前回の「歴史ノート」で大倉喜八郎は江戸幕府の動きや黒船を観て、これからわが国で内乱が起きることを直感し、乾物商をやめて武器商に鞍替えして大稼ぎしたことを書いたが、戊辰戦争が終わると喜八郎は、これからしばらくわが国で戦争が起こることはなく、このまま鉄砲店を続けても駄目だと考えたという。そしてこれからは、外国との貿易が盛んになるとともに、わが国で洋服が必要になると考えて、日本橋本町に洋服裁縫店を開き、横浜に内外貿易店を開いている。
欧米視察旅行とその目的
喜八郎が偉いのは、事業を起こすために私費で欧米視察旅行に出かけている点である。その頃は多くの日本人がヨーロッパに来ていたのだが、商人が自費で視察に来ていたのは彼くらいで、たまたまイギリスで岩倉使節団の木戸孝允、大久保利通に声を掛けられ、その旅行の目的を尋ねられている。

その時の彼の回答が、自伝の『努力』に出ている。
どうしても日本の将来は、衣食住までも西洋風に押し移ってくるに違いないと思います。それには衣類の部で毛織物を日本で製造するようにしなくてはならない。第一兵隊の如きも今迄のように筒袖股引ではいけないから、是非とも洋服にしなくてはならぬ。また民間にも需要が増して来れば、羅紗は益々必用となる。私はこのために英国でマンチェスター、リバップール、グラスゴーなどの羅紗工場を視察しましたが、皆大規模で何百万円という資金を投じている。その中ごく小さい工場でも五十万円以上の資金を卸してそれはなかなか盛んなものです。
とても私は今すぐ着手することはむずかしいから、せめては毛布を製造する機械なりとも、日本へ持ち帰りたいものと考えて、ただ今それを取り調べて居ります。しかし之を製造するにはその原料の羊毛がなくてはならぬ。羊を日本に飼養せねばならぬということについて、私も実は大いに困却しているところです。
大倉喜八郎『努力』実業之日本社 大正5年刊 p.76~77
岩倉使節団は各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていたが、重要な役割の一つとして欧米先進国の文物視察と調査によりわが国に新しい産業を生み育て、近代国家としての諸制度を整えるための情報収集があった。使節団は公費で来ているにもかかわらず、喜八郎が日本で事業を興すために自費で視察旅行していることに木戸も大久保も感心した。
大久保等との協議の結果、羅紗工場については事業リスクが高いため、政府が官営工場をまず設立し、それを軌道に乗せてから民間に払い下げすることとなったのだが、その後伊藤博文や岩倉具視との知遇も得て、以降の彼の事業に大きな影響を与えることになる。
喜八郎は帰国した後、明治六年(1873年)に日本人による初の貿易商社である大倉組商会を東京銀座二丁目に設立し、翌年には日本企業として初めての海外支店をロンドンに開設して直貿易に乗り出している。
台湾出兵・西南戦争の頃
また明治七年(1874年)十月に宮古島の島民五十四人が台風による暴風で台湾に漂着し五十四名が殺害される事件が発生し、清国政府が「台湾人は化外の民で清国政府の責任範囲ではない」としたために、明治政府は台湾征討軍を派遣することを決定した。しかしながら、敵地への輜重兵站輸送はリスクが高いとして大手企業が断ったために、大倉組に協力の打診が来て、喜八郎はそれを引き受けている。
また明治十年(1877年)の西南の役の頃に朝鮮半島が大飢饉となり、大久保利通からの要請で、彼が朝鮮支援の為の米穀輸送を任されたのはいいが、届けたのち一週間ほど残務処理のために朝鮮に残っていると、いつの間にか帰る船がなくなっていた。当時は大きな船のほとんどが西南の役に使われて、この乱が終わるまではまともな船が朝鮮に来る気配がなく、そもそも朝鮮にはいい船がない。
しかたなく喜八郎は「長さが四間半、幅が一間半位」のイカ釣り船に乗って博多に向かおうとしたのだが、深夜に暴風雨となり、七八時間もの間船は荒波に大揺れしながら、翌朝運よく対馬に辿り着いたという。

