矢田坐久志玉比古神社
宿をチェックアウトして奈良盆地の北西に位置する矢田丘陵に向かう。法隆寺は矢田丘陵の南山麓に位置しているのだが、この丘陵にはほかにも古い神社や寺がいくつかあり、以前から法隆寺方面に行くときに拝観しようと思っていた。最初に向かったのは丘陵の東山麓に位置する矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町965)である。
この神社は、延喜式神名帳に記載されている大和国添下郡十座の筆頭社で式内大社である。神社の掲示板によると、「当地方最大の古社として創建より六世紀前半までは畿内随一の名社として栄えた」「仏法興隆とともに物部氏は四散し社運は衰退したと伝えられています」と記されている。
神社の創建については、神武天皇が長髄彦と戦った時に、天皇側が生駒山上から射た二番目の矢が落ちた場所であるとか、櫛玉饒速日命が天磐船に乗って降臨した際、住まいを定めるために三本の矢を放ったがいずれも矢田に落ち、この神社の場所に二の矢が落ちたという伝説が伝わっていて、境内には二の矢塚がある。
上の画像は楼門だが、なぜか飛行機のプロペラのようなものがある。この由来を知りたかったのだが、神社の案内書に次のように解説されていた。
昭和の初めに内務省神社局は、天空をつかさどる神(航空租神)は、当社であると考証したことから、空への侵攻が加わり二宮忠八氏がたびたび参拝されました。楼門のプロペラは昭和十八年に大日本飛行協会大阪支部からの奉納の、満州事変で使われた陸軍九一式戦闘機Ⅰ型から取り外された実物です。「航空租神」の額は、航空自衛隊初代幕僚長を務めた後、参議院議員になられた源田実氏の奉納です。
二宮忠八については以前旧ブログで書いたことがあるのだが、彼は香川県の丸亀歩兵第十二連隊に入隊したのち、昼の休憩時間に羽を動かさずに舞い下りて来たカラスを見て、推進力さえあれば固定翼でも空を飛ぶことが出来ると確信して飛行機の研究に取りかかり、明治二十四年(1891年)四月に模型飛行機を丸亀練兵場で五分間飛ばすことに成功した。そして二年後には長さ二メートルもある玉虫型飛行機を完成させている。彼はそれに時計のゼンマイを搭載して飛ばすつもりであったのだが、明治二十七年(1894年)に日清戦争が勃発すると、大島旅団第一野戦病院付として出征することとなり、松山に試作中の飛行機を残したまま平壌の戦いに参加している。
戦闘が激しくなると病院に負傷兵があふれるようになり、彼は自分が考案した飛行機を完成させて、通信や偵察、医薬品などの搬送に役に立つと考え、上司の賛成を得て上申書を移出したが旅団長に却下された。彼は終戦後も再度上申したが却下されたことから、自力で飛行機を制作することを決意する。
大日本製薬に入社した後も飛行機制作の情熱を持ち続けたのだが、資金にようやくめどが立ち十二馬力のエンジン制作を構想した矢先に、アメリカでライト兄弟が世界最初に有人の飛行機実験を成功させたことを新聞の記事で知ることとなる。もし彼が軍にいた時に上司が飛行機の試作を認めていたら、おそらく二宮忠八が世界で最初に飛行機の有人飛行を達成していたことであろう。昭和十九年に彼の伝記『二宮忠八伝』が出版されているが、平易な文章で書かれていて非常に面白い本であり、「国立国会図書館デジタルコレクション」に一般公開されているので一読されることをお薦めしたい。
拝殿の奥には本殿(室町時代、国重文)があり、末社八幡神社社殿(室町時代、国重文)がある。
東明寺
矢田坐久志玉比古神社から矢田丘陵の東中腹に位置する東明寺(大和郡山市矢田町2230)に向かう。距離にしてわずか1.4km程度なのだが、途中から道が非常に細くなるので運転には注意が必要だ。たまたま対向車が来なかったからよかったが、対向車がきたら、待避所が少ないので大変だと思う。寺の駐車場は山道を右に折れて寺に向かうとすぐに十台程度駐車可能なスペースがある。
雰囲気のある道を進むと東明寺の山門が見えて来る。
この寺は、持統天皇が目の病気に罹られた折に、舎人親王の夢枕に「霊山に登り霊井の水をすくいて母君の眼を洗うよう」にとのお告げがあり、この山に登って山水で母の両眼を洗ったところ眼病が平癒されたことから、親王は感謝の気持ちを込めて六九三年にこの寺を建てたと伝わっている。舎人親王は、天武天皇の第六皇子であり、淳仁天皇の父で『日本書紀』編修事業の総裁を務めたことでよく知られている人物だが、実母は新田部皇女で、持統天皇は義母になる。
山奥の寺ではあるが、立派な本堂がある。寺のHPによると、本尊の木造薬師如来坐像(平安時代、国重文)や木造地蔵菩薩坐像(平安時代、国重文)・木造毘沙門天立像(平安時代、国重文)・木造吉祥天女立像(平安時代、国重文)は、毎月二十一日、二十八日以外の日は予約をすれば拝観が出来るようである。
矢田寺
東明寺の南にある矢田寺に向かう。車で十分程度で到着する。駐車場は矢田寺のバス停付近にある。
矢田寺は高野山真言宗の別格本山で、正式名称は金剛山寺という。寺には北僧坊、南僧坊、大門坊、念仏院の四つの塔中寺院があり、これらすべてを総称して矢田寺と呼ぶのだそうだ。
上の画像は山門だが、ここから本堂までの階段は結構きつかった。
