前回記事で、昭和初期のわが国で多くの若者が左翼思想に共鳴し、全国の学校だけでなく軍隊にも赤化工作が行われていたことを書いた。当時は私利私欲で動く政治家が政争を繰り返し、庶民は貧困に喘ぐ状況が続いてマルクスやレーニンの思想に共鳴する若者が多く、過激思想が急激に拡大していったのである。
日本共産党大検挙の後は、大学や専門学校で左翼運動が続いていた

Wikipediaによると、当時の日本共産党の組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の二つの柱を持っており、非合法の地下活動を展開しながら、労農党や労働組合などの合法活動を行っていたという。しかしながら、昭和三年(1928年)三月十五日には治安維持法により千六百人にのぼる党員と支持者が一斉に検挙され、翌年四月にも約千人が検挙され、日本共産党は多くの活動家を失ってしまった。ところが、大学や高校ではその後も左翼思想を持つ学生が増加し続け、左翼運動の取締りが強化されていた。上の画像は昭和三年十二月三十日の台湾日日新法の記事だが東京の有名大学で多くの「左傾的学生」が検挙されたことを伝えている。これだけの人数が検挙されたのであれば実際には十倍以上の「左傾的学生」が存在し、東京だけでなく全国の大学や高校でも数多くの学生が左傾していたと考えて良いだろう。そして彼らの中から過激な活動家になった者は多くなかったとしても、大半は卒業後に企業や官庁や軍隊などに入って左傾思想を拡散していったことに違いない。
満州事変後に学生や労働組合の思想が変化した

昭和六年(1931年)九月に満州事変が起こると、警察は大学や専門学校における極左活動家を相次いで検挙したのだが、その後重要な変化が生じたことを報じている。
学生の潜行運動は依然としてとどまる処なく魔の如く当局を脅威している、これと前後して満州事変突発を契機に都下の各大学、専門学校では一種の右傾運動が起り、これに確乎たる社会科学的理論を把握すべきことを主張し、正月早々その結成に向って歩を起さんとしている、この事実は従来、凡そ社会生活に強度の関心を持つ程度の学出群が極左主義的道程を、ひた走りに走らんとする唯一の傾向に相対抗して、右翼的な国粋主義学生群が科学的理論をふりかぶって力強き学生運動をまき起すことにより学生群に明暗二流の未曾有の新傾向を植えつけるものとして文部省はじめ各方面に重大な衝動を与えるに至った。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-170
左翼運動が活発に行われていた同じ大学や専門学校などで、今度は左翼運動に対抗する形で右翼的な国粋主義学生軍が起ち上がり、右翼運動が起きたことを報じている。しかしこの新しい動きは、左翼運動に対抗して生まれたとする理解は正しいのであろうか。

右傾化したのは学生だけではなかった。上の画像は昭和七年三月十三日の東京朝日新聞だが、全国労農大衆党の支持団体である全国労働組合が国家社会主義に転向することを提唱したことを報じている。見出しにある「無産派」というのは非合法である日本共産党を除く労働者階級の政党や組合を意味し、当時は社会民衆党、全国労農大衆党、全国労働組合、全国農民組合がそれにあたるのだが、社会民衆党は前年末にすでに国家社会主義に方向転換をしていた。東京朝日新聞の上記の記事に、全国労農大衆党の有力支援団体である全国労働組合が党に提出した意見書の内容が記されている。
一、共産主義的観念に党を拘束せず現実に即して、今日の資本主義情勢に対応して党を活発に躍進せしむべきにも拘らず、今次の如き満蒙事変発生するや我党は党の活動を休止して党の指導大衆をも俗悪な日和見主義に彷徨せしむるに至った
二、日本において現在の如くプロレタリアートの組織勢力弱勢なる以上、国民の凡ゆる階層の反資本主義的勢力を結集し主体勢力を完成すべきに、我党の欠陥としてはこれに対する実践的戦略を欠除している
三、政権獲得は大会の声明を以て終るべきではなく、党は過去の形式的立場を清算し国家社会の現実に即し政権獲得の一路に直進せよ
『神戸大学新聞記事文庫』議会政党および選挙(36-153)
無産政党は何度も離合集散を繰り返していたのでわかりにくいのだが、この記事の出た四か月後の七月に全国労農大衆党と社会民衆党が合同して社会大衆党が結成され、無産政党の統一が実現している。そして無産政党がすべて愛国陣営に入ったことになる。
共産主義者が転向して愛国陣営に流れ込んだ
左翼思想の取締りが強化されると同時に右翼組織が急拡大したことに違和感を覚える人は少なくないだろう。当時の新聞には共産主義者が大挙して右翼陣営に流れたことが報じられている。このような史実が、戦後の歴史叙述では封印されてしまっている。

