わが国の歴史を歪曲させたもの
前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、昭和天皇による『御聖断』のあとに、陸軍の異常な動きが際立っていることが理解して頂けたと思う。
彼等の動きを見ていると、陸軍の中枢にはわが国を敗戦に導き、その混乱に乗じて共産主義革命を起こそうと考えていたメンバーがかなりいたと考えざるを得ないのだ。
「宮城事件」では多くの犠牲者が出たのだが、そのクーデターを企てた首謀者たちは誰も罪に問われることなく戦後日本を生き抜き、歴史を編纂する仕事についた者が数名いる。
GHQにより公職追放が行われたあとのポストに彼らのような思想の持主が様々な分野に多数入り込んでしまった。戦後の歴史叙述がソ連・コミンテルンや共産主義者の悪事がなかったかのように描かれるのは、そのような思想傾向にある者が長きにわたり歴史編纂や研究などに携わって来たことと無関係ではないのだろう。

戦後になって当時の記録と矛盾する内容が教科書などで広められている事例はいくつもある。特に中国大陸で起きた事件に関してはそのような事例が数多いのである。
関東軍が独断で実行したことになっている昭和三年(1928年)の張作霖爆殺事件は、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪の責任があると記されているという。河本大作の手記とされている文春の記事は、河本が中国共産党に逮捕監禁されたのち獄死して一年以上経過してから世に出たもので、「手記」として書かれている内容は、現場の状況と矛盾しているところがある。事件直後に現場検証をして関東軍による実行ではないと報告をした関東軍参謀長の斉藤恒(ひさし)は、報告書を無視されただけでなく軍上層部によって罷免されている。一方、この事件に関与したメンバーについては誰も処罰されていなかったというのだが、おかしな話である。
満洲事変の発端となった柳条湖事件も、関東軍の指導者であった板垣征四郎や石原莞爾らが死亡後の昭和三十一年(1956年)に刊行された雑誌『別冊 知性』第五号に掲載された「満州事変はこうして計画された」という記事がきっかけとなり、満鉄爆破は支那軍ではなく関東軍の自作自演であるということに書き換えられていったのだが、それまでは支那軍の仕業であると世界で認識されていた。この雑誌記事は元関東軍参謀の花谷正の名前で書かれているが、本人が書いたものではないことが分かっており、この記事が関東軍主謀説の唯一の根拠とされているのもおかしな話である。

支那事変の発端となった盧溝橋事件に関してはコミンテルンから中国共産党に対して指令が出ていることを以前このブログで書いたが、要するに盧溝橋事件から日支の全面衝突に導くために手段を選ぶなという命令が出ていたのである。その後中国共産党は、日本軍がいくら和平を求めて来てもそれを許さず、凄惨な方法で日本人を虐殺することでこのシナリオ通りに日本を中国との戦いにひきずりこむことに成功した。通州事件で多くの日本人が虐殺されたのはこの指令と無関係であるとは思えないのだが、戦後に刊行された歴史の概説書では通州事件が登場することがほとんどない。
戦後になってから歴史が歪曲されたり真実が隠蔽されている事例は多々あるのだが、中国大陸やソ連・コミンテルンが関わる話、軍部が左傾化していた話などはその典型で、国民に当時の記録などがほとんど知らされてこなかったか、他国のプロパガンダを刷り込まれてきたと言うのは言い過ぎであろうか。
真に恐るべきは赤化した軍隊
ソ連は、まずわが国を支那との戦争に巻き込み、さらにアメリカと戦わせて疲弊させ、日本の敗戦が確実なタイミングで参戦することによって、日本領土の相当な部分を共産陣営に取り込む戦略であったと思われる。そのために早い段階からコミンテルンは日本軍、特に関東軍の赤化工作に注力していた。

