クーデター準備
前回記事で、阿南陸相の義弟である竹下中佐らが、陸軍大臣らの許可を得て兵力を使用し、昭和天皇および和平派を軟禁拘束して、戦争継続の方向に導くことを計画したことを書いたのだが、この計画に賛同するメンバーが少なからず存在したのである。
森 赳(たけし)近衛師団長は蹶起することに反対していたが、近衛師団参謀長の水谷一生、参謀の古賀秀正、石原貞吉も、竹下中佐らの仲間に入ることを約束していた。
古賀は東条英機の女婿で、古賀の依頼により近衛師団歩兵第二連隊(「近歩二」)第一大隊長の北畠暢男は、七百五十名の兵力全部を八月十二日以降徐々に投入する決心であったのだが、一般の兵士たちはどのような命令を受けていたのであろうか。

近衛師団歩兵第二連隊の第三大隊第九中隊の伍長(分隊の指揮・監督)であった絵内正久は、著書『さらば昭和の近衛兵』に当時の状況を書き残している。
絵内は八月十二日昼頃に疎開先の本郷小日向台の校舎の一隅にあった第九中隊で松村人事係に呼ばれ、次のような指示を受けている。
「今からただちに一個分隊の兵を引率、宮城に入り宮城守衛隊司令官の指揮下に入れ」
私たちは防火派遣隊の服装ではなく、守衛上番と同じ第一装の軍装に着替えて、軽機関銃の銃身を実弾が撃てるように実包銃身につけ換え、 実戦態勢のうえ、 小型シャペルの円匙と小型つるはしの十字鍬を各自携行せよと命令された。いままでの守衛勤務なら、持っていく必要のない兵器ばかりだった。
「ひょっとしたらアメリカの上陸軍が、宮城に攻めこもうというので、それを迎撃する増援隊とちがうか」
「これから戦闘するのに第一装というのは、死に装束にせいということやろう」
「宮城枕に死ねということだな」
昼食を終わって服装をととのえながら、兵士たちは他人ごとのように話し合っていた。すでに沖縄の玉砕も明らかとなり、確実にわれわれの死と日本の敗北が、近づきつつあることを鋭く感じとっていた。
校庭に整列して出発を告げると、松村人事係は、「よく聞け。地方部隊の中に、もう戦争に飽きたのでやめよう、と民間人に同調する不穏の動きがある。その連中が宮城を攻め、天皇陛下を人質とし、戦いをやめ、反戦を陛下に強要しようと企んどる。お前たちは、それに備えて、陛下をお護りするため、特別に派遣されることに、なった。お前たちは、宮城に入ったら、お前達の直属上官でも、無理に入ろうとしたら、ただちに撃ち殺さなくてはならん。」
(絵内正久『さらば昭和の近衛兵』光人社 1992年刊 p.184-185)
おかしな話である。実際は、徹底抗戦派が陛下と和平派を監禁して、陛下に戦争継続の決断を迫ろうとしていたのに、反戦派が陛下を人質に取って戦争を終結させようという不穏な動きがあるので、陛下を護るために宮城を完全閉鎖し、無理に宮城に入ろうとする人物がいたら上官であったとしても撃ち殺せという命令が出ていたのだ。しかしながら、絵内らは自らがクーデターに加担することになることを全く知らされておらず、これから内乱でも起きるのではないかと不安を懐きながら宮城に向かっている。NHKアーカイブスで絵内は15日の朝に、自分等が「反乱軍」であることに気付いたと述べているが、絵内の立場では上官の命令に従うしかない。
事態は切迫していた。国内の徹底抗戦派の動きも気になるところだが、アメリカのマスコミもわが国の『ポツダム宣言』に対する回答遅延を責めだし、十三日夕刻には米軍飛行機が十日の日本側申し入れと連合国回答文を印刷したビラを東京都下その他に散布し、十四日にも同様のビラが撒かれたという。この段階では『ポツダム宣言』の内容についてはまだ国民に公表されていなかったのだが、このようなビラが軍隊一般の手に入ると、クーデターが起きることを昭和天皇は危惧されていた。早期に諾否の決断を為さなければならなかったのだが、終戦か徹底抗戦かで内閣の意見がまとまりそうにない。
昭和天皇の二度目の御聖断
そこで昭和天皇は、自らの判断で御前会議の開催を要求され、十四日午前八時に鈴木貫太郎首相にメンバーの召集を命じられて、この御前会議で昭和天皇が二度目の御聖断をなされることになる。