昭和七年十二月十七日から二十五日にかけて大阪時事新報に掲載された『愛国陣営を見る』という連載記事には、以下のように解説されている。
マルクス主義に立つ無産陣営に於ても昨年に至るや、客観的情勢の変化から、遂に国家の権力によって社会主義を実現せんとする国家社会主義理論を抱く者漸く多きを加うるに至った。即ち社会民衆党に於ては九月赤松克麿氏が愛国陣営の津久井、石川、松延諸氏と結んで日本社会主義研究所を創立。機関誌「国民主義と社会主義」を出して左右両陣営に一大ショックを与えたのを切っ掛けに、赤松克麿氏一派は社民党を脱退した。又大衆党内では今村等、望月源治両氏除名問題から国家社会主義派と社会民主々義派の対立抗争となり安芸盛、山名義鶴、熊本与市、自鳥広近諸氏脱退。更にかって共産主義陣営にあった中村義明、前納善四郎、小岩井浄、蔵下政雄の諸氏を初め国家主義に急転向した者が多い。これ等の転向者を迎えて積極的に働きかけ国家社会主義理論からより高い皇道主義に誘導せんと努めたのは愛国勤労党である多年無産党のシンバとして裏面に活躍した下中弥三郎氏か首唱に係る経済研究会(昨年十二月創立)が産婆役となって一月十七日生れたのが日本国民社会党準備会で、顔触れは愛国勤労党の鹿子木員信、天野辰夫、中谷武世、小栗慶太郎、神永文三。大衆党系の日本労働組合総連合の坂本孝三郎、近藤栄蔵、高山久三。下中派下中弥三郎、佐々井一晃。日本村治派同盟の長野朗、津田光造、古谷栄一の諸氏で、「建国の本義に基き搾取なき新日本の建設を期す」と宣誓して従来は左右両翼に理論的にも実践的にも相対時して来た人々が国家主義の屋根の下で着々新党組織に努力していた
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題6-157
「国家社会主義」とは、「国家権力によって社会主義を実現しよう」とする考え方だが、この考え方では社会主義国家を目指す思想ではあるが、天皇制は護持することになることから「右翼」と分類され、合法であったがために大量の共産主義者が転向してなだれ込んだということではなかったか。太字にした近藤栄蔵は、コミンテルン日本支部準備委員会から日本共産党設立に関与し、日本共産党中央委員に選出された人物だが、このような経歴の人物が共産思想を簡単に捨て去るとは思えない。共産主義者の多くはわが国を社会主義国家とする目的のために「転向」したのではないのか。
ファシズムの抬頭
前回記事でGHQ焚書の『孤立日本の危機』(昭和七年刊)という本の一部を紹介させていただいた。この本の中で著者の富山直孝はファシズムの台頭について次のように解説している。
資本家の横暴、既成政党の堕落があるかと思えば、一方には左翼の政党もあり、かつ国体を否定し、私有財産を否認する共産主義の一団も現れるに至ったが、これとともに国粋主義者、ファシズムも無力なる既成政党の陣営をほふるべく漸次台頭するに至った。しかして、左右両翼の闘争となり、あるいは既成政党の間にしのぎを削るに至った。かくて日本は対外対内共に患うべき状態となったのである。しかも近来に至っていよいよ激甚となった。
一方に共産党が存在するとともに右翼政党としてのファシズム政党が生まれるとは誰もが考えていたところであるが、満州事変、上海事変によっていよいよ国家意識は国民の間に熾烈となり、かつ国民生活の不安に対する既成政党の無能、金融資本家の横暴よりして意外にも早くファシズムは台頭したのであった。しかも中には左翼政党より転向せるものも少なくなかった。
しかし日本には未だに完全に『日本ファシズム』としての理論を押し立てている政党はない。大日本生産党、日本国民党などは一つの政党ではあるが、ファシズムと言えば暴力的、非合法的、圧政的、しかして多分に革命的なところから、いずれも自ら『我々はファッショ』なりと名乗りを上げることをさけている。否、ファッショと言われればこれを否定している。ここにも日本人のなまぬるさがあってはがゆい。政党と言うには至っていないが、国粋主義を奉じて受難の現日本を救済せんとするファッショ的団体は至って多い。
中でも国本社の如きはその雄なるもので、会長は前大審院長・前司法大臣にして現枢密院副議長たる平沼騏一郎氏である。会員には軍人、その他国家を患うるの士で荒木陸相の如きも若干関係があると言われている。しかしこれも自らファッショでないと称している。即ち『我が国には我が国独自の目的もあり、使命もある。この目的・使命はみな道徳を本としている。わが国本社はこれに基礎を置くもので、外国に端を発したるファシズムとは何らの関係なきものである』と言っている。
次に大川周明、北一輝等によって組織されている行地社なるものがある。これは多分に暴力的な存在である。
暴力的と言えば団琢磨、井上準之助を暗殺した血盟団員の如きもファッショの洗礼を受けたものであった。即ち先に挙げた菱沼五郎はその一員であった。
富山直孝『孤立日本の危機』日本図書刊行会 昭和7年刊 p.25~26
政治家が国家の存立も国民の生活も考えないような政治を続けていれば国民の不満は高まって行き、軍部に於いても、ロンドン海軍軍縮条約を締結し、軍部の予算を絞り込んだ内閣に不満を持つものが多かった。

