震災直後の朝鮮人犯罪と大量の爆弾押収
前回記事で、関東大震災の被災者たちはなぜ朝鮮人の暴動を怖れたかについて、当時の新聞記事のいくつかを紹介してその背景について説明したが、震災が起きる直前まで、朝鮮人が毎日のように、各地で凶悪な事件を起こしていることが新聞や雑誌で伝えられていたことは重要である。そのために少なからずの日本人が、朝鮮人を凶悪な存在であるとの潜在意識を持つこととなり、そんな状況下で関東大震災が起こり、一部の日本人が「朝鮮人暴動」という情報に過剰な反応をすることとなるのだが、当時の記録を見ると、震災直後においても憎むべき罪を犯した朝鮮人が多数いたのである。
水谷巽 著『東京大地震遭難記』(大正12年刊)には、地震の起きた大正12年(1923年)9月1日から3日間で東京で起きた窃盗や強姦などの11件の事案を場所と犯罪者の実名入りで紹介している。中には、警官らに抵抗したために射殺された朝鮮人もいる。
しかしながら、もっと驚くべきことがある。東京では地震の直後に朝鮮人から大量の爆弾が押収されているのである。同上書の該当部分を紹介したい。
鮮人の密集多き亀戸寺島方面江東一帯の人心動揺は最も甚だしく、いたるところ鮮人と自警団警官の争闘を演じ、9月2日夜8時頃の如きは四木橋付近堤防上に於て、ダイナマイト大2個、小15個を堤防の草叢に隠匿している鮮人5名を発見し、寺島町字玉の井441番地梶垣寅之助、大津祥次両名は在郷軍人青年団と協力して、呉海模(ごかいも:23歳)外4名を所轄寺島署に引き渡し、東京地方裁判所検事局に於て右のダイナマイトの出所その他につき大検挙を行ったが、江東憲兵隊ではその出所につき、左の如き見込みを付けている模様である。「本所区請地町11日本電線会社職工合宿所内居住鮮人崔先卜(さいせんぼく:22歳)は震災前の8月18日頃より爆弾30個を自己の行李中に隠匿し、表面は電線工を装い、裏面において不平鮮人同志と気脈を通じていた模様で、8月26日夜、行李中から右の爆弾を取り出して数えたり。その他の小銃弾数十発をも隠匿しているのを合宿所賄係(まかないかかり)梅沢美徳(26歳)に発見され、「何に使用するのか」と問われた時非常に狼狽していたが、翌朝になって姿をくらまし、震災当時まで行方不明となっていたが、9月1日午後7時頃の大混乱中に、向島請地稲荷神社境内において、一名の鮮人が民衆に包囲されている時、突然崔先卜が飛び出して拳銃を発射して、その鮮人を救おうとしたので、両人ともその場で殺されてしまった事実があり、その後前記賄係梅沢の陳述によって、崔の居室を捜査したところが、なお小銃弾数発を発見するに至ったから、必定同人が不逞の徒に右の爆弾を配布したものらしい」と。
水谷巽 著『東京大地震遭難記』(大正12年刊)
こういうケースで朝鮮人が射殺された場合は、正当防衛としてやむを得なかったと判断する人が大半だと思う。問題になるのは、朝鮮人であることを理由に無辜の人物を殺害してしまったケースに限られるはずである。
自警団員が朝鮮人に暴行に及んだ事情
ところで、朝鮮人が暴動を起こすとの情報はいつ頃どこから流されたのであろうか。横浜で震災の当日から流されていたとする説が有力なようだ。
『横浜地方裁判所震災略記』という書物に、裁判所に勤務していたメンバーの手記が多数残されているのだが、長岡熊雄部長判事の9月2日の記述が興味深い。長岡判事は仲間と船で東京に向かおうとしたのだが、事務長より朝鮮人暴動の噂を聞いて、その事実を確認するために神奈川県保安課を訪ねたところから引用する。
その巡査の言うには、「昨日来鮮人暴動の噂が市内に喧しく、昨夜私が長者町辺を通ったとき、中村町辺に銃声が聞こえました。警官は銃を持っていないから暴徒の所為に相違ないのです。噂によれば鮮人は爆弾を携帯し各所に放火し石油タンクを爆発させ、また井戸に毒を投げ婦女子を辱しむるなどの暴行をして居るとのことです。今のところ御上陸は危険です」という。
