前回の歴史ノートでソ連のスパイ活動をしていた尾崎秀実が獄中で記した手記の一部を紹介した。この尾崎秀実を自白させたのは特高第一課係長であった宮下弘という人物だが、特高はその前に、アメリカ共産党員の宮城与徳を自白させてゾルゲや尾崎がスパイ活動をしているとの供述を引き出している。
ところが、当初宮城与徳は特高の捜査線上になく、北林トモというアメリカ共産党員の取調べで浮上してきた人物だという。また、北林トモもまた当初は捜査線上になかった人物であったが、宮下弘が日本共産党員の伊藤律の取調べをした際に名前が浮上してきた人物なのである。
スパイは証拠を残さずに活動し、いくら脅されても命懸けで秘密を守るよう訓練されていると思うのだが、捜査線上にもなかった人物からこれだけのスパイグループの情報をどうやって引き出したのかと誰しも思うところだ。実は特高は、宮城与徳が自供するまでは、ゾルゲ諜報団の存在について何も把握できていなかったのである。
前回の記事で宮下弘が自らの特高の体験談を記録した『特高の回想』という本を紹介させていただいたが、その本にゾルゲ諜報団を一斉検挙した経緯が記されていて、これがなかなか面白いので今回と次回にこのことについて書くことと致したい。
伊藤律の取調べ

話は特高の宮下弘が伊藤律という共産主義者を取調べしたところから始まる。初めにこの人物がどのような経歴であるかについて簡単に記しておくこととする。
伊藤律は昭和八年(1933年)三月に日本共産党に入党して二ヶ月後に逮捕され、昭和十年(1935年)に懲役二年執行猶予三年の有罪判決を受けている。昭和十二年(1937年)に日本共産党の再建運動を開始し、昭和十四年(1939年)に再度逮捕されて、翌十五年(1940年)五月に特高一課に着任したばかりの宮下係長の取調べを受けている。伊藤は前回の逮捕の時も、宮下の取調べを受けており、二人は面識があったという。
伊藤は宮下係長に、転向する(共産主義を捨てる)ので保釈して欲しいと持ちかけるが、宮下は転向したとは認めないと答える。そこで伊藤は保釈してもらったら宮下に奉公すると持ちかける。その場面から引用する。
…伊藤律は、いや、出たらきっとご奉公します、とそういうことを言ったんです。宮下さんのために働きますよ。…君が労働者出身なら、もっとザックバランに、君に働いてもらうようにしかけたかもしれない。しかし君がぼくのために働くと言ったが、それは党に被害を与えるようなことになっても働くという意味か、と訊ねたら、いや私はタマシイは売りません、と律は言った。…
いや、それじゃあやっぱり出せないな。ぜんぜん期待しない。かならずためになると言ったって、将来を担保にした話で、そんなことで、外に出してもらいたいと言っても、それはダメだ。そう突っ放しておいて、すこし間をおいてから、言った。ぼくが君を外へ出せるような話をしろ、と。あるだろう、こちらから訊かれないことで、話をしてみたらどうか。君は長いあいだ、党の運動をしてきていろんなことがあったはずだ。よおく思い出してみたらどうだ。われわれがあっとおどろくような話があるはずだ、とね。
そうしたら、律はじーっと考えていたが、じゃあ、こういうのはどうでしょうか、と話したのが北林トモのことです。
共産党ばかりあなたがたは問題にしているが、アメリカのスパイについて注意していない。シナ事変は米英の後ろ楯によって頑強な抵抗がおこなわれているじゃありませんか。アメリカのスパイがいますよ。調べてごらんなさい、と北林トモのことをしゃべった。 …北林がもしアメリカ共産党員だったら、帰国後は日本共産党員として働かねばならない。しかし北林は日本の党と連絡をつけ、日本の党に属して活動しようとしている様子はなかった。だから、その北林トモをアメリカのスパイだとおもう、と伊藤は言った。
宮下弘『特高の回想』p.182~183
伊藤は知人に紹介されて北林に会ったことはあるが、その時はアメリカ共産党の話を聞かされ、また三方の道路があって家の中から三方の道路が見えるような家を探すことを頼まれたことがあった程度で、活動上の接点はなかったという。伊藤自身は北林がどのような重要人物に繋がるかについては何も知らなかったと思われる。だから、軽い気持ちで北林の名前を出したのではないか。
実はこの北林トモという女性がゾルゲ事件の発端になるのだが、宮下は伊藤律の話を聞いて、これはコミンテルンのアメリカ支部、つまりはソ連のスパイだと直感したという。もちろんこの段階では宮下も、この女性がゾルゲや尾崎に繋がるとは考えていなかったが、宮下は上司の中村特高課長や検事局の了解を得た後、今後「男と男のつきあいだ、君がなにかこれは宮下に聞かせておきたいという情報があったら聞かせろ、タマシイは売る必要はない」といって伊藤を釈放したという。
その後伊藤律は満鉄調査部に復職し、それ以降何度か宮下は伊藤と会っているが、宮下がゾルゲや尾崎に繋がる情報を得た訳ではなかった。
戦後に話が飛ぶが、日本共産党が再建の動きが始まると伊藤律はいち早く入党し、徳田球一書記長の片腕として党の重職を担った。しかしその後、伊藤律がこの時に北林トモの名を供述したことがゾルゲ事件発覚の発端になったことがGHQのレポートで知られるようになり、仲間の名を出した伊藤律は特高のスパイであったという説が拡がって、昭和二十八年(1953)に伊藤は日本共産党を除名されている。
北林トモの調査
話を元に戻そう。宮下は伊藤律の話を聞いて、特高の資料の中で「北林トモ」の情報を探そうとした。特高には米国共産党所属の日本人の氏名だけをカタカナのタイプで打った名簿らしいものがあり、その中に「北林トモ」の名前を見つけて宮下は興奮したという。
北林の上には当然ソ連に繋がる外人がいるに違いないと考えたが、防諜は特高の外事課の担当であったため、まず外事課が北林トモの調査をすることになった。
しかし、外事課は真剣に調査した様子がなく、一年以上たって「何にも動きがなく、スパイの証拠を得られない」と回答してきた。このことによほど腹が立ったのだろう。宮下はこう述べている。
もしゾルゲ事件の検挙が半年以前におこなわれていたとしたら、シナの背後にいるのが米英ではなく、つまり、国共合作した蒋介石を援助して日本と戦わせているのが、米英ではなくソ連だ、ということがはっきりわかったでしょうから、対米英宣戦布告などというバカげたことは、あるいは起こらなかったかもしれない。そう考えると、外事課での1年余の遅れは、やはりちょっと取り返しがつかない気がしますね。
同上書 p.195
御前会議の決定がソ連に洩れていた
宮下の著書には書かれていないが、この一年余の間に独ソ戦開戦(1941年6月)があり、わが国は四月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする「北進論」と、南方地域へ進出し資源を確保しようとする「南進論」の閣内対立が起きる。
そして九月六日の御前会議で、日ソ不可侵条約を優先する「南進」が正式決定されたのだが、その直後に満州国境にいたソ連軍は一斉にヨーロッパに移動し始め、独ソ戦線に向かったという。このことは、この御前会議の決定がソ連に筒抜けになっていたことを意味していた。
この重要機密をソ連に流したのはいったい誰なのか。特高は尾崎秀実が怪しいと目をつけていたようだが、彼がソ連のスパイである証拠を掴んでいたわけではない。確たる裏付けなしに尾崎を検挙しても、もし取調べが長引くと、他の被疑者が逃亡したり証拠を湮滅する可能性がある。
ほかに田口右源太という怪しい人物がいたが、最初の検挙者は、「三人のうち、もっとも共犯との連絡の機会の少ないものでなくてはならない。それには外事課が長期間張り込んで動きのつかめなかった北林トモがいいだろう」(同上書p.196)ということで、最初に北林を検挙することに決定したという。
北林トモの取調べと宮城与得の逮捕

