葛城修験道霊場で近世以来紅葉の名所として知られる大威徳寺
このブログで秀吉の紀州攻めで泉南から和歌山にかけて多くの寺や神社が焼かれたことを書いた。泉南地域の寺社を調べると国宝や重要文化財が意外と多く、興味が湧いたので先日旅程を組んでいくつかの寺社を巡って来た。
最初に訪れたのは大威徳寺(だいいとくじ:岸和田市大沢町1178-1:天台宗)である。寺には駐車場がないので、500mほど離れた観光用の駐車場から緩い坂道を歩くことになる。
上の画像は大威徳寺の山門だが、この寺の近辺は近世以来紅葉の名所として知られ、寺の境内一帯は大阪府の名勝に指定されている。
伝承によるとこの寺は役小角(えんのおづぬ)が開創したとされ、古くから葛城修験道の霊場として栄えたというが、今は紅葉時期を除いては訪れる人は少ない。
拝観は無料で自由に境内を散策することが出来るが、本堂の扉は閉じられていて、中に安置されている大威徳明王、不動明王、阿弥陀如来の本尊の鑑賞ができないのは残念である。
寛政八年(1796年)に刊行された『和泉名所図会』に、この地に紅葉見物に興じる人々が描かれている。上の画像は『和泉名所図会 巻之三』の『牛瀧丹楓見(うしたきもみじみ)』で、ある。
山門を潜り境内に入ると牛の石像がある。このあたりの透き通るような青々したもみじも美しいが、できれば紅葉の盛りを見たいものである。境内の横を流れる川は「牛滝川」といい、川の上流に牛の姿に似た岩があることが川の名前の由来であるという。川の名前にちなんでこの寺の山号は「牛滝山」なのだそうだ。
ネットで検索すると、この寺は秀吉の紀州攻めで焼かれたと書いているサイトがある。公式なサイトや学術サイトではそれを確認することが出来なかった。寺の住職さんに確認すると、そうなのかもしれないが、もっと古い時代に建てられた多宝塔は残されている一方、本堂は江戸時代の延宝八年(1680年)に再建されている。寺には古い記録が残されていないので詳しいことはわからないとのことであった。
上の画像は『和泉名所図会』に描かれている大威徳寺の中心部で、多くの坊舎が別のページにも描かれているところをみると、かつてはかなり大規模な寺院であったことがわかるのだが、現在はわずかに本坊一坊のみとなっている。
上の画像は永正年間(1504~21年)に造立された多宝塔で国の重要文化財に指定されている。青もみじに囲まれた朱塗りの塔は、紅葉の時期にはさぞ美しいことであろう。
上の画像は本堂である。多宝塔も本堂もなぜか山側に向かって建てられていて、山門から近づいてカメラを向けると、それぞれの背面の画像を撮ることになる。昔は山から本堂に向かう参道があったのかと考えたのだが、『和泉名所図会』をみてもそのような参道は見当たらない。その点について住職に訊いてみたのだが、それも理由がよくわからないと言われた。
本堂から少し歩くと3つの滝があり、昔修験者たちはこの滝に打たれて修行したのであろう。上の画像は本堂に一番近い一の滝である。さらに二の滝、三の滝がありさらに上流に進むと錦流の滝(下画像)がある。
岸和田にこんなに素晴らしい自然に囲まれた古刹が残されていることに感動したのだが、紅葉時期以外に観光する人が極めて少ないことは残念なことだと思う。寺の近くに牛瀧温泉「四季まつり」という施設があるようだが、この施設を利用しても寺を訪れる観光客はほとんどいないという。
田舎の寺はどこでも過疎化に悩み、檀家が減って収入が細るばかりであるが、この寺は国の重要文化財もあり、修験者たちの修行の場であった雰囲気も残されている。地元のボランティアを募って、観光収入を得る仕組みは考えられないものだろうか。地元の人々が観光で潤う道を開拓しなければ、このような文化遺産を守っていくことは容易ではない。
秀吉の紀州攻めで焼かれた神於寺
次に向かったのは、やはり葛城修験道の霊場であった神於寺(こうのじ:岸和田市神於町185:天台宗)で、この寺も役小角が開創したとの伝承がある。
岸和田市のホームページの『岸和田のむかし話』に『神於寺縁起絵巻』の内容が紹介されているとおり、この寺も歴史ある大寺であったのだが、今はその面影はない。
『神於寺縁起絵巻』は南北朝時代に描かれたもので、寺の宝として大切に残されて来たものであろうが、残念ながら今では、切り取られた断簡が国内外に散逸してしまっている。