この会議における昭和天皇のご発言が素晴らしいのである。
反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。
国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文章を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れ受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。
さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
…今日まで戦争に在って陣没し、或いは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。
…どうか私の心持を良く理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。
(下村海南『終戦秘史』大日本雄弁会講談社1950年刊 p.125-126)
下村海南の『終戦秘史』には陛下のお言葉のあと参加者全員がすすり泣いたと書かれているが、侍従長であった藤田尚徳の回想記(『侍従長の回想』)にはこの御聖断が下ったあと、阿南陸相はお立ちになる陛下に、とりすがるように慟哭したと書かれている。そこで陛下は、次のように陸相になぐさめの言葉をかけられたという。「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある。」
この御前会議で、『ポツダム宣言』の受諾および『終戦の詔書』を出すことが決定したのだが、陸軍の一部若手将校はその結論に納得しなかった。


「玉音放送」を阻止せよ
この御前会議とそれ以降の出来事について『昭和天皇独白録』にはこう記されている。
午前十一時、最高戦争指導会議と閣議との合同御前会議が開かれ、私はこの席上、最後の引導を渡した訳である、この会議のことは迫水(久常:内閣書記官長)の手記に出ている。『ポツダム』宣言受諾の詔書は十四日午後九時過ぎ署名したので、これですべて確定したと思ったが、陸軍省は、放送がなければ効力がないと思ったか、放送妨害の手段に出た。
荒畑軍事課長(正しくは荒尾[興功])が、近衛師団長に、偽命令を出して欲しいと強要した。森(赴)近衛師団長は立派な人で、この強要に頑強に反抗したため殺された、そして師団参謀長(水谷一生)と荒畑(正しくは荒尾)との名で偽命令書が発せられた。
宮内省の電話線は切断せられ、御文庫の周囲も兵により包囲された。
幸い空襲のため窓の鉄扉が閉鎖されていたので、私の居るところは兵には判らなかったらしい。この騒動をきいて、田中静一(正しくは静壹)軍司令官が馳せ付け兵達を取り鎮め、事は無事に終わった。
鈴木、平沼の私邸も焼かれた、平沼は陸軍に巧言、美辞を並べながら、陸軍から攻撃される不思議な人だ。
結局二股かけた人物というべきである。
(文春文庫『昭和天皇独白録』p.157-158)

昭和天皇はこのように極めて簡潔に述べておられるのだが、このクーデターは陸軍の中枢が関与した重大事件であった。

別宮氏の『終戦クーデター』によると、近衛師団参謀・古賀秀正少佐の指示で近衛師団歩兵第一連隊(「近歩一」)の小田小隊は十五日午前零時を期して、NHK本部占拠に向かい、近歩二の通信中隊は宮城紅葉山にあった宮内庁の電話設備を破壊している。さらに、クーデターに反対していた森近衛師団長の部屋に、畑中健二少佐、窪田兼三少佐、上原重太郎大尉らが向かい、部屋にいた森と義弟の白石通教(みちのり)第二総軍参謀長が畑中らに殺害されたという。
一方、近歩二第三隊長の佐藤好弘大尉は、宮内省庁舎を出て四台の車に分乗した下村情報局総裁兼NHK会長一行の車列を停め十八名全員を拉致した。下村総裁一行は、昭和天皇の玉音放送の収録を十四日の午後十一時四十五分に終えた帰りであった。

八月十五日正午に放送された昭和天皇の終戦詔書を読み上げる肉声を録音したレコードは「玉音盤」と呼ばれるのだが、このレコードを奪取しようと反乱軍が必死に探したと小説にも描かれて映画化もされている。しかしながら、別宮暖朗氏によると佐藤大隊長は玉音盤奪取を具体的に指示してはいないという。

