戦闘の叙述
前回に引き続き『上等兵と支那人』から、支那軍との戦闘の緊迫した場面から紹介しよう。
「第一小隊は右、第二小隊は左、第三小隊は中央。命令があるまで待機」と命じるや、中隊長は地隙(ちげき:地表が割れて出現した隙間)へと通じた道路を前進し始めた。友軍の砲が頭上を越して地隙の両側の高地へ射ち込んで、時々敵のチェッコ(チェコ製機銃等)がピンピンと唸る。道路には五米(メートル)ぐらいにポプラの大木が地隙まで並んでいる。中隊長が一木から一木へ移る。指揮班の伝令の一人がパッと木に取っつく。一人また一人、今度は自分の番だ。とっついた途端ビシッと枝が吹き飛ばされる。
一木また一木と移る。一町(ちょう:約109m)足らずの道路。十分、二十分、三十分。あと半町。尿に変調を来したのであろうか。一木を移る毎に一回出る。尿も緊張でいたたまれないらしい。
地隙に着いた。左右から小隊が台地に迫り、砲弾が炸裂して破片がビューンと空気を切って行く。こうなったらとんとん拍子で、敵が台地から撤退してしまった。
玉蜀黍(トウモロコシ)畠の中を散開して追って行く。道路まで出ると早や左翼が道路まで出ている。と思うとビンビンビン、こっちを狙っている。
「敵だ。伏せ」
道路の両側にさっと伏せる。弾丸は益々集中して来る。流石(さすが)馴れたもので古参兵は銃をあげて目標を定めた。ピシッと足の間に落ちる。何でもない草の山でも掩護物と頼む。
人が動いたのでハッと気がついた。自分は眠ったのであろうか。どれだけか知らないが空虚の時間があったのを思い起こした。傍らのSもうつ伏せて寝ている。
胆が太くて眠ったのではない。総てを運命の神に委せているので夢中だったのだ。足がもう一寸右にあったら打ち砕かれていたろうが、弾丸はよけて呉れた。敵だと精神を集中したために反って催眠術にかかってしまったのではなかろうか。
「おい、何だ。ぐうぐう眠っていたじゃないか」
Sは吃驚(びっくり)して額の汗を拭いた。
「どうしたんだろうな。今弾丸を喰らっていたら、寝たまま極楽へ行ったろうになあ。ハハハ……」
敵は去った。我々は鉄帽を脱いで、汗を拭き拭き次の部落に入った。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18 p.171~174
戦闘の場面といっても極めて小規模なものだが、出征した兵士たちは誰しもこのような体験を何度となくしたことだろう。中谷は誇張なく自分や仲間の言葉や体験したことを淡々と記しているのだが、こんな文章は体験した者でなければ書くことは難しい。
逃亡した中国兵は戦場に何を残したか
そして中谷は逃げて行った中国兵が、近隣の村に何を残していったかを次のように記している。
第一線の敵は逃げ去る際に、鼬(イタチ)鼠(ネズミ)の最後屁に等しく盛んに宣伝ビラを撒いて行く。それには支那文のものもあれば、日本文のものもあり、立派に印刷して美しく国旗なんかを刷り込んだものもあれば、間に合わせのガリ版のもあって興味のあるものだ。
勿論日本兵の中には投降しようなんての不心得な奴は絶対いないから面白がって読み、あとは塵紙とするのが落ちである。一戦闘が済んで今まで敵のいた形跡のある壕のあたりに、赤や青の紙が散乱しているので、今度は何と書いてあるか拾い上げて休憩の間の雑談の話題となるのである。
敵のものには投降せよというものが多く、「〇〇通行証」と名付けて、この券を持参して投降したものには、特別に優待するとある。そのほか戦争せずに仲良くしましょうなんて、たどたどしい日本文で記して「八路軍(はちろぐん:中国共産党軍)将兵一同、親愛なる日本兵へ」とある。
日本軍の入ると思われる部落の壁には、白ペンキで大きく日本文字の宣伝文を記し、壁には日本文のビラを到る処に貼り付けてあるので、時にはここは、日本の田舎じゃないかと思い違いをすることもある程である。壁のビラの内容は流石共産軍の精鋭の根拠地が近いせいか、驚く程正確に日本内地のニュースを拾って逆用している。議会で問題になっている事項なんかをとりあげ、頭のいい所を見せたのも見える。そんな所より見れば余程日本の動向を研究しているものと知れる。
無闇に日本軍の悪口を書いたり、たどたどしい文章で書かれた投降票等を見ると軽蔑するが、日本の動向なんかの逆用を見ると敵も仲々侮れないと思う。宣伝も手の込んできたものである。
宣伝と言っても一面は敵国全体に対するもので、第一線の兵士に対するものは一部分にすぎない。銃後を目指して行わねばならないので、所謂(いわゆる)謀略というものである。他の一面には自国の銃後に報告し、同時に同盟の諸国に戦果を報道してデマを粉砕して安心を与えることも重大なことである。
ドイツにおけるP・K(ペーカー:宣伝中隊)の活躍はこの意味からであり、真実を伝えて敵の謀略を封ずるのである。その故に戦争は武力のみではなく、文筆をも第一線に活躍させねばならないと思う。