私は「市内の巡査はどうしたのか」と尋ねましたら「巡査も大多数は焼け出されてどこへ行ったか判らず、残っている者も飢餓に苦しみ活動に堪えられないのです」という。
(横浜地方裁判所 編『横浜地方裁判所震災略記』p.47 昭和10年刊)
このような応対をしたのはこの巡査だけではなかったと思うのだが、事実かどうか確認できていないことまで、公の立場の者が軽々に市民に語るべきではない。役所で官吏からこんな発言があれば、そのような情報はどんどん尾鰭がついて広がっていってもおかしくないだろう。
また、巡査の多くが被災したために警察の人員が少なく、犯罪を取り締まることが出来ないのであれば、自警団もそれぞれ武器になるものを手にして、地域を防衛しようとすることになってもやむを得ないだろう。
この長岡熊雄部長判事の文章を読み進むと、夕刻品川に到着し老父母の家に向かう途中で、竹槍を持った数人の集団に尾行されていることに気が付いたという。後で聞くと、尾行していた者は町内の自警団員で、長岡判事らを朝鮮人だと考えて後を付けていたのだそうだ。たまたまそのうちの一人と面識があったので大事には至らなかったのだが、どこの町も外から来る人の動きに神経質になっていたことがこの記述から分かる。(同上書 p.53)
先ほど紹介した『東京大地震遭難記』には自警団員の暴行事例として震災後4日間で起きた具体的な事例が20件ほど記されている。
震災の被災者が地方に避難するとともに、朝鮮人に関する真説・虚説が各地に伝わっていき、自警団が各地で朝鮮人を殺害する事件が起きて、暴行者の大半が検挙されたという。同上書によると検挙された者は群馬県で20名、埼玉県で114名、千葉県で114名、神奈川県で248名と結構多い。
日本人が朝鮮人と間違えられて殺されたケースも少なくなく、同上書には震災の翌日及び翌々日に東京で起った9件の事例が紹介されているが、他にも7件の事例があったという。
日本政府の対応
では、この問題についての政府の対応はどうであったのだろうか。
大正12年(1923年)8月24日に加藤友三郎首相が急逝し、関東大震災が発生した時点(9/1)では内閣総理大臣は不在であった。9月2日の夕刻に第二次山本権兵衛内閣が組成され、内閣は9月5日に民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」を発している。『関東大震火災録』にその全文が出ている。
今次の震災に乗じ、一部不逞鮮人の妄動ありとして鮮人に対し不快の感を抱く者ありと聞く。鮮人の所爲もし不穩に亘るに於ては、速(すみやか)に取締の軍隊または警察官に通告してその處置にまつべきものなるに、民衆自ら濫りに鮮人に迫害を加うるが如きことは、固より日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず、また諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非ず。今次の唐突にして困難なる事態に際會したるに基因すと認めらるるも、刻下の非常時に當り、よく平素の冷靜を失はず、愼重前後の措置を誤らず、以て我國民の節制と平和の精神とを発揮せしむることは、本大臣の此際特に望む所にして、民衆各自の切に自重を求むる次第なり。
大正十二年九月五日 内閣総理大臣 伯爵 山本権兵衛
(浜中仁三郎 編『関東大震火災録』p.16~17 大正13年刊)
この内閣告諭では「流言」という言葉を用いていないところに注目していただきたい。記事の冒頭で朝鮮人が大量のダイナマイトを隠したり、銃を発射するような事件があったことを書いたように、震災直後において朝鮮人の不穏な動きは間違いなく存在したのだが、 その事実には触れなかったのである。
しかしながら、同日に戒厳司令部が公表した「鮮人暴動は流言」という文書には、朝鮮人の不穏な動きがあったことを認めたうえで、大集団による朝鮮人暴動については「流言飛語」だとして、国民に軽挙妄動を戒めているのだ。