境内には約一万株、約六十種のアジサイが植えられており、あじさいの咲く六月頃は多くの観光客が訪れるようで、別名「あじさい寺」とも呼ばれている。
寺伝によると、大海人皇子が壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位されて天武天皇となられて後、白鳳四年(664年)に智通僧正に命じてこの地に七堂伽藍四十八坊が造営されていったという。
当初は十一面観世音菩薩と吉祥天女を本尊としていたが、 弘仁年間に満米上人により地蔵菩薩が安置され、それ以降この寺は地蔵信仰の中心地として栄えてきたという。
矢田寺本堂には本尊・地蔵菩薩立像(平安時代、国重文)はじめ十一面観音立像(奈良時代、国重文)、試みの地蔵尊(平安時代、国重文)、二天王像(奈良時代、国重文)、阿弥陀如来坐像(平安時代、国重文)など多数の貴重な仏像が安置されているそうだが、特別公開されるのは毎年あじさいの咲く時期だけのようだ。
寛政三年に刊行された『大和名所図会』に矢田寺の絵が出ている。塔中寺院に関してはこの図会で描かれている頃よりも現在の方が大きいと思われる。あじさいの咲く季節に多くの観光客が訪れることでその経済効果が大きいのかも知れない。
上の画像は矢田寺の鎮守の春日神社で檜皮葺の一間社春日造の本殿は室町時代後期の建築で、国の重要文化財に指定されている。
松尾寺
次に松尾寺(大和郡山市山田町683)に向かう。松尾寺は矢田丘陵の南端近くにある松尾山の中腹にあるのだが、道は二車線で快適にドライブが出来る。
この寺は天武天皇の皇子・舎人親王が、四十二歳の厄払いと『日本書紀』編纂の完成を祈願して、養老二年(718年)に建立したと伝わっており、『続日本紀』の延暦元年(782年)の記録にもこの寺の名前が登場し、松尾山山頂近くにあるこの寺の鎮守社の松尾山神社境内から奈良時代に遡る古瓦や建物跡が検出されており、当寺の創建が奈良時代であることは間違いがないようだ。
現存する本堂(国重文)は建武四年(1337年)に再建されたものであり、本尊の千手観音立像(県指定文化財)は鎌倉時代の作である。なお、本堂の解体修理中の昭和二十八年(1953年)、屋根裏から焼損した仏像の残欠が発見され、これは建治三年(1277年)の火災以前に祀られていた旧本尊像ではないかと推定されている。
本尊の千手観音立像(鎌倉時代、県指定有形文化財)は秘仏で、毎年十一月三日に開扉されるそうだ。また当寺所蔵の木造十一面観音立像(平安時代、国重文)、絹本着色釈迦八代菩薩像(高麗時代、国重文)、絹本着色阿弥陀聖聚来迎図(国重文)は奈良国立博物館に寄託されているようだ。
美しい三重塔だが、現在の塔は明治二十一年(1888年)に再建されたものである。
松尾寺も『大和名所図会』に境内が描かれているが、三重塔から松尾山(図会に描かれた一番高い山)の頂上を目指すと寺の鎮守である松尾神社があるという。江戸時代は「松尾大明神」と呼んでいたようだが、この神社については『大和名所図会』の本文に、「これは酒神にして、山城松尾と御同神なり」と記されている。確かには京都の松尾大社(京都市西京区嵐山宮町3)は酒の神として信仰され、松尾大社のホームページでその歴史を確認すると渡来人の秦氏が登場する。
五世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。
伝説によると……
……「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。」……
これらの記述は、秦氏がこの大山咋神のご神威を仰ぎつつ、この地方一帯の開拓に当たったことを示すものと言えます。
秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられております。その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地内を通っております。
農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになったようです。 酒造については秦一族の特技とされ、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できます。 室町時代末期以降、当松尾大社が「日本第一酒造神」と仰がれ給う由来はここにあります。
松尾大社 HPより
京都の松尾大社は大宝元年(701年)に、文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理が勧請して社殿を設けたと伝わっているが、この松尾寺の創建時期と十七年の違いしかない。
秦氏は京都市右京区太秦を本拠地として、近畿や四国に住み着いた渡来人だが、彼らは寺院の建立・土木河川工事技術から養蚕機織り、酒造りなど様々な技術をわが国に伝え、さらに経済力をも有していた。奈良盆地の西南部にも多くの秦氏が居住していたし、聖徳太子の寵臣であった秦河勝も秦氏だが、法隆寺の近くにある松尾寺の創建にあたっては、何らかの形で秦氏が関わっていたのではなかろうか。
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