支那古来の戦争を見ても、古くは春秋戦国時代に自己の侵略を正当化するための声明を発し、それにより無名の師を発したという非難を避ける為に弁舌の士を要求している。春秋戦国の乱世に、反って文筆の士・弁舌の士が輩出したのはこの故からである。
三国鼎立した時も軍国時代であったから、軍閥は争って名文家を招いたが、魏の曹操の下に集まった中で陳琳とか阮瑀が馬上で起草した人に与える署は一字も動かせない位完成したものであったと伝えられている。
かくて支那では自己の行動を正当化するために文筆の士を利用した歴史を持っているから、宣伝戦では非常に優れている。白髪三千丈式の空宣伝は一度破れると信用を失墜して取り返すことが出来ないから絶対行うべきではないが、真実の報道を行うのは必要で、知ることにより信頼と緊張とが引き起こされるのである。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18 p.174~177
中国の宣伝戦に用いたビラなどの写真はこの本には紹介されていないが、例えば火野葦平の「海南島記」(GHQ焚書)には画像や内容が多数紹介されているし、逆に日本軍が用意してバラまいたビラの内容や、中国民衆が日本軍をどう迎えたかなど興味深い内容が綴られている。興味のある方は「海南島記」p.48~64を読まれることをお勧めしたい。
中国兵の装備
一回の戦闘が終わると、相当量の分捕り品が本部の庭に積み上げられたという。優秀な武器なども分捕られて日本兵の歩哨が用いることもあったようだが、中国兵はどんな武器を使い、どんな装備をしていたのだろうか。
軽機は外国製で、総てチェッコの名に一括されていて、これの音は日本のものと異なってパンパンパンと引き裂くようにかん高く響く。それで三百米(メートル)位離れた所で射っていても、すぐ耳の近くて射っているとの錯覚を起こすことがある。
Madsen M.1937 No.20121のものは高い脚があって、高粱(こおりゃん)の中で上下左右に動く精妙なものであった。
Kulomet V2.26 16080 Ceskoslovenska Zbrojovka.はチェッコ製の軽機であり、
AS Fab. Nat. Darmes de Guerre Herstal-Belgique はベルギー製の小銃で、日本の騎兵銃に似た短いもので、支那兵はこれを所持していたので一番多く集まった。なお小銃にはBronoというのがあった。弾薬は時に一万発ぐらい分捕ったこともあり、チェッコ機銃のものは五発宛装弾子にはめ、水冷式機銃のものは、一箱に二百五十発、布の弾帯に納められピカピカに光っているのは美事なものだ。封緘された箱を開けると真新しいのが入っているが、時によると少しだけ古い弾丸を混ぜてある。そこだけ急に古くなったのではあるまいから、兵器会社の不正であろうと思われる。
戦闘の際注意していると各種の銃弾が拾える。その弾丸の先だけ引き抜いて鎖に着け腰飾りとすることが行われているが、尖ったもの、丸いもの、小さいもの、大きいもの等十四五種見られた。ダムダム弾や自動小銃のものは珍しく思った。
捕虜としたのは兵のみであった。その男は西安方面で作られた黄緑色の綿服に戦闘帽、脚絆に草鞋(わらじ)の姿である。支那の草鞋は麻と布片で作られた日本のとちょっと異なっている。捕虜の言い分を聞くと、一ヶ月の俸給は八元五角(八円五十銭)であるが、六元は食費として差し引かれ、残金も仲々呉れない上に、一足一元もする布製の鞋を自弁しなければならないので、草鞋を以って代用していると。草鞋の修理のために麻のさらしたものを持っていると見せていた。
背嚢を持たず、鼠色の綿毛布の中に防雨外被や予備草鞋やチョッキを巻き込み、細長い袋に詰めた粟(あわ)と共に背負っている。粟は食料である。雑嚢は粗布で作られ、日用品とか食料を納めてあり、革かズック製の猟銃のに似た弾帯を腰に巻いているものもあれば、一方の肩から斜めに背負っているものもある。
青龍刀はこの辺では余り見かけなかった。鉄帽も将校に限られていたのか遺留品は少なかった。これは青色でドイツ製であり、青天白日のマークがついている。防毒面もやはり特殊な人が持つのであろう。直結式のが多く、1939 Jan.4という新しいのも見受けた。
装備は貧弱である。真正面からぶっつかると逃げ、突撃してくることもないし、夜襲してきても陣地の二三百米前から射撃する仕末である。一度や二度負けたってかまわない。最後の勝利さえ得ればよいという考えであるから、焦っても片付かない。近く来ると叩きつけて反復して退けるより外はないので、余程の忍耐が必要である。武力には弱いにかかわらず、支那兵は強いと認められる所以はあの粘りにあるので、これへの対策はやはり粘りの外はなかろう。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18 p.219~223