実際に関東軍は中国との戦争に巻き込まれ、ソ連が対日参戦後は直ちに満州を捨ててソ連に献上したのだから、ほぼソ連の思惑通りに動いていたのだ。
ソ連が対日参戦した際にワシレフスキー元帥に与えられていた任務は、満州、北朝鮮、南樺太、千島全島、北海道の半分まで占領することであったのだが、北海道まで兵を進めることが出来なかったのは、第五方面軍司令部の樋口季一郎中将が、ソ連軍奇襲の報告を受けて、自衛のための戦うことを決断し、千島列島の最北にある占守島でソ連軍の進軍を阻んだことが大きい。

ところが、関東軍参謀長の秦彦三郎中将は、ワシレフスキー元帥からの要請により、第五方面司令部に武装解除を命じて、千島や樺太におけるわが国の自衛の戦いを終息させてしまっている。停戦命令が出たとしても、邦人に対する攻撃がある場合は邦人の生命と財産を護るために軍隊が戦う事は国際法で認められていたのだが、秦中将は武装解除を命じたのである。
そのためにソ連軍による邦人の無差別殺戮が八月二十八日頃まで続き、多くの兵士がシベリアに送られたのだが、この史実をどう考えればよいのか。
私も長い間『軍国主義』は怖ろしいものだとイメージしていたのだが、よくよく考えると軍隊という組織は、自国民の生命と財産を護る存在である限りは怖ろしいものではない。
ところが、もし軍隊の中に、自国政府を倒すためであればいかなる手段を採っても許されるという考えを持つ者がいて、実際にその考えで軍を動かそうとした場合は、どこの国にとっても怖ろしい存在となりうる。わが国において本当に怖かったのは、正確に言えば「ソ連に忠誠を誓い、わが国を戦争に巻き込んで、最後に共産主義革命を起こそうとした軍隊」ではなかったか。
いつの時代もどこの国でも、自国と敵対する国の工作員にとっての重要な工作対象は、政治家やマスコミも重要だろうが、一番重要なターゲットはその国の軍隊であろう。なぜなら、その工作が成功すれば、さしたる武力を使わずとも相手国を倒すことが容易になるからだ。
以前このブログでも書いたが、一九二八年(昭和三年)のコミンテルン第六回大会に採択された決議内容には「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」と書かれていた。
陸軍士官学校の赤化分子

前回の記事で、昭和七年の二月に陸軍士官学校に赤化運動が起こり四名が放校処分されたという新聞記事を紹介したが、この記事の出た前後の卒業生に『宮城クーデター』を実行した中心メンバーや、ソ連の工作員となった人物が少なくないことが分かる。
私のブログ記事で名前の出てきた共産主義者と宮城クーデターに参加した人物を、卒業年次順に並べてみると次のようになる。

【三十三期】大正十年(1921)七月卒業
水谷一生大佐(近衛師団参謀長:宮城事件で竹下中佐に協力を約していたが、東部軍司令部に説得される)
【三十五期】大正十二年(1923)七月卒業
荒尾興功大佐(軍務局軍事課課長:宮城事件首謀者の一人。戦後は復員庁に勤務)
【三十九期】昭和二年(1927)七月卒業
不破博大佐(高級参謀: 宮城事件に参加を約していた。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
【四十二期】昭和五年七月卒業
稲葉正夫中佐(宮城事件計画立案者。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
竹下正彦中佐(宮城事件首謀者の一人。阿南陸相の義弟。戦後、陸上自衛隊東部方面総監)
【四十四期】昭和七年(1932)七月卒業
瀬島龍三中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。後に伊藤忠会長)
【四十五期】昭和八年(1933)七月卒業
朝枝繁春中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後商社勤務)
井田正孝中佐(宮城事件首謀者の一人。戦後は在日米軍司令部戦史課に勤務後電通に入社)
椎崎二郎中佐(宮城事件に参加。昭和二十年八月十五日自決)
【四十六期】昭和九年(1934)七月卒業
畑中健二少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与。昭和二十年八月十五日自決)
【四十七期】昭和十年(1935)六月卒業
石原貞吉少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加を約していた。)
【五十期】昭和十二年(1937)十二月卒業
窪田兼三少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)
【五十二期】昭和十四年(1939)九月卒業
古賀秀正少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加。昭和二十年八月十五日自決。東条英機の女婿)
志位正二少佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後外務省、海外石油開発株式会社勤務。日本共産党委員長志位和夫の伯父)
【五十四期】昭和十五年(1940)九月卒業
北畠暢男大尉(近歩二第一大隊長:古賀少佐の依頼により宮城事件で兵力投入)
佐藤好弘大尉(近歩二第三大隊長:宮城事件でNHK会長ら十八人を拉致)
【五十五期】昭和十六年(1941)七月卒業
上原重太郎大尉(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)
「宮城事件」に関与した将校クラスのメンバーはまだまだあるが、興味のある方は別宮暖朗氏の『終戦クーデター』のp.4~7にリストが出ているので参考にしていただきたい。