彼の自伝である『努力』にはこのような苦労話が満載で、興味のある方は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているのを読んで頂ければと思う。
このように喜八郎は、事業リスクが高くて他社がとても手を出さないような仕事に何度もチャレンジし、何度も危険に遭遇してはそれを乗り越えてきた。この時代を振り返って、彼は『致富の鍵』でこう感想を述べている。
私の青年時代より壮年時代にかけての奮闘は苦しいとか辛いとかの沙汰どころではない。総てが全く命がけであった。
渡り来しうき世の橋のあと見れば
いのちにかけてあやうかりけりこれが私の懐旧の述懐であるが、実に今日は活きているけれども明日の事はどうなるか測られないという急場ばかりを潜って来たものだ。世には随分不意の危難に接して周章へ慌てたがために殺されなくもいい場合に殺されたり、或いは種々の困難に辛抱し切れずして中途で倒れるものが幾らもあるが、私は常に平常に覚悟を保って居ることができたお蔭で概(あら)ゆる危険と障碍を潜り潜ってとうとう無事で今日まで通って来た。
大倉喜八郎『致富の鍵』丸山舎 明治44年刊 p.16~17
長州出身の藤田伝三郎の場合は、ここまでリスクを取らなくても明治政府の重鎮に幼友達が何人かいたから大きな商売が取りやすかったのだろうが、新潟から出てきて何の人脈もなかった大倉喜八郎にとっては、仕事を選り好みすることができなかったという事情もあったろう。彼が命がけで取り組んだ仕事の多くは必ずしも儲からなかったようだが、この様な姿勢で業務に奮闘したことが大倉組の信用を高め、注目されていったことが事業の拡大につながったことに違いない。
大倉喜八郎がかかわった事業と彼の評価
以降大倉喜八郎がかかわった主な事業のいくつかを列挙する。
明治十年(1877年) 東京商法会議所(現・東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)設立
明治十五年(1882年) 東京電燈(日本初の電力会社)設立
明治二十年(1887年) 日本土木会社(一部は現・大成建設の前身)を設立、帝国ホテル創設
明治二十六年(1903年) 大倉土木組を設立し日本土木の事業を継承
明治三十九年(1906年) 大日本麦酒設立(戦後サッポロビール、東京アサヒビールに分割)
明治四十年(1907年) 日清豆粕製造(現・日清オイリオグループ)、東海紙料(現・東海パルプ)、
帝国製麻(現・帝国繊維)、日本化学工業、日本皮革(現・ニッピ)設立。
明治四十一年(1908年) 山陽製鉄所(現在の山陽特殊製鋼)
昭和二年(1927年) 日清火災海上保険を買収し、大倉火災海上保険
(現・あいおいニッセイ同和損害保険)とする。
このように、今日の有名企業が数多いのだが、どういうわけか彼の自伝には、大倉組が順風満帆の時期の事はあまり書かれていないのである。
大倉喜八郎ほど評価の分かれる人物は珍しいという。「世にもまれな商傑」と絶賛されることも多いが、大久保利通や井上馨らとの親交から「政商」「死の商人」と酷評されることが少なくない。
戦争時期に稼いだ商人は反戦主義者などから叩かれることが多いものだが、軍部の御用商人として軍需関係品を取扱っていた喜八郎もその例外ではなかったようだ。
Wikipediaによると、日清戦争の頃に「戦地に送られた牛肉の缶詰に石が詰まっていた事件」があり、大倉喜八郎が犯人だとの噂が広まったという。この噂は、木下尚江という社会主義者が東京毎日新聞に連載した反戦小説『火の柱』で、喜八郎をモデルにした人物がその事件の犯人として描かれたことから、大倉の仕業と信じられて広まっていったわけだが、石が入っていた缶詰は別会社が運んだ荷物であったことが判明しても、大倉組についての悪い噂はなかなか消えなかったようだ。
儲けた金は子孫に残さず
大倉喜八郎は儲けた金を子孫に残しても本人が怠慢になるだげで、それよりも公益のために使いたいという考えであった。例えば、明治四十四年(1911年)に恩賜財団済生会に百万円を供している。現在の価値にすると百億円近い大金である。札幌の大倉山シャンツェにも、秩父宮の要請で建造費を出した。また五十万円の寄付で開校した大倉商業学校(現東京経済大学)もその一つである。