そして憤慨するだけでは我慢できずに要人のテロを狙う人物が現れて来ることになる。昭和五年には愛国者党員に濱口首相が狙撃される事件があり、昭和六年三月には日本陸軍幹部によって計画されたクーデター未遂事件(三月事件)が起こり、十月にも同様なクーデター未遂事件(十月事件)が起きている。昭和七年二月には井上準之助(前大蔵大臣)との団琢磨(三井合名加会社理事長)が暗殺される事件(血盟団事件)が起きている。
血盟団事件は大事件であったのだが、判決は求刑と比べてかなり軽く、しかもなぜか昭和十五年にメンバーは全員恩赦されている。それだけではない、犯人グループのうち東大生の四元義孝はなぜかすぐに近衛文麿の秘書となり、近衛や緒方竹虎のブレーンとして活動し、戦後も吉田茂や中曽根康弘、細川護熙らの指南役となったことで知られている。
また血盟団事件は、東京で実行されたテロであるのになぜか京大生が数名参加しているのにも違和感を覚える。この事件にはどこか大きな組織が背後で動いたのではないかと考えるのは私ばかりではないだろう。

昭和七年四月十六日には某国領事が大量のピストルを密輸入していたことが報じられている。この日付は五一五事件のほぼ一ヶ月前のことなのだが、このような動きがその前後のテロ事件の頻発と関係があるような気がするのは私ばかりではないだろう。当時の学生や青年将校たちを外国勢力が背後から操っていた可能性はないのだろうか。
今となっては真実の追及が困難であることは仕方がないことではあるが、それまでは愛国陣営がテロ事件を仕掛けるようなことがなく、テロ事件を計画したのは共産主義者ばかりではなかったか。またこの時期に大量の共産主義者が転向して「右翼」陣営に流れ込んでいることを考えると、共産主義者が「右翼」の衣を着てテロ事件を仕掛け、その背後に外国の組織が動いていた可能性を検討する必要があるのではないだろうか。
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