別宮氏は次のように解説している。
佐藤は、そもそも玉音盤あるいは録音方法を何も知らなかった。昭和天皇が放送局のどこかのスタジオでマイクに立つと考えた可能性も強い。仮に録音盤の存在なり数量なりを知っていたとしても、近衛兵によって宮城を完全封鎖できている以上、外部に持ち出すことは不可能と想像することはできたはずである。そのうえ四枚のうち一枚も発見できなかった。近衛兵が真剣に捜索したとは思えない。
(別宮暖朗『終戦クーデター』p.105)
当時近歩一第一中隊長であった小田敏生氏がこの日の出来事を『正論』に『近衛連隊と玉音放送阻止事件』(平成三年九月号初出)という表題で寄稿しておられる。
この文章の中で小田氏は、八月十四日深夜午後十一時三十分に第一中隊全員に非常呼集があり、十五日午前零時過ぎに「放送局を占拠し、放送を阻止せよ」「放送局にいるものを一人といえども外へ出すな。外部からいかなるものも入れてはならない。各部屋のカギを全部没収し、当直以下理事者全員を一室に監禁せよ」という久松秀雄第一大隊長命令を受けているが、それが玉音放送の阻止であるとは知らされていなかったという。
また小田氏の文章には、どこにも「録音盤」という言葉がない。別宮氏が指摘しておられる通りで、宮城や放送局の完全封鎖ができていれば、放送などできるはずがなく、録音盤を探す必要などはなかったという考えであったのかもしれない。十四日に録音が終了したのちに『玉音盤』は宮内庁に運ばれていたのだが、深夜のような状況が長く続けばそれを放送局に持ち込むことは不可能に近く、予定の時間に放送が出来ない事態に陥っていたに違いない。
一方、宮中の動きに連動して、東京警備軍横浜警備隊長の佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとする「国民神風隊」が、十五日の午前四時三十分に首相官邸を襲撃したのを皮切りに、平沼騏一郎枢密院議長、木戸幸一内大臣、東久邇宮稔彦王らの私邸に火を放ったということがWikipediaにでている。
十五日の夜が明けて命令が真逆に変わった
ところが小田氏の文章によると、十五日の夜が明け始めた頃に事態が一変し、久松大隊長から「当初の放送阻止を解除して、放送を援護するように」との命令変更が伝えられたという。
そして午前十一時半ごろに東部軍の高嶋辰彦参謀から、「お前らはニセの命令によって行動した。よいか。命令を伝える。これから天皇陛下の戦争終結の放送がある。その放送を援護しろ」と言われ、すでに小田中隊長は近衛師団長が殺害されたことを知っていたので高嶋参謀の命令を疑う余地はなかったと述べ、またその命令を聞くまでは、正午にあるという玉音放送は、天皇から戦争継続の宣言があり軍人や国民に対して最後の激励をされるものだと思い込んでいたと正直に吐露しておられる。
では、どういう事情があって、途中で命令が真逆に変わったのだろうか。
『昭和天皇独白録』にも名前が出てくるが、東部軍管区司令官の田中静壹大将が身を挺して困難な状況を打開したのである。東部軍管区には実戦部隊は存在せず、田中は近衛師団を説得して少しずつ味方につけていくしか方法はなかったのだ。

夜が明けるのを待って田中は塚本素山副官だけを自分の公用車に乗せ、他の一台には不破博参謀と憲兵将校一人と下士官二名を乗せて東部軍司令部を出発したという。
まず近歩一営庭で田中は車を降り、まっすぐに二階の連隊長室に向かい、「古賀による偽命令だ。直ちに兵を戻せ」と渡辺多粮連隊長(近歩一)に命じた。渡辺は既に今までの命令におかしなものを感じていたせいか、すぐに応じたという。
次いで田中は近衛歩兵一、二連隊営門の反対側の乾門の前で近歩二の芳賀豊次郎連隊長を呼び、「お前たちは、師団長が殺された以上、いっさい参謀の命令に従う必要がない。これからは自分自身が近衛師団の指揮をとる。」と述べ、たまたま陸軍公用車に乗って乾門に近づいてきた荒尾軍事課長、井田正孝、島貫重節三名(反乱軍側)が皇居の中に入ろうとしたところを、田中は「禁闕守衛の任にある者の他、一人もここを通ることはならぬ。帰れ」と叫ぶと三人は圧倒され、車をUターンさせて戻ったという。その後クーデターは急激に鎮静化に向かっていった。