文化芸術分野においては、彼は大正六年(1917年)に、わが国最初の私立美術館である「大倉集古館」を設立している。
彼がなぜ古美術品を大量に買い取ったかについて、ホームページにはほとんど書かれていないのだが、前掲の『致富の鍵』で彼はこう述べている。
どんな動機からかように仏像を多く集めるようになったかというに、それは次の如き理由である。私は元来彫刻が大好きであった。なお一つには御維新前までは神仏は一緒で、伊勢の大神宮様の方々でも生きて神に仕える間は神徒であるが、死ねば仏になるという訳であって、則ち葬式も仏葬で行うものもあったのである。それであるから神主の家には仏もあれば仏像もある。そのほか鎌倉の八幡宮、熱田の一の宮、多賀の大社など大抵の神社には沢山の仏像も仏画も安置せられてあったのである。それが明治の御維新になって以来、神仏を分離することになって、その時に仏像や仏が神社から取り離されたのである。その結果仏の居所が無くなって全くの宿なしの仏が沢山に出来たのである。それを気の毒だと思うた私が、その仏の仲にてその彫刻が良い仏を吟味して、その彫刻の善いのを取り寄せたのが事のはじまりである。
同上書 p.39~40
明治の神仏分離で大量の仏像・仏画などが不要となり、多くが海外に流出したのだが、大倉喜八郎は、そのいくつかでもわが国に残したいとして買い取ったのである。
また彼は、中国の美術品も多数買い取っている。昭和四年に出版された『大倉集古館要覧』には、同館の収蔵物について次のように解説されている。
陳列品は、我が過去五十年に渉り苦心惨憺して蒐集、蓄積したるもので、遠くは明治維新当時よりわが国文物制度の変革に際会し、国宝たるべきわが古美術品が海外に搬出せらるるを憂い、もしくはまた清朝の末期同国団匪の乱とともにその珍什佳宝が等しく欧米に散逸せんとするを防止するため、巨費を投じて之を購入したるものがその大部分を占めている。
『大倉集古館要覧』大倉集古館 昭和4年刊 p.2~3
清朝末期に起きた「団匪の乱」というのは、「義和団の乱」あるいは「北清事変」と呼ばれている動乱で、事変の詳細については以下の記事を参照していただければありがたい。



「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社である義和団員約二十万人が一九〇〇年六月十日に北京に入城し、外国人や中国人キリスト教徒などを襲撃した。当時北京には十一ヶ国の公使館があり、公使館のある区域は暴徒に取り囲まれてしまい、鉄道や通信網が破壊されて欧米人やキリスト教信者など約四千人が孤立する事態となったのだが十一ヶ国の兵士はわずかしかおらず武器も少なかった。

イギリスから何度も出兵要請がなされて、八ヶ国から総勢二万人弱の連合軍が編成されたが、一番多くの派兵を行ったのはわが国で約八千の兵を送っており、その次に多くの派兵をしたのはロシアだという。
日本軍の活躍により義和団は逃走し、その後皇城を除く北京城内を分割して各国担当区域の警備を担当することになる。
『大倉集古館要覧』には何も書かれていないが、フランスやロシアの管轄となった地域では、それぞれの軍が宮殿や豪家から宝物を掠奪して海外に持ち出された記録が残されている。その後、これら北京の美術工芸品を満載した外国船が長崎に寄港した際に、大蔵喜八郎が「支那の為に、東洋の為にこれらの美術品の保護蒐集」したことが、『鶴彦翁回顧録 』に書かれている。
「大倉集古館」は関東大震災の時に一部の展示品を失ってしまったのだが、それでも国宝三点、重要文化財十三点、重要美術品四十四点を含む二千五百点の美術・工芸品を今も所蔵しているのだという。
有名な観光寺院や神社は拝観料などで潤っているので何とかなるかもしれないが、観光地としては有名でない古社寺に残されている多くの文化財が、いずれ守ることが難しくなる日が来ることを危惧している。
かつては藤田伝三郎や大倉喜八郎らが、わが国の文化財が海外に流出しないように買い取ってくれたのだが、いまの財界人にそのような人物が存在するのであろうか。
株主至上主義的な考え方がわが国の経営者に蔓延し、企業利益の多くは配当に向かうようになり、その配当を増やすために企業利益拡大を優先する経営者が多くなっている。このような利益重視の企業経営が続きくと、修復が必要な文化財を修理する資金が寺や神社で集まらず、プライマリーバランス重視の緊縮財政が続くと国や自治体の支援も必要な時に出せなくなるだろう。文化財の修復に携わる伝統技術者も減少しており、修復現場が少なくなればいずれ技術者の劣化が避けられなくなる。現状のまま推移すると、いずれ多くの文化財の価値が失われていくか、明治の廃仏毀釈の時のように、多くの文化財が海外に流出していくことにならないだろうか。また、異教の文化に不寛容な宗教や思想を持つ移民の増加についても気になるところである。
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