阿南陸相の自決
阿南陸相は『ポツダム宣言』を受諾するかどうかで、会議では最後の最後まで徹底抗戦を主張していたのだが、これは陸相の『腹芸』で、本心は別のところにあったという説がある。
その説を一笑に付す論者が多いのだが、終戦を決めた鈴木貫太郎内閣当時の内閣書記官長であった迫水久常氏の『終戦の真相』と言う論文を読んで、私も『腹芸』の可能性を感じるようになった。迫水論文の重要な部分を引用する。

当時の陸軍の状況から申しますと、若し(もし)阿南さんが終戦に賛成されたら、必ず部下に殺されていたと思います。若し阿南さんが殺されたら内閣としては、陸軍大臣を補充しなければなりません。当時の陸軍大臣は陸軍の現役大・中将ということになって居りましたので、その補充について軍が承諾しない限り出来ないのであります。若し陸軍大臣を補充できなければ、鈴木内閣は総辞職する外(ほか)ありません。
あの場合、鈴木内閣が総辞職したらどうなりますか。終戦は出来なかったでしょう。阿南さんはこのことを知って命を保って、鈴木内閣をして終戦を実現さるために、あの腹芸をなされたのです。若し心から終戦反対なら辞職されて了(しま)えばやはり鈴木内閣はつぶれて終戦は出来なかったでしょう。
(正論臨時増刊号 終戦六十周年記念『昭和天皇と激動の時代』p.90)
当時には、軍部大臣(陸軍、海軍)の補任資格を現役武官の大将・中将に限っていた『軍部大臣現役武官制』という制度があり、そのために内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な倒閣を行うことが可能であったのだ。
過去、陸軍が組閣に協力しなかったために内閣が総辞職した事例として、第三十七代の米内内閣が有名だ。米内光政首相は日独伊三国同盟反対論者であったために陸軍から不評を買い、陸軍は畑俊六陸相を単独辞職させたのち、後任の陸相を推薦しなかった。そのために、米内内閣はわずか半年で総辞職に追い込まれている(昭和十五年[1940])。
他にも昭和十二年(1937)に広田内閣の寺内陸相が衆議院解散を要求し、広田首相が内閣総辞職を行ない、後任として組閣大命を受けた宇垣一成に対して、陸軍が陸軍大臣の候補者を出さなかったために組閣ができなかった事例がある。

迫水氏が指摘している通り、阿南陸相がもし本気で徹底抗戦を考えていたのなら、自ら辞表を出せば簡単に鈴木内閣を総辞職に追い込むことが出来たのである。ではなぜ、阿南は辞任しなかったのか。
実際に阿南陸相は、十四日正午過ぎに首相官邸閣議室において、クーデターを起こした義弟の竹下正彦中佐らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められたが、阿南はこれを退けたことがWikipediaにも書かれている。

