゃろう。彼じつに困っている様子である。そこで君の話を聞かせると、全くわが手元に害がある。故にこのパークスの話は秘しておいて、明日の打ちいりを止めねばならぬ。
(同上書 p.319~320)
このように西郷は、始めは愕然としたものの、それほど困った様子でもなく、「パークスの話は秘しておいて、明日の討ち入りを止めなければならぬ」と言ったという。
パークスの怒り…木梨精一郎の記録
パークスとの面談記録は木梨も『維新戦役実歴談』に残している。パークスの発言のうち、渡辺が記載していない重要な部分を紹介したい。
今の政府は徳川にある。王政維新になったと言っても未だ外国公使に通報もなし。私はどこまでも前条約をもって、徳川政府を政府と見ている。なるほど内部を観れば、天子朝廷の命令というものは重きものなれども、条約上において、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬというのは、本国へ報知することが出来ぬ。即ち条約面に依りて、今ここへ兵を多く繰り込めば、自然フランスの一大隊、オランダの二大隊とあるいは衝突を起こすかも知れぬからという。…
今の朝廷から表方ご通知があったなら、私どもの方も、陸へ上げた兵を艦へ乗せ、国に返しもしようが、その命のあらざる間は、砲撃等の事は、暫く見合わせてくれということがあったのです。
それが江戸城攻撃中止という所にあたりはせぬかと思っているのです。
(同上書 p.335)
パークスは、諸外国にとって通商条約の相手方は今も幕府であり、いくら政権が変わったからと言っても正式な手続きがなされないかぎり、条約上においては徳川政府を日本の政府だとみるしかないという当然のことを述べている。新政府が正式な手続きをしない限り新政府は諸外国にとっては条約上では味方ではなく、衝突を起こすこともありうるので、正式な手続きがなされるまで砲撃等は見合わせよとの申し入れがあったのだが、木梨はこのパークスの発言が江戸城攻撃中止に繋がったのではないかと述べているのである。
西郷はパークスが激怒することを見越して、それを利用しようとしたのではないか
ここまでの木梨や渡辺の記録から、このパークスの怒りの言葉が西郷に対する圧力となり、江戸城総攻撃の中止談判に及んだという解釈が成り立つのだが、渡辺が西郷にパークスの件を報告した際に西郷が「それは却って幸いであった」と反応したのはなぜであったのか。もしかすると西郷は、パークスの反応を読んでいたのではないだろうか。
萩原延寿氏の『遠い崖 7』に、渡辺の談話の最後のところに渡辺自身が次のように説明していることを紹介している。
西郷の心持はこうであろうと想像します。西郷も慶喜は恭順であるから全くそう来ようとは、従前から会得しているのである。然るに兵を鈍らしてはならず、また慶喜の恭順も立てねばならぬ。また天下の大体のことに関係する。それ故に兵は何処までも大いに鼓舞して江戸に着して見るところが、想像の通り、恭順のことを勝が持ってきた。そこで明日の戦を止めるということを言うは、勝に対しては易き話である。…我が薩摩の兵およびその他長州はじめ諸藩の兵が勃起して居る。その機会に攻撃を止めるは容易ではないから、種々苦心して居るところに、横浜パークスの一言を清(渡辺)が報じたので、西郷の意中は却って喜んで居るじゃろうと清は想像します。
(萩原延寿 著『遠い崖―-アーネスト・サトウ日記抄 7』朝日文庫 p.37~38)
萩原氏も著書に書いているが、西郷の心の動きは渡辺清が記録している通りではなかったかと思われる。慶喜の恭順姿勢は本物であり、助命することについては大久保や岩倉など新政府の最高指導者の中では合意ができていたという。しかし、いよいよ明日江戸城総攻撃であるといきり立つ東征軍に対し、攻撃中止を説得することは西郷にしても簡単なことではなかったはずである。ところが、江戸城総攻撃についてパークスが激怒したことは西郷にとっては都合が良かったのではなかったか。もしかすると西郷は、パークスが激怒することを見越して、木梨と渡辺をパークスのもとに送った可能性も考えられるのだ。
江戸城総攻撃中止
すでに三月十一日には東山道先鋒参謀の板垣退助(土佐藩)は八王子駅に到着し、十二日には同じく伊地知正治(薩摩藩)が板橋駅に入り、十三日には東山道鎮撫総督・岩倉具定も板橋駅に入って江戸城の包囲網は完成しつつあった。そんな中、三月十四日の夜に西郷は、この日に行われた第二回目の勝との会談で、翌日に予定されていた江戸城総攻撃の中止を約束している。
この会談で勝が提示した主要な降伏条件に対する回答は
1.徳川慶喜は水戸で謹慎する
2.慶喜に味方した大名らは寛大な処分を行い、命に関わる処分者を出さない
3.武器・軍艦はまとめておき、2.の処分が下された後差し渡す
4.江戸城を明け渡しの手続きを終えたのちは田安家に返却を願う
というもので、この回答は九日に西郷が山岡鉄舟に提示した条件をかなり骨抜きにしたものであったが、西郷はこの条件を受け入れて、全軍に江戸城総攻撃の中止命令を出している。すると板垣退助が駆けつけてきたという。この時の西郷と板垣とのやりとりについて、渡辺はこう記録している。
退助が真先に西郷の所に参っていうに、何をもって明日の攻撃を止めたか。勝が罷りでるということはひそかに聞いたが、彼がいうたとて止めるというはどういうことであるかと、如何にも激烈の論をいたしました。西郷の言うに、ここに一つ吾に欠点がある。それはこの席にある渡辺が横浜へ参り、斯様斯様である。どうもこれに対しては仕方がない。そこで板垣もなるほど仕方がない、それなら異存を言うこともない。それでは明日の攻撃はやめましょう。実は明日やらなければならんと思うて参ったというて、板垣は帰りました。
(同上書 p.51~52)
このように、板垣退助は、パークスが激怒した経緯を聞いて、あっけなく引き下がったのである。もし西郷が勝と議論した結果として江戸城総攻撃を取りやめたのなら、板垣はこんなに簡単に納得するはずがない。それほどパークスの発言の効果は絶大であったのである。
西郷隆盛と勝海舟の談判によって江戸城の無血開城が決定し、当時人口100万人を超えていた世界最大級の都市であった江戸が、戦火に巻き込まれることから救われたことは間違いがない。二人とも立派な人物であったことは私も同意するところなのだが、江戸城無血開城については、西郷隆盛と勝海舟の二人の英雄の大英断によって成し遂げられたように描かれることがほとんどだ。実際は、西郷は勝と談判を始める前から江戸城総攻撃を中止する肚を固めていたことを知るべきだと思う。
勝が西郷に提示した降伏条件についての回答は当初西郷が山岡鉄舟にぶつけた条件よりもかなり甘い内容で、西郷はそのまま持ち帰ったが三月二十日の朝議でかなり問題にされている。江戸城を田安家に返す案は却下され、会津藩・桑名藩に対しては問罪の軍兵を派遣し、降伏すればいいが、抗戦した場合は討伐することが決定されている。この決定がのちの会津戦争につながることになる。また、徳川家処分に不満を持つ抗戦派は江戸近辺の各地で挙兵し、海軍副総裁の榎本武揚は抗戦派の旧幕臣らとともに旧幕府艦隊七隻を率いて四月十一日に品川沖から出港した。戊辰戦争はまだまだ続くのである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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