一方、陸相官邸では十四日深夜に阿南陸相が切腹自殺をし、十五日早朝に絶命した。遺書には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記されていたという。
最後まで抗戦を諦めなかったという椎崎中佐と畑中少佐は、午前十一時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自殺したというのが通説だが、おそらく作り話だろう。
別宮氏は著書で通説の疑問点をいくつか挙げておられる。
たとえば、窪田少佐も上原大尉もともに畑中とは面識がなく、畑中がこの二人に森師団長殺害を決心させ、同時に警戒厳重な近衛師団司令部に招じ入れることが出来たことが不自然であること。また三人が殺害に向かった同じ時間に小田小隊をNHKに向かわせ、古賀参謀を動かすことは考えにくいこと。二人が自殺したとされる午前十一時にはすでに皇居前に多くの人々が集まっており目撃者が誰もいないのは不自然であること。十時十分ごろに阿南陸相、椎崎、畑中の三名の遺体を見たという黒崎貞明氏の記録があること。さらに三人とも遺体を竹下の手によって焼かれていること。…これらの指摘が正しければ、普通に考えれば自殺ではないだろう。
そもそも「畑中主犯説」を最初に書いたのは、クーデターを起こした側のメンバーの一人である不破博で、その後も井田正孝や竹下正彦が本を著して「畑中主犯説」を書いているが、クーデターを起こした当事者の記録を鵜呑みにして通説が出来上がっているということになる。
ちなみに、戦後井田は在日米軍勤務後電通に入社し、総務部長及び関連会社の常務を務めている。また竹下は公職追放後自衛隊に入隊し、その後第四師団長、陸上自衛隊幹部学校長などを歴任している。そのような人物がもし真実をそのまま書けば自分だけでなく多くの仲間が仕事を失い、家族を路頭に迷わせることになるだろう。

別宮氏は「畑中主犯説とは、全責任を仲間であった死者、畑中健二に被せる説でもあった」と述べておられるが、その通りだと思う。この『宮城事件』は殺人を伴う重要事件でありながら、いっさい司直の捜査が入らなかった事件でもあるのだが、このような奇妙なことになった理由は、おそらく首謀者たちが、死者に全責任を擦り付けて、自分や仲間を守ろうとしたのではないのか。
無事に全国放送された玉音放送
かくして二枚の玉音盤は、無事に宮内庁から放送会館および第一生命館に設けられていた予備スタジオに運び込まれ、予定どおり十五日の正午に、陛下の肉声が録音された『終戦の詔書』が全国に放送された。

昭和天皇の『玉音放送』は、今ではYoutubeで誰でも拝聴することができる。
『終戦の詔書』のテキストや現代語訳も、今ではネットで容易に読むことが出来る。

そして反乱軍の首謀者の一人である古賀参謀はこの玉音放送の放送中に、近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自殺したという。
また反乱軍を鎮静化させた田中静壹陸軍大将は、陸軍徹底抗戦派の最後の反乱となった八月二十四日の川口放送所占拠事件を鎮圧した夜、司令官自室にて拳銃で自殺したのだそうだ。
もし昭和天皇が八月十四日に急遽御前会議を開くことを決断しなかったなら、もし田中静壹大将が身を挺して近衛師団を説得し、参謀と切り離すことに成功しなかったならこのクーデターは成功していたかも知れず、そうなると八月十五日に終戦できなかった可能性がかなり高かったのではないか。
アメリカが更なる原爆を投下する準備は出来ていたし、ソ連は対日宣戦布告しており日本列島にソ連軍が迫っていた。もし本土決戦で米ソと戦うことになればわが国には到底勝ち目はなく、多くの人命が失われていたことは確実だし、領土のかなりの部分を失っていたと思うのだ。
陸軍のエリート将校達がクーデターを企てたのは、ソ連が日本列島に軍を進めることを見届けるまで戦争を引き延ばし、敗戦後の混乱期にわが国で共産主義革命を起こすつもりではなかったのか。
「…然れども、朕は時運の趨く(おもむく)所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かむと欲す。…」
『終戦の詔書』のこのくだりは、子供の頃からテレビなどで何度も出て来たので覚えてしまったのだが、昭和天皇は国家・国民のためにいい決断をなされたと思う。陛下がもし、政治家や官僚に総てを委ねるような方であったとしたらあの戦争は止められず、わが国はどうなっていたかわからない。
戦争を止められた昭和天皇の御聖断に敬意を表するとともに、この放送を全国民に伝えるために尽力された人々に対する感謝の気持ちを忘れないようにしたいものである。
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