中国兵はこんな低い俸給で戦って命を失っては馬鹿馬鹿しいという考えもあっただろう。彼ら中国兵は個別の戦いで勝つことなんか少しも考えておらず、すぐに逃げていく。しかし最後には勝利するつもりでいて結構粘り強く、厄介な存在であった。
排日教科書
このブログで何度か書いたが、中国人に排日思想を植え付けたのは英米の宣教師で、大規模な排日活動が始まったのは一九一九年のパリ講和会議でわが国が「国際連盟規約」中に人種差別撤廃を明記することを提案して以降のことである。要するに英米は、黄色人種である日中の分断をはかりつつ、中国市場を取り込もうと画策したわけだが、わが国は有効な対抗策をとらないまま中国の排日運動はどんどん進行していった。
蒋介石が民心統一のために選んだ目標は排日思想の普及にあった。彼の下で支持しながら排日を行った者達。蒋介石もそうであるが彼等の大部分は日本への留学生であったのだ。ここに何か考えさせる点がありはしないだろうか。
日本人の対支那観に改めなければならない点が多いであろうが、支那人側に於いても同様であろう。支那人の留学生の中には欧米へ留学して直接文化を摂取出来ない者が、日本に留学して間接的に欧米文化を輸入しようとしたので、日本の文化を真に理解するために留学した者が少なかったのではなかろうか。
満州事変直後北京に滞在していた時、町には排日の文字こそ見えなかったが、書店には国民学校用の(支那では早くから国民学校の名称を用いていた)排日掛図が売られ、日貨排斥・日本人劣等、その他国家としての体面を汚すようなことを絵入で説明しているものがあり、三四歳の幼児に見せる雑誌に日本人が残虐な行為をしている有様を描いてあるのを見て慄然としたことがあった。
この排日教育が徹底し、現在戦線に立っているのはその教育を受けた者である。大人になってから吹き込まれたものは改め易いが、子供心に滲み込んだものは容易に脱し得ないから迷夢が仲々醒めないのである。
村々に入ると壁に排日文が大きく記されてあるし、共産党の中心人物毛沢東や周恩来の署名入りのビラも見られる。排日新聞もあれば排日教科書もあり、印刷したものや謄写版による薄っぺらなものが見られる。
教科書の内容には、人には男女があり、男は兵隊となって戦線に立ち、女は家庭を守って服や鞋(くつ)を作って献納したり看護婦となって働く。イギリスのチャーチルとソヴィエトのスターリンは我々の味方である。毒ガスや爆弾はこんな風に避けるべし、空屋清野を行って日本軍を苦しめるべしと種々並べてある。
空屋清野とは家を毀し井戸を埋めて利用できなくするので、これを実際に行って逃亡の際部落に火を付けたことがあったので、部落民を助けて消火に努めたこともあった。橋梁は大抵破壊され、道路のあちこちが断ち切られているのは戦車壕としたものである。しかし工兵隊は敏速に巧みに修理していて、我々は殆んど不便を感じなかった。歩兵の行軍も辛いものだが、工兵の労苦もとても感謝しきれないものがある。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18. p.223~226
英米宣教師らによる排日煽動工作があったにせよ、初期に於いては中国民衆の排日運動は消極的なものに過ぎなかった。わが政府が早いうちにしっかり対策を講じていれば、こんなにひどい排日運動にはならなかったのではないかと思う。
アヘン戦争でひどい目に遭わされた歴史があるにもかかわらずイギリスを「我々の味方」と中国の教科書に記された一方、多くの中国人留学生を日本で学ばせながら彼らを排日思想に染めてしまったわが国側の対応に、問題がなかったとは思えない。次回の記事で紹介するが、当時の新聞は政府の対応を厳しく糾弾していることを知るべきだ。
しかしわが国政府の外交下手は今も戦前と変わらない。国家ぐるみで反日教育を続けている国に対して厳しい態度をとらないのでは、相手をつけあがらせるばかりでかえって問題をこじらせることになる。
本のタイトルに「排日」「抗日」「反日」を含む全GHQ焚書リスト
以下のリストは、GHQ焚書の全リストの中から、本のタイトルに「排日」あるいは「抗日」、「反日」を含む著作を抽出したものである。
「〇△」欄の「〇」は、「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されている本で、「△」は「個人向けデジタル化資料送信サービス」の手続きをすることによって、ネットで読める本である。
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