また岸和田市の観光課が制作した神於寺の解説ページでは「織田信長が紀州攻めの際に付近に逗留したこともありました」と記されているが、山川出版社の『大阪府の歴史散歩 下』では「1585(天正13)年、羽柴(豊臣)秀吉の紀州攻めの際に大日堂、不動堂を残して焼亡した(p.264)」とある。
その後、江戸時代に岸和田藩の支援で復興されたようなのだが、江戸時代の神於寺の境内図が『和泉名所図会 巻之三』に掲載されている。この当時は多くの塔頭寺院が建ち並んでいたのだが、今はほとんどが農地となっており、福智院という寺が唯一残されている。
狭い参道を直進してどんつきまで進むと神於寺の大日堂(上画像)と不動堂がある。大日堂の横にはこの寺が明治の廃仏毀釈で壊滅的打撃を受け、天保十二年(1841年)に上棟されたこの大日堂は辛うじて残されたことが記されていた。ということは、秀吉の紀州攻めで奇しくも残された大日堂は、江戸時代に再建されていたということになる。現在の神於寺には国や大阪府、岸和田市が文化財に指定している文化財はなく、神於寺跡が岸和田市の名勝に指定されているだけである。
秀吉の紀州攻めで残された国宝の孝恩寺・観音堂
次の目的地は孝恩寺(貝塚市木積798:浄土宗)である。この寺の開創時期は不明だが、元禄七年(1694年)に再建され、大正三年(1914年)に廃寺となっていた隣の観音寺の観音堂を接収したという。そしてこの観音堂が孝恩寺の本堂として使われているのだ。この寺の拝観には事前の予約(☎072-446-2360)が必要である。
孝恩寺に接収された観音寺は、神亀三年(726年)に行基が創建し、行基みずからが刻んだ観音像を安置したと伝えられている由緒ある大寺であったのだが、この寺も秀吉の紀州攻めで焼かれてこの観音堂だけが残され、平安時代に制作された仏像は池に投じられて、戦火がおさまるのを待って水中より取り出して、観音堂に収められたと言い伝えられている。
上の画像が観音堂だが、この建物は鎌倉後期に建築されたもので、大阪府下では最古の木造建造物であり現在国宝に指定されている。また、釘を使用していないことから「釘無堂」と通称されている。
観音堂の中に入り参拝させていただいたが、観音寺に伝わる19体の仏像(いずれも国の重要文化財指定)は収蔵庫に格納されていて、劣化や形状変化を防止するため毎年6月1日~10月15日までは非公開にしているとのことで鑑賞することは叶わなかったが、『観仏日々帖』というサイトに、孝恩寺の個性的な仏像の一部の画像が掲載されているので紹介させていただく。
秀吉の紀州攻めですべてが焼かれた水間寺
孝恩寺から1kmほどのところに水間寺(貝塚市水間638:天台宗)がある。
寺伝によると、天平年間に聖武天皇の勅願により行基が開創したとされる古刹なのだが、この寺も秀吉の紀州攻めで堂塔のほとんどを焼失してしまったという。江戸時代に入って岸和田藩主岡部氏の庇護を受け元禄年間に堂宇が再建されたが、天明四年(1784年)の火災で再び焼失してしまう。
現在の本堂は文政十年(1827年)に再建されたもので、二重屋根に本瓦を葺いた重厚感のある堂々とした建物である。
現在の三重塔は天保五年(1834年)に再建されたもので、明治以前に建てられた三重塔は大阪府内ではここしかないのだそうだ。この寺の本堂、三重塔のほか、護摩堂、行基堂、弁財天宮殿が貝塚市の有形文化財に指定されている。
根来衆の出城と秀吉の紀州攻めの主戦場
岸和田城の中にある岸和田市立郷土資料館に「根来出城図」が展示されている。
画面の右側に縦に流れる川を近木川というが、川の近くにに六つの城が描かれている。上から千石堀城(山の上に「本城」と書かれている)、高井城(川の左)、積善寺(しゃくぜんじ)城、畠中城(川の左)、窪田城(川の右)、沢城で、沢城のみが雑賀衆の出城で、残りは根来衆の出城である。
上の画像は根来衆の出城(緑)や、秀吉勢に焼かれた寺社(赤)をプロットしたものだが、水間寺や孝恩寺はかなり千石堀城から近い場所にある。
まだ一度も乗ったことがないのだが、南海貝塚駅から水間観音駅(国登録文化財)までの5.5kmをつなぐ水間鉄道という電車がある。この電車はしばらく根来衆の出城の近くを通っていくのだが、水間観音駅から2.3kmの名越駅の近くに高井城と千石堀城があり、さらに1.2km先の石才駅の近くに積善寺城があり、さらに1.2km先の貝塚市役所前駅の近くに畠中城がある。
