天守が完成して三年で焼失した安土城
安土城は天正四年(1576年)に織田信長によって琵琶湖東岸の安土山に築城された山城で、わが国で最初に大型の天守閣を持った城なのだが、天守が完成したのは天正七年(1579年)のことである。その三年後の天正十年(1582年)の六月二日に本能寺の変が起こり、織田信長は自刃したとされ、その混乱の最中の六月十五日にこの城は天守などを焼失してしまい、その後天正十三年(1585年)に廃城となっている。

上の図は大阪城天守閣所蔵の「安土城図」で、当時は琵琶湖に接していたのだが、昭和期に周囲が干拓されたために、湖岸から離れた位置に安土城址が残っていて国の特別史跡になっている。

今では石垣が残されているだけなのだが、この城を誰が焼失させたのかについては諸説がある。
豊臣秀吉が祐筆の大村由己に書かせた『惟任*退治記』では光秀の娘婿・明智秀満が放火したことになっているが、秀満は安土城を十四日未明に撤収しており、安土城が焼けた十五日には坂本城で堀秀政の軍の包囲されたのち自害しているので、安土城の焼失に関わったとは考えにくい。また信長の二男の織田信勝という説もあるが、安土城を受け継ぐべき信長の息子が、放火することに違和感を覚える人が多いと思う。他には、略奪目的で野盗や土民が放火したとか、落雷で焼失したという説があるが、そのような原因であるならば、記録に残されていないことが不自然すぎるのだ。
*惟任:明智光秀のこと
明智憲三郎氏の『本能寺の変 四百二十七年目の真実』では、安土城に火をつけさせたのはズバリ徳川家康だとしている。いつの時代もどこの国でも、権力を奪いとる戦いの中には記録が残されていない出来事が多々あるもので、このような出来事の真相究明には、確認されている事実と矛盾しない仮説を立てるしかないのだが、私は従来説よりも明智憲三郎氏の説の方に信憑性を感じている。この話をすると長くなるので内容は省略するが、興味のある方は明智氏の著書の一読をお薦めすることとして、安土城を見学したルイス・フロイスの記録に話を移したい。
安土城を訪問したイエズス会巡察師一行
このような経緯から安土城は随分短命の城であるのだが、『フロイス日本史3』に、安土城が焼失する前年の一五八一年にイエズス会の巡察師ヴァリニャーノ一行が安土城天守閣を訪問した時のフロイスの記録がある。

結構興味深いことが書かれているので、一部を紹介させていただくこととしたい。
信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ六十パルモを超える――それを上回るものも多かった――石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。
そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我等ヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層) の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられる漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。
この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人面が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰でつくられているかのようである。
中公文庫『フロイス日本史3』p.112~113
「パルモ」というのは掌を拡げた時の親指から小指の長さをいい、ポルトガルでは一パルモは約二十二cmであるから、石垣の高さは十三メートルを超えていたことになる。
フロイスが、安土城をヨーロッパのどこの城と比較して書いているかはよくわからないが、この当時に建築された城を探すと、世界遺産のフランスのユッセ城は一四八五年から一五三五年に建築され、ヴァリニャーノ(1539-1606)やフロイス(1532-1597)の時代に近い建築物である。

今ではこのようなヨーロッパの城に憧れる日本人が少なくないと思うのだが、フロイスが安土城の天守閣を「これ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄え」と書き「内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営され」「全体が堂々たる豪華で完璧な建造物」と書いていることから、わが国の建築は世界でもかなり高い水準にあったことは間違いないだろう。フロイスの文章は続く。
信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参加者に格別の驚愕を与えていた。
この城全体が、かの分厚い石垣の上に築かれた砦に囲まれており、そこには物見の鐘が置かれ、各砦ごとに物見が昼夜を分かたずに警戒に当たっている。主要な壁はすべて上から下まで見事な出来栄えの清潔な鉄で掩われている。上手の方には彼の娯楽用の馬の小屋があるが、そこには五、六頭の馬がいるだけであった。それは厩であるとはいえ、極めて清潔で、立派な構造であり、馬を休息させるところというよりは、むしろ身分の高い人たちの娯楽用の広間に類似していた。同書で馬の世話をする四、五名の若者たちは、絹衣をまとい、金鞘の太刀を帯びていた。三十五人の小僧がいて、夜明けの一時間前に、各自が箒を持って、それらすべての家屋の掃除に従事しているが、それはきわめて完全に注意深く行なわれていた。…
同上書p.113~114
と、本丸御殿、二の丸御殿も素晴らしい出来栄えであったことがわかる。
信長はイエズス会に無警戒であったのか?
当時の宣教師の役割は単にキリスト教を広めることだけではなかった。彼らは侵略の尖兵として派遣されていたことは、彼らが本国に送っている書状を読めば誰でもわかる。
最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての一五五二年四月八日付の書簡で、ポルトガルが日本を占領することは無理だと報告しているし、安土城を訪れたヴァリニャーノも、一五八二年十二月十四日付のフィリッピン総督あての書簡で「日本は…国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではない。」と書き送り、まずシナから征服することを進言しているのだ。