不逞鮮人については三々五々群をなして放火を遂行の事実はなきにあらざるも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、もはや決して恐るるには及ばない。数百数千の不逞鮮人が襲撃し来るなどと、ややもすれば出所不明の無根の流言飛語に迷わされて、いたずらに軽挙妄動をなすが如きは、向後大いに考慮することが必要であろう。
(同上書 p.15~16)
さらに政府は、新聞などで「鮮人暴動」に関する報道を禁じている。事態の鎮静化を図ることと、無辜の朝鮮人や、朝鮮人と誤認された日本人が被害に巻き込まれないように、余計な報道は控える旨の措置であった。
震災後50日以上たった10月21日に、政府はようやく朝鮮人暴動に関する一部の報道差し止めを解除し、その翌日に報道された記事が神戸大学の『新聞記事文庫』に収録されている。
上の記事は大正12年10月22日付の東京時事新報のものだが、朝鮮人が震災直後の混乱裡に放火や暴行掠奪だけでなく、橋梁の爆破まで企てていたことが事実として記されているのである。この記事の中で「月島に入込み短銃を発射し或は放火、掠奪、爆弾放擲」とあるが、糧秣廠に放火され火焔に包まれ、当時月島には三千人の避難者が逃げ場を失って焼死したと伝えられている。
朝鮮人の革命勢力は何を狙っていたのか
では朝鮮の革命勢力は関東大震災の後の混乱で何を狙っていたのだろうか。彼らが入手した大量のダイナマイトは、何に用いるつもりであったのか。
関東大震災の二年前の大正10年(1921年)に、武力による朝鮮独立を目指していた義烈団の金元鳳(キム・ウォンボン)らが、欧州歴訪に向かう途上の香港にて裕仁皇太子(後の昭和天皇)を拉致暗殺する計画を立てていた。日本政府や警察は事前にその情報を掴み、皇太子の身代わりをたてて彼らの計画を失敗に終わらせた経緯については、『冬のアゼリア 大正十年・裕仁皇太子拉致暗殺計画』(文春文庫)を参照願いたい。
裕仁皇太子は欧州歴訪後同年11月25日20歳で摂政に就任し、翌年の大正11年9月28日には、裕仁皇太子と良子女王の間で納采の儀が執り行われ、震災が起きた年である大正12年(1923年)の11月27日には結婚の儀が予定されていたのであるが、関東大震災が発生したために儀式が延期されることとなった。
前回の記事で義烈団のほかに上海仮政府という朝鮮独立運動派の組織があることを書いたが、この組織も次第に過激化し、裕仁皇太子の結婚の儀の日にテロを行う計画が進んでいたのである。
そこへ未曽有の大震災が起き、その大混乱をチャンスととらえるメンバーがいた。先ほど月島の糧秣廠を放火した朝鮮人のことを書いたが、この犯人は現場で取り押さえられて次のようなことをしゃべったという。
「暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし、機の到来を待ち構えていた折柄大震災あり、これで御大典(結婚の儀)もどうなるか判らないからこの地震こそは好機、逸すべからずとなし此処に決行したのである」(大正12年9月6日「河北新報」、『現代史史料6』所収)
このような記録は他にもいくつかあり、この大震災を好機と考え、日本の国体を揺るがして朝鮮独立運動の勝利に結びつけようと考えたテロリスト達が震災直後に動いたものと思われる。
震災の起きた翌々日(9月3日)、戒厳令が発令された直後に朝鮮人の朴烈と愛人の金子文子が東京淀橋警察署に連行されている。
Wikipediaの解説にはこう記されている。
