明智軍の兵士たちは家康を討ちにいくのではないかと考えていた
前回の「歴史ノート」で、イエズス会のルイス・フロイスが書いた本能寺の変に関する記述の一部を紹介させていただいた。 その引用した部分の少し前に、驚くべきことが書かれている。
…そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。
…兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。…
中公文庫『完訳フロイス日本史3』p.147
明智軍は当初は毛利攻めへの出動を信長から命じられていたのだが途中で京に向かうこととなり、本能寺に到着した明智軍の兵士たちは火縄銃に銃弾を装填して待機することを命じられ、家康を殺害することになるのではないかと考えたというのだが、同様な内容が、この戦に参加した武士の記録にも残されている。
本能寺の変で明智光秀に従軍していた光秀配下の武士・本城惣右衛門が、江戸時代に入って親族と思われる三人の人物に宛てて記した文書(『本城惣右衛門覚書』)の原文と翻訳文がWikipediaに掲載されている。
…あけち(明智)むほんいたし、のぶなが(信長)さまニはら(腹)めされ申候時、ほんのふ寺(本能寺)へ我等よりさきへはい入申候などという人候ハバ、それハミな(皆)うそにて候ハん、と存候。其ゆへ(故)ハ、のぶながさまニはら(腹)させ申事ハ、ゆめともしり不申候。其折ふし、たいこ(太閤)さまびつちう(備中)ニ、てるもと(毛利輝元)殿御とり相ニて御入候。それへ、すけ(助)ニ、あけちこ(越)し申候由申候。山さき(山崎)のかたへとこころざし候へバ、おもい(思い)のほか、京へと申候。我等ハ、其折ふし、いへやす(家康)さま御じやうらく(上洛)にて候まま、いえやすさまとばかり存候。人じゅの中より、馬のり二人いで申候。 たれぞと存候へバ、さいたうくら介(斉藤利三)殿しそく、 こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、 我等其あとニつき、かたはらまち(片原町)へ入申候。…
『本城惣右衛門覚書』 Wikipediaより
と、一般の兵士は、毛利攻めに行くつもりが、急に京都に向かうこととなり、てっきり家康を討ちに行くのだと考えたが、信長を討つことになるとは夢にも思わなかったと書いてある。 基本的に書いてあることはフロイスの記述とほぼ同じだが、斉藤利三が本能寺へ向かう明智軍を先導したということは注目してよいだろう。
いずれの記録にも、信長から「家康を討て」という命令があったとは書いていないが、多くの兵士たちが「家康を討つことになるのだろう」と考えたのは何故なのだろうか。本能寺の変に至るまでの経緯をまず振り返ってみることにしよう。
武田征伐から本能寺の変に至るまでの経緯
天正十年(1582年)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正十年三月には同盟者の徳川家康、北条氏政とともに、武田勝頼の領国である甲斐・信濃・駿河・上野へ侵攻し、甲斐武田氏を滅ぼした。

明智光秀は武田征伐から帰還したのち、安土城において五月十五日より徳川家康の接待役を命じられていた。ところが十五日に秀吉から応援の要請が届き、信長は光秀・高山右近・中川清秀らに羽柴秀吉援護の出陣を命じ、十七日に光秀は接待役の任務を解かれて居城・坂本城に戻り、二十六日には別の居城丹波亀山城に移って、出陣の準備を進めたという。「丹波亀山城」は現在の京都府亀岡市にあり、光秀が丹波統治の拠点としていた城である。
一方徳川家康は、重臣たちを引き連れて五月十四日に安土に到着し、安土城で饗応を受けた後、信長の命により五月二十一日に安土を出て京都や堺などを見学することとなる。
また、信長は二十九日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。翌六月一日、信長は本能寺で茶会を開いている。
そして本能寺の変のあった六月二日には家康とその重臣一行の三十名ほどが堺を出てこの本能寺に向かう予定であったことが、家康に同行していた茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』に記載されているという。
甲斐武田氏が滅亡して日も浅い時期である。徳川家康が少数の家臣を引き連れて安土に行くだけでもリスクがあることなのに、信長に命令されて僅かの人数で京都や堺を見学させられることになった。家康ほどの人物ならば、重臣たちとともにどこかで命が狙われる危険を察知していて当然だろう。