宣教師に城の内部を公開することは、敵に軍事機密をオープンにしてしまうようなものであるのだが、信長は秀吉とは異なり宣教師に対しては無警戒に近かった。ヴァリニャーノは別の目的があって安土に来たのだが、信長がヴァリニャーノに安土城の内部を見せたのは、ヴァリニャーノから要請されたわけでもなく、信長からの招待によるものである。もっとも信長は、築城を終えるとこの城を男女を問わず多くの人に見てもらうために、すべての国に布告を出して宮城と城の見物を期間を決めて許可していたという。
巡察師(ヴァリニャーノ)が安土山に到着すると、信長は彼に城を見せたいと言って召喚するように命じ、二名の身分ある家臣を派遣して往復とも随伴せしめた。なお信長は、修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たちにも接したいから、いっしょに来るように命じた。彼らが着くと、下にも置かぬように歓待し、城と宮殿を、初めは外から、ついて内部からも見せ、どこを通り何を先に見たらよいか案内するための多くの使者をよこし、彼自らも三度にわたって姿を見せ、司祭と会談し、種々質問を行ない、彼らが城の見事な出来栄えを賞賛するのを聞いて極度に満足の意を示した。事実、同所には、見なくても良いようなものは一つとしてなく、賞賛に値するものばかりであった。…
城から出ると、ようやく通過できるほどの異常な人出であった。キリシタンたちは、彼ら司祭らが、このように名誉ある慰め深い好意と待遇を受けたのを見て、喜びを隠すことができなかった。
同上書 p.115
読み進んでいくと、信長が宣教師に対して非常に好意的であったことがいろいろ書かれている。
ヴァリニャーノが安土に一ヶ月ほど滞在したのち九州に行くこととなり、信長に別れを告げに来た際に、信長は餞別に安土城を描いた屏風を与えている。
巡察師がまもなく出発することになったことを知ると、信長は側近の者を司祭の許に派遣し『伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ね来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい。ついては実見した上で、もし気に入れば受理し、気に入らねば返却されたい』と述べさせた。ここにおいても彼は司祭らに抱いている愛情と親愛の念を示したのであった。
巡察師は自らになされた恩恵を深く感謝し、それは信長の愛好品であるから、また特に安土山に関して言葉では説明しかねることを、絵画を通じ、シナ、インド、ヨーロッパなどにおいて紹介できるので、他のいかなる品よりも貴重である、と返答した。
同上書p.117
この安土城図は天正遣欧使節とともにヨーロッパに運ばれ、一五八五年三月にローマ法王グレゴリオ十三世に献上されたことまでは分かっているようだが、今ではどこにあるかわからないのだそうだ。
フロイスが感心した日本の大工

フロイスはただ安土城を絶賛しているだけではない。このような素晴らしい建築物を造りだす大工の仕事を良く観察して、その手際の良さに感心している。
日本の大工はその仕事にきわめて巧妙で、身分ある人の大きい邸を造る場合には、しばしば見受けられるように、必要に応じて個々に解体し、ある場所から他の場所へ運搬することができる。そのため、最初に材木だけを全部仕上げておき、三、四日間組み立てて打ち上げることにしているので、一年がかりでもむつかしいと思われるような家を、突如としてある平地に造り上げてしまう。もとより彼らは木材の仕上げと配合に必要な時間をかけてはいるが、それをなし終えた後には、実に短期間に組み立てと打ち上げを行なうので、見た目には突然出来上がったように映ずるのである。
同上書p.114
わが国では別の場所であらかじめ図面通りに木材の仕上げを済ませておいて、現場で組み立てていたというのだが、西洋では現地で木材や石材を加工しながら組み立てていたのだろうか。
伝統的建築文化財の危機
フロイスが絶賛した大工の木造建築技術は今も世界に誇れるものだと思うのだが、最近の建築現場では木造の建築物が激減しており、木造の場合でも釘やボルトを用いない伝統的な建築技術が用いられることは寺社の修復工事などにほとんど限られている。
そのために宮大工の仕事は減少してきており、現在では高齢化が進んで人数も全国で百~百五十人程度と言われていている。宮大工だけでなく一般の大工も、屋根瓦の職人も、白壁を塗る左官職人も同様な傾向にあるのだが、こんな状況では全国各地に存在する古社寺や古城、古い町並みなどを、文化的価値を減じることなく維持することが次第に困難になって行くことは誰でもわかる。長い年月をかけて技術を習得しても、宮大工の収入は決して多くなく、これでは求人してもなかなか志望者が集まらないことは当然だ。
財務省の財政均衡主義的な考え方により文化財に関する予算が長きにわたり出し渋られ、文化財修復待ちが蓄積され、後継者不足の為に技術断絶が生じるリスクがあることが指摘されているようだ。
全国で国宝・重要文化財級の建造物は三千を超えるのだが、木造建造物は百年も経てば劣化・老朽化が進み、それを長く放置すれば長期的にわが国の歴史的文化遺産としての価値が失われて行くことになる。そのことは観光国としてのわが国の魅力をも失うことになるだろう。そうさせてはならないのだが、そのためには財務省と戦って積極財政を推進してくれる政治家が選挙で選ばれることが必要で、彼らが主導権を握れるように国民の支援の声を届け続けることが必要だと思う。
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