そういう経緯で和歌山県粉河町にいた北林トモを検挙して東京へ連行し、麻生六本木警察署に留置したのだが、北林は第一回目の取調べでは黙秘したものの翌日の取調べでは自分から語りだしたという。宮下の著書にはこう記されている。
北林トモを麻生六本木署に留置したのはまったくの偶然ですが、北林は、宮城与徳が麻布に住んでいたものだから、てっきり宮城がここに検挙されていて、それで自分が逮捕されたのだとおもったのですね。それで自分から宮城の名前を出せば、自分の方が疑いは軽くなるとおもったのでしょう。『宮城さんはスパイかも知れませんが、わたしはスパイではありませんよ』と先走っちゃったんですね。
宮城なんて名前は、こちらにはわかっていない。知らない。しかし高木警部補はなにくわぬ顔をして、『その宮城のことを訊きたいんだ』、と。…
アメリカ共産党に同時期に入党したこととか、亭主はなにも知らないのだが、宮城とはひじょうに親しい間柄になったとか、そういうようなことも話した。宮城が下宿している先の細君とおかしいということで、嫉妬していたらしい。それと宮城が先に捕まっているとおもいこんでいるから、宮城が簡単に自分の名前を出したことを恨む気持ちにもなっている。そういう両方の感情から、宮城のことはあからさまに、なんでも話しました。…
こうして宮城与徳という人物が浮かんできて、まえにいった北林トモの名を見つけた米国共産党日本人部の名簿を調べると、カリフォルニア在住の党員の中に名前が出ている。これだ、というので、宮城の住んでいる家を十日間ほど張り込んで、出入りする人間をつかんで、それから逮捕した。
家宅捜査したら、文書がいっぱい出てきました。宮城は絵描きだが、絵の道具よりも、いろんな調べたものがいっぱいある。官庁が調査機関に委嘱したような調査データなどもある。で、宮城は、押収されたこれらの証拠から、スパイであることを認めざるを得なかった。
同上書 p.207~208

宮城与徳に関して、ソ連が一九六五年一月十九日に「ソ連最高会議幹部会令」を出して、ゾルゲの諜報グループの活動とそのソ連への功績を認め、宮城へ勲章を授与することを決定している。(尾崎秀実も同様の決定があった。)しかしながら、長いあいだ宮城の親族の居所がつかめず、勲章が贈られないまま一九九一年十二月にソ連が解体されてしまったのだが、のちに宮城の親族が名乗り出たようで、四国新聞社の二〇一〇年一月十三日付の記事に、親族の方に勲章が贈られている写真と記事が掲載されている。

ソ連が「第二等祖国戦争勲章」を授与する対象となった宮城与徳という人物はわが国でほとんど知られていないのだが、いったいどのような活動をしていたのか。
宮城は取り調べに際して最初は仲間のことについて固く口を閉ざしていたのだが、ある出来事を契機に考え直してすべてを自白し始めることになる。その話を書き出すとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
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