朝鮮独立運動家と思われていた朴烈を取り締まることが目的であったが、特別に反乱を準備していたようなめぼしい証拠はなく、逮捕理由は不十分であった。しかし予審などで朴烈自らが天皇を暗殺しようとしていたと供述したことから、爆発物取締罰則違反から一転して、大逆罪で告発された。1926年3月には死刑判決が下された後、同年4月になって天皇の慈悲による恩赦によって無期懲役に減刑されると、朴烈は激怒した。朴烈は減刑拒否を宣言したが、無視されて無期懲役刑に決まった。なお、獄中で結婚する意向だったがこの三ヶ月後に文子は死亡している。
朴烈や金子の証言は、福岡貴善著『金子文子はなぜ死んだのか〜幻の皇太子裕仁暗殺計画』に出ているが、この本は以下のURLから無料でダウンロードができるので興味のある方は覗いて頂きたい。
朴烈らが警察に連行された9月3日には、朝鮮独立運動派を支援していた大杉栄が憲兵隊・甘粕正彦大尉に殺害される事件(甘粕事件)が起きている。上の画像は前回に紹介した大阪毎日新聞の記事だが、彼らの活動を支える武器や資金は、片山潜、大杉栄らの無政府主義者から出ていると解説されている。このような人物を危険としてマークすることは理解できるが、殺害するべきではなかったことは言うまでもない。この事件については、主犯は甘粕でないという説が根強くあり、真相については闇の中だ。
無辜の朝鮮人の殺害はどの程度あったのか
最後に、殺害された善良な朝鮮人はどの程度の数であったかについて触れておこう。
加藤康男氏の『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』によると、震災時東京には9千人、横浜ほか東京近県には3千人の朝鮮人がいて、夏休みで帰省していた学生を差引くと9千8百人程度が東京・横浜近辺にいたと推定できる。
そして、軍と警察が習志野などで収容した朝鮮人が6797人いて、内務省が認める過剰防衛による朝鮮人の死者が233人なのだそうだ。差し引くと2千7百人程度が残るのだが、そのうち震災で建物の下敷きになったり焼死したりした者が、1千9百名程度いたと推定しておられる。しかしながら彼らの居住地は住宅密集地が多く、震災で焼死や圧死した可能性は日本人よりもかなり高かったと考えられ、2千人を大きく超えていてもおかしくないだろう。吉野作造は「在日関東地方罹災朝鮮同盟慰問班」の数字をほぼ鵜呑みにして、「虐殺された朝鮮人」の人数を2千6百人としたのだそうだが、この数字だと地震で死んだ朝鮮人がほとんどいなかったことになってしまうのだ。
震災中に民間人などに殺害された朝鮮人が数百人程度あったとしても、悪事を働いたがゆえに袋叩きにされた者がかなりいたはずである。問題となるのは無辜の朝鮮人が殺害されてしまったケースだけなのだが、その数字は内務省が公表している233人を大幅に上回ることはないのではないだろうか。
当時の記録を読めば読むほど、「朝鮮人暴動」の流言飛語により多くの朝鮮人が虐殺されたという通説に強い疑問を覚えざるを得なくなってくる。善良な朝鮮人が大半であったとは思うのだが、暴動を起こそうとした朝鮮人が確実に存在したのであり、多くの避難民が鉄棒などの武器を手にしたのは自衛のためであったのである。
マスコミなどで今も広められている通説には、関東大震災の数年前からから朝鮮人のテロ組織が日本人に対して散々悪事を働き、天皇や皇太子の暗殺まで計画していた史実を全く書かないのだが、これは歴史叙述として大いにバランスを欠くものだと言わざるを得ない。反日国家や共産勢力にとって都合の悪い史実をすべて封印しなければ成り立たないような偏った歴史は、史実に基づいた公平なものに書き換えられていくべきだと思うのだが、読者の皆さんはどう考えられますか。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、 前ブログ(『しばやんの日々』) で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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