天正十三年(1585年)の秀吉の紀州攻めは、根来衆・雑賀衆の防衛線の東端にあたる千石堀城から開始されている。
千石堀城攻めの大将は羽柴秀次で、堀秀政・筒井定次・長谷川秀一・田中吉政ら約三万三千の兵を従えていたという。一方、城の中には根来衆の精鋭約千五百人と婦女子など非戦闘員が四~五千人いて、羽柴軍は根来衆の猛烈な鉄砲の反撃を受けてわずか半時(約1時間)で千人以上の死傷者が出たとルイス・フロイスの記録にある。しかしながら兵力で勝る羽柴軍は城に火を放って城を炎上させ、城内にいた根来衆を全滅させたという。
千石堀城が陥落すると、畠中城の城兵は城を自焼して退却した。また、積善寺城の攻略には細川忠興・大谷吉継・蒲生氏郷ら、沢城の攻略は高山右近・中川秀政らが担当したが、これらの城はなかなか落城せず、羽柴秀吉は卜半斎了珍を仲介として両城に和睦を持ち掛け、根来衆・雑賀衆はそれに応じてそれぞれの領地に引き上げていった。かくして泉州にあった根来衆・雑賀衆の出城は秀吉の軍門に落ち、羽柴軍は紀伊国に向けて進軍することとなる。
ルイス・フロイスが記した秀吉の紀州攻めと寺の破壊
となると、水間寺や孝恩寺などはなぜ焼かれたのだろうか。根来衆らが逃げて寺に立て籠ったのなら理解できるのだが、抵抗したから焼かれたわけではなさそうなのだ。ルイス・フロイスの『日本史』には根来の盆地で秀吉の軍が寺を焼いた様子について次のように記している。泉南の寺も同様な理由で焼かれたのだと思われる。
羽柴の軍勢は根来の盆地に入り、羽柴(秀吉)はそこで一夜の陣営を設けた。かの根来衆の僧侶たちは富裕であり、羽柴の兵士たちはなによりも根来衆が財産を貯えている町や寺院や家屋を掠奪することを望んでいたので、夜明けまで待つことは彼らにとって耐え難いことであった。彼らはまた夜が明けて羽柴(秀吉)がその豪華な寺院や立派な屋敷を見るに及ぶと、それらを焼却することを禁じ、大坂へ移すよう命ずるかも知れないと心配し、同夜、大風が吹いたのを幸いとして兵士たちは各所に放火し、あらゆるものの掠奪を開始した。火の廻りは早く、その勢いは凄まじく、すでに羽柴(秀吉)が投宿している家屋も焔に包まれかけたので、彼は急いで家から出、その夜はある山頂で過ごした。このようにして、地形を熟知している者によれば、かの広大な根来の盆地において千五百以上の寺院、およびその数を上回る神と仏の像が炎上したと言うことである。それらの持主であった仏僧らは日本で見られる中でもっとも豪勢かつ富裕な人々であった。また粉河と槇尾の寺院*に対しても同様な仕打ちが加えられたが、それらの寺院の数は五百を超えたと言われる。
*粉河と槇尾の寺院:粉河寺(和歌山県紀の川市)と施福寺(大阪府和泉市)のこと。但し施福寺は天正九年(1581年)に信長軍に焼かれたと伝わる。
(中公文庫『完訳フロイス日本史4 豊臣秀吉篇Ⅰ』p.65~66)
足軽などの雑兵にとって戦場は稼ぎの場であったわけだが、ただ掠奪が目的であるならばこれだけ多くの寺や神社に火を点けることはないだろう。しかも、軍の進む方向とは全く異なる寺までわざわざ出向いて焼いているのはどう考えても不自然である。このブログで以前書いたように、羽柴軍に多数いたキリシタンの武士や雑兵が火を点けに行った可能性を、私は強く感じている。
フロイスの『日本史』を読めば、宣教師の教唆により信者が寺や仏像を焼く場面が何度もでてくるのだが、フロイスらキリスト教の宣教師たちは、異教である寺や神社の建物や仏像などを破壊することは、「デウスへの奉仕」と信者に教えていたことも記されている。だとすれば、『紀州攻め』のように仏教勢力と直接戦うことはキリシタンの武将や兵士にとって、神に奉仕できる絶好のチャンスであったということになるであろう。フロイスが『日本史』で寺や仏像などを焼いた記録を数多く書いているのは、キリシタンの信徒たちが「デウスへの奉仕」のために、「異教」の信仰の対象である寺や仏像の破壊に頑張ったことを、日本のキリスト教布教史に残すためではなかったか 。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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