日本人移民と米国黒人との関係は良好であった
レジナルド・カーニー著『20世紀の日本人』によると、米国黒人たちが自分たちと日本人を同一視する見方が一般的になったのは一九二〇年代だという。その当時黒人向けメディアの『フィラデルフィア・トリビューン』紙が西海岸で行った調査によると、次のように記されている。
黒人たちは、日本人を心から尊敬している。同じ『抑圧された民族』であるにもかかわらず、「自分たちのために、一生懸命努力する」日本人の態度は、見習うべきものである、と。
『20世紀の日本人』p.82
アメリカ西海岸では白人と日本人と黒人が混在して居住し、摩擦と協調の日々を繰り返しながらも同じアパートで暮らしていて、概して黒人と日本人との関係は良好であったようだ。前掲書にはこう記されている。
白人は、黒人が移り住む前の一九一〇年にはすでに西海岸に住んでいた。日本人については、ちらほら移り住みはじめたのが一九一四年ごろ、本格的に入り出したのは一九二一年以降だった。
白人のマジョリティーのなかにこれらふたつの人種が入り込み、そのうち徐々に、「白人と日本人、白人と黒人の意見の対立」が表面化していった。白人のなかには、日本人よりも黒人を好む者もいたし、またその逆もいた。しかし、白人たちの関心は、あくまで豪華できれいな家に住むことだった。つまり、彼らが気にしていたのは、黒人や日本人が近所に来ることによって、不動産の価値が下がることだった。かと思えば、黒人や日本人の流入を抵抗なく見守る、リベラルな白人もいた。
当時の日本人移民へのインタビューによると、白人は日本人を避ける傾向があったのに対し、黒人たちの反応は暖かいものだった。ある移民は、移り住む際に、あえて黒人の近所を選んだと語った。「黒人は白人に比べて、日本人への偏見が少ない。親切だし、一緒に住めることを喜んでくれさえもする」というのがその理由だった。
同上書p.83
黒人もまた日本人を暖かい存在だと感じていた。その理由はどのような点にあったのだろうか。
…日本人は黒人の権利と尊厳を認め、平等に扱ってくれる。彼らはそう考えていたのだ。その証拠に、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、ふたりは黒人だった。そのことに触れて、『カリフォルニア・イーグル』紙は、次のように述べている。「ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日本の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。同じ人種の医者に診てもらうことの出来る安心を、患者は得ることが出来るのだから。」
黒人を差別しない日本人というイメージは、黒人のメディアを通じて、またたく間に西海岸中にひろまった。そこには、黒人と結婚する日本人が取り上げられていた。白人がひどく嫌う黒人との人種混交を、日本人は受け入れている。このことは、日本人が人種平等を心から目指していることを示す、何よりの証拠だと黒人たちは考えた。
同上書p.88~89
このように米西海岸では日本人移民と米国黒人との関係は良好であったのだが、その頃わが国に関東大震災が起こっている。この地震が、アメリカの白人と有色人種との関係に与えた影響は大きかった。
関東大震災の報に接し日本支援に立ち上がった米国黒人たち
大正十二年(1923年)九月一日に発生した相模湾の北部を震源地とするマグニチュード七.九の大地震は、東京、神奈川を中心に約十万五千人の死亡・行方不明者が出たことを以前このブログで三回に分けて書いたが、死者の九割近くは火災によるもので、東京、横浜の中心部がまるで大空襲でもあったかのように焼失し、津波による被害も大きかった。
この大地震のニュースは十二時間後にはアメリカに伝わり、シカゴの白人政治家たちが日本を救援するキャンペーンを始める記事が、黒人向けメディアの『シカゴ・ディフェンダー』紙の紙面を飾ったのだが、この記事に対する米国黒人の反応が非常に興味深い。
…この記事を読んだある黒人の読者は、「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と主張した。それを受けて、同紙は即座に、黒人による日本人救済のキャンペーンを始めた。
同上書p.83~84