この時代を生きた江村専斎という医者が書き残した『老人雑話』という書物があり、Wikisourceにテキストデータがあり、「国立国会図書館デジタルコレクション」でも『雑史集』に収録されネット公開されているので誰でも読むことが出来る。
明智乱の時は、東照宮堺に御座す。信長羽柴藤五郎に命じて、家康に堺を見せよとて附て遣す。実は先きにて間を見て害する謀なりとぞ。東照宮運つよくして明智が事発り、太閤西国より登り給ふ時、伊賀越に三河の岡崎に馳帰る。明智が事なくば東照宮危き御事也。
『老人雑話』
本能寺の変)のとき家康は堺にいて、信長は秀吉に対して家康に堺を見せよと命じたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であった。本能寺の変がなければ家康は危なかったとの趣旨が書かれている。
信長は家康を警戒させないために、信長は関西の諸大名に毛利攻めへの加勢を命じて手薄にさせ、信長自らも本能寺にわずかの人数で宿泊している。信長は六月四日に毛利攻めに出陣することを決定しており、織田軍の主力は出陣に備えて上洛途中か、安土城に集結していたと考えられる。
手勢が少なかったのは家康も同じであったのだが、明智憲三郎氏の考えでは、家康はまんまと信長の術中にはまったふりをしながら、この危機から逃れる手をすでに打っていたということになる。明智光秀は徳川家康と繋がっていたというのだ。
なぜ信長は本能寺で無警戒であったのか
本能寺の変の謎はいくつもあるのだが、なぜ信長は本能寺にあれほどに無警戒であったのか。この点は重要なポイントであるはずだ。
その理由を明智憲三郎氏は次のように記している。
…信長が謀反に全く無警戒であったのは、自分自身が家康を討つ罠を仕掛けていたからです。自分の仕掛けた罠の実行に気を取られ、それを逆手に取られることなど思いも及ばなかったからです。
同上書p133
光秀は信長による家康の暗殺計画の全貌を知っていたからこそ、それを「逆手に取る」ことで簡単に謀反を起こすことができた、と分かりやすい。

『信長公記』の本能寺の朝の場面を読むと、確かに信長の発した言葉は、光秀に自分の考えた策の「逆手を取られた」という気持ちが出ているように思える。
原文ではこう書かれている。
…(光秀は)桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり侯。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり、…。是れは謀叛か、如何たる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と、言上侯へば、是非に及ばずと、上意候。…
信長が何故「是非に及ばず」(確認する必要なし)と言ったのか。
謀反を起こしたのが明智勢と聞いて、信長に思い当たるところがあったということではなかったか。
光秀が信長から家康暗殺を指示されたと仮定すれば…
では、明智光秀が織田信長から家康暗殺を指示されたのはいつなのか。
既に述べた通り、光秀は安土城で家康の接待役を務めたのだが、その接待の打ち合わせを、不思議なことに信長と光秀は密室で行っている記録があるのだ。
ルイス・フロイスの「日本史」にはこう書かれている。
これらの催し物の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが…、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長が立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、これは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが…
中公文庫『完訳フロイス日本史3』p.144~145
と書かれているのだが、そもそも饗応の打ち合わせについてなぜ密室でなされる必要があるのか、この時に家康の暗殺の手筈が光秀に指示されたのではないかということを明智憲三郎氏をはじめ多くの人が指摘している。光秀が信長に足蹴にされたのは、光秀が家康暗殺に反対したからではなかったか。
では、光秀はいつ家康と本能寺の変の打ち合わせをすることが可能であったか。 先ほど本能寺の変が起こるまでの経緯を記述したが、五月十五日に安土城で光秀が家康の接待役を命じられている。その時に家康と二人で、信長の計画を逆手に取る密談ができる時間はたっぷりあったのである。

信長の謀略を裏付ける資料はほかにもある。 奈良の興福寺多聞院で百四十年間書き継がれた『多聞院日記』に、本能寺の変が起きた日の筒井順慶軍について記述されている。
「一順慶今朝京へ上処、上様急度西國へ御出馬トテ既ニ安土へ被帰由■、依之被帰了」
(筒井順慶は今朝上洛の途中、信長は急に中国へ出陣するために安土へ帰ったとのことなので引き返した)
この記述には二つのポイントがある。一つは信長が急遽中国へ出陣することになり安土に帰ったと聞いて、筒井順啓自身が京都に行く必要がなくなったと納得したのはなぜか。もう一つは誰が、信長が安土に向かったというデマを流したのかという点である。
前者については、順啓は毛利攻めに加担するのではなく、京都にしか用事がない仕事であった。これは向かう先は本能寺しかありえないということになる。明智憲三郎氏はこの日に信長が本能寺で家康の暗殺を仕掛けていたというの説(プレジデント社『本能寺の変四二七年目の真実』)を唱えておられるのだが、説得力がある。
後者については光秀以外の何者かが、この日の朝に本能寺に何が起こるかがわかっている人物がいて、ニセ情報を使って筒井順慶が京都(本能寺)に近づくことを阻んだという事実である。もしこのデマが流されなかったら、明智光秀と縁戚関係にある筒井順慶は、明智方についた可能性が高かったと考えられるのだ。
ではそのニセ情報の出し手は誰なのか。家康なのか、秀吉なのか。秀吉は前述した通り、安土城での家康の接待の日にあわせて毛利攻めの加勢を信長に申し入れている。これは恐らく信長が仕掛けたのではないか。だとすれば、秀吉は本能寺で六月二日に何があるかは判っていたことになる。
このように本能寺の変を当時の史料で見ていくと、通説とは全く異なる有力武将同士の権謀術数の世界が見えてくる。明智光秀が単独で謀反に及んだというのが通説だが、これらの史料を読めば、明智光秀の単独の犯行というような単純な話ではなさそうだと誰でも思うだろう。戦国時代の真実は、我々が学んできた歴史よりもはるかにドロドロとしたものなのだ。
しかし、明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか。その動機はどこにあったのだろうか。そのテーマを書きだすとまた長くなるで、次回に書くことにしたい。
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