迫水氏は別の著書でこう述べている。
…終戦の際、陸軍はクーデターの準備をして、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから自分にまかせよといわれたという。当時の状勢において、私たちの最も恐れたものは、陸軍の暴発であった。阿南大将は、戦争を終結し、一身を無にして、国民のみならず世界の人々を救おうとせられる天皇陛下のみ心を体し、終戦を実現せんと心に誓っておられたに違いない。かかるが故に軍の暴発を最も恐れ、これを抑止するに心肝をくだかれて、苦肉の策として、クーデターの指揮を自ら引受け、一面、大詔の公布まで内閣の閣僚たる地位を保持するため中途で殺されるが如きことなきよう苦心されたものと私は考える。
『一死ヲ以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル』(阿南陸相の遺書)とは心にもなき抗戦論を唱えて、天皇陛下のみ心を悩ましたてまつった罪を謝するとともに純真一途国体護持の精神によって手段を選ばず、抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、だましてひきずって遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心持ではなかっただろうか。阿南大将のみずからの生命を断つことによる導きによって軍の暴発は抑止せられて、日本の国家は残ったのである。…
(ちくま学芸文庫『機関銃下の首相官邸』p.334-335)

迫水氏によると、十四日に阿南陸相は終戦の詔書の署名したのち鈴木貫太郎首相を訪れて、首相にこう謝罪したという。
「終戦についての議がおこりまして以来、私はいろいろと申し上げましたが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。ここにつつしんでお詫び申し上げます。私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものではございません。この点どうぞご了解くださいますように。」
阿南陸相の頬には涙が伝わっているのを見て、私も涙が出た、すると総理は、うなづきながら、阿南陸相の近くに歩み寄られ、「そのことはよく判っております。しかし、阿南さん皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご自身で熱心におつとめになっておられますから。」といわれて、丁寧に一礼されて静かに退出された。
私は、玄関までお見送りをすると、総理は「阿南君は暇乞いにきたのだね」といわれた。この時の光景は私の修正忘れ得ない感激である。
同上書 p.325
阿南陸相は昭和四年(1929)から昭和八年(1933)までの四年間は侍従武官を務めており、当時の侍従長が鈴木貫太郎であった。また昭和十一年(1936)の二・二六事件の時に鈴木侍従長が襲撃され重体になった時には阿南は陸軍幼年学校長であり、阿南校長はこの時の生徒への訓話の中で叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわるべきでないと説いたという。
そして昭和二十年四月、昭和天皇のご意志により、鈴木貫太郎が首相を拝命し、鈴木は即座に陸軍省に赴いて、阿南の陸相就任をとりつけたそうだ。陸相就任の数日後に阿南は友人にこう語ったという。
「大臣が自ら責任を負わねばならぬことがあっても、辞職さえすればその責を逃れたとするような態度は私は絶対にとらない。将来、責任を負わねばならぬようなことに遭遇したら、本当に腹を切って、お上にお詫び申し上げる覚悟だ。」
こういう経緯を知れば、鈴木首相と阿南陸相とは強い信頼関係があったことがわかる。
阿南はわが国が『ポツダム宣言』を受諾し、終戦に至るぎりぎりのところまで鈴木内閣を支え、そして最後の最後にクーデター派を裏切ったのだ。
八月十五日未明、阿南陸相は『ポツダム宣言』の最終的な受諾返電の直前に、陸相官邸で切腹した。介錯を拒み早朝に絶命したと記録されているそうだ。

靖国神社の遊就館の中に、阿南陸相の血染めの遺書や自決時の軍服が展示されていて、遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記され、「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」という辞世の句を残している。
この阿南陸相の自決が、陸軍に強い衝撃を与えたことは言うまでもない。陸軍省の軍事課長でクーデター計画の首謀者の一人でもあった荒尾興功はのちに次のように述べたという。
「全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最もつよいショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。之により全陸軍は、戦争継続態勢から、ポ ツダム宣言受諾への大旋回を急速に始めた。…換言すれば、大臣の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった。」
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