真っ先に百ドルの寄付を行なったのは、ジェシー・ビンガというビンガ州立銀行の頭取だった。ビンガは一九二一年に銀行の経営を始めた実業家であるが、以前から多くの不動産を持っていた。大震災の十ヶ月ほど前、彼はアメリカの社会事情を学んでいた何人かの日本人留学生に会い、日本人がいかに一生懸命、人種平等のために努力を重ねているかを知り「痛く感激した」という経緯があった。このことが、逸早く多額な寄付につながったのは言うまでもなかった。
『シカゴ・ディェンダー』紙は「黒人として何が出来るかを考えよう」と呼びかけた。「確かに、我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか」。同紙の熱心な呼びかけは、しだいに多くの黒人のあいだに浸透し、日本救済への機運は徐々に高まっていった。
海外から最終的に関東大震災の義捐金がどれだけ集まったかについては良くわからないのだが、全世界からかなりの義捐金が集まったようである。
当時の新聞記事を神戸大学付属図書館の新聞記事文庫から探すと、九月十日の大阪毎日新聞の記事が見つかった。ここにはイギリス、インドほか世界からの支援があったことに加えて、排日活動が過激であったサンフランシスコも日本支援に動いたことが書かれている。
見出しには、「排日巨頭連も一様に日本支援の演説」と書かれて次のように解説されている。
【サンフランシスコ特電八日発】全米国各地は日本救済のため大運動中である。
サンフランシスコからは八日、パシフィック・メイルのプレジデント・タフト号が出帆したはずであるが、同船にはロスアンゼルス及びサンフランシスコ同胞の寄贈せる薬品、サンフランシスコ同胞よりの米二千俵等を積んである。カリフォルニア米穀組合は奸商等の米買占めに応じないで現在の相場で五十万俵を日本へ送ると発表した。在留同胞は片端から義金募集中で米人の同情も甚だ多い。
ゴムバース、ジョンソン氏等の平素排日的論調を有する人々も皆一様に日本救助を演説している。全米各新聞は日毎に救助論を書いている。
サンフランシスコ赤十字社は五十万ドルを送るはずで、その他の団体も送金の運動中である。ただ船腹がなくて品物の発送に困っている。サンフランシスコ市長ロルフ氏は自分の船四隻を直ぐ出すことを発表した。米人側から子供や婦人が続々寄附に来て涙がこぼれる程である。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(3-117)
また『子どもは未来である』の「忘れられた国際支援」という記事によると、アメリカ赤十字社に「日本救済事務所本部」が設置され、日本救済募金が二千五百万ドル(約五千万円:現在価値で六百億円相当)が集まったと書かれ、シカゴ市で日本救済金を募集している人々の写真が紹介されている。このように人種に関係なく、日本を助けようとする善良な人々が全米で数多くいたこともまた事実なのだ。
「排日移民法」により日本人移民が禁止された
しかしながら、この大震災における日本支援運動が米国における排日の流れを止めることにはつながらなかった。
地震からわずか三ヶ月後に、帰化できない外国人のアメリカ入国を禁止する法案がアメリカの上下院に提出されている。この法案の内容は各国からの移民の上限を一八九〇年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者の二%以下にすることを目的とするもので、特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられていた。
日本人のアメリカへの移民が増えだすのは、以前にも書いた通り明治二十年(1887年)以降のことであり、この法律は実質的には日本人にターゲットを絞ってその移民を禁止するものである。わが国では「排日移民法」と訳されているこの法案は、翌一九二四年四月に下院で、五月には上院で可決され、七月一日に施行されてしまった。
次に紹介するのはこの法案が下院を通過した直後の大阪毎日新聞の記事だ。
…もし米国上院議員等が人種的僻見や一片の感情にとらわれていないとすれば、そして国家間の交渉に当り、これが埴原大使のいわゆる「常に公明正大という高遠なる原則の上に立脚せねばならぬもの」とすれば如何なる排日議員も、あの排日条項そのままにおく訳には行くまい。…
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 移民および植民(14-138)
要は締盟国のある国に、差別的待遇を与えるか、与えないか、われらが今次の移民法案に反対するのは移民そのものの制限よりも、なんら移民と関係のない帰化不能の理由を以て特に日本移民を禁止する点にある。
少しわかりにくいので補足すると、関東大震災の一年前の一九二二年の十一月にアメリカの大審院が「黄色人種は帰化不能外国人であり帰化権はない」という人種差別丸出しの判例を出している。それだけでも問題であるのだが、過去に帰化した日本人の権利まで剥奪ができるとし、第一次世界大戦にアメリカ軍の兵士として兵役に服し、復員後、帰化権を得てアメリカ市民になった五百人以上の日本人も、その帰化権を剥奪されたのである。
この「排日移民法」は、日本人は帰化が禁止されているので移民もできないという理屈なのだが、この法律は明らかに日本人を差別する法律であり、わが国が激怒したのも当然だと思う。
米国黒人向けメディアの論調が急変した
万国黒人地位改善協会を設立したマーカス・ガーベイは、日本の指導によってアジアの民族が一致団結することでアジアの復活が可能となり、そのことによってアフリカ民族団結への意識を呼び覚まし、アフリカ人が本来のアフリカを取り戻すことが可能になると考えていた。
ガーベイと万国黒人地位改善協会は、関東大震災で大損害を受けたわが国に対して深く同情し、日本に対し五百ドルの寄付を行なったのだが、その後に排日移民法が可決されたことにより、ガーベイは日本とアメリカとの戦争を予期したという。
米国黒人の間でも日米開戦がささやかれるようになり、もし開戦ともなれば、日本を無視すべきか、加勢すべきか、中立を守るべきかで、彼らの間で議論がまき起こったという。しかしながら、主要な黒人メディアの論調は、何らかの圧力があったのか、彼らの期待に副うものにはならなかった。
『シカゴ・ディフェンダー』紙は、この黒人たちの迷いに、ある方向性を示した。同紙は、黒人の中には、日本の勝利を前提とした日米開戦を心待ちにしている者がいることに触れて、それは「堕落した夢」であると警告した。「たとえ日本に同情を寄せたとしても、身と心はアメリカに捧げなければならないのだ」。同紙はまた、現状を次のように見ていた。「白人のためなら…水の中にも潜らなければならない。たとえ溺れても、どこまでもついていかねばならないのだ」。最後に、同紙は次のように締めくくっている。アメリカの黒人たちはつねにこう答えるよう期待されている。「白人様がやれとおっしゃるのなら…。
『20世紀の日本人』 p.86
一八六三年のリンカーンの奴隷解放宣言でアメリカの黒人は白人と平等になったわけではなく、その後も人種差別が続いて貧困から解放されたわけでもなかった。
黒人たちは生活のために白人に仕え、兵士として戦場の最前線に送り込まれ、アメリカの白人社会を支える役割を担わされてきたのだが、貧困である限りアメリカ黒人たちは白人に逆らっては生きていけない悲しい存在であったのだ。
その貧しい黒人たちが、なぜ日本を愛したのか。なぜ、関東大震災の後に日本を支援しようとしたのか。そして日本国民が関東大震災直後でまだまだ苦しんでいる時期に、なぜアメリカ議会で「排日移民法」が提出され可決されたのか。
これらの史実はアメリカの人種問題を抜きに理解することは困難である。米国黒人が自発的・献身的に日本を支援する動きは、有色人種が白人社会を支える仕組みを崩壊させることに繋がるとして、白人にとっては脅威であったことは確実だ。
アメリカの為政者たちは、白人優位の社会を守るために米国黒人と日本人とが接近することを阻もうとし、米国全土で排日施策の強化を急いだというのが真実ではないのか。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓
【ブログ内検索】
大手の検索サイトでは、このブログの記事の多くは検索順位が上がらないようにされているようです。過去記事を探す場合は、この検索ボックスにキーワードを入れて検索ください。
前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。長い間在庫を切らして皆様にご迷惑をおかけしましたが、このたび増刷が完了しました。
全国どこの書店でもお取り寄せが可能ですし、ネットでも購入ができます(\1,650)。
電子書籍はKindle、楽天Koboより購入が可能です(\1155)。
またKindle Unlimited会員の方は、読み放題(無料)で読むことができます。
内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
コメント