明治期に大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎は、天保八年(1837年)越後国新発田の質屋の五人兄弟の四番目の子として生まれ、幼名を鶴吉といった。生家は商家とはいえ、帯刀が許され殿様に拝謁することが出来たというから格式のあるなかなかの家柄で、彼の自伝『大倉鶴彦翁』によると九歳の時から四書五経の素読を学び、二年後には漢籍を学ぶ傍ら習字、珠算を学んだという。
しかしながら鶴吉は十七歳の時に父・千之助を失い、翌年には母を失ってしまう。やがては家を出て身を立てねばならぬことは周囲から言い聞かされて、本人もその自覚があったのであろうが、鶴吉は、姉・貞子から二十両を受け取って十八歳の時に江戸をめざして出立したのである。

鶴吉が十八歳の時に越後国から江戸に出る決心をした事情
若くして故郷を離れようと決心したのには理由がある。ある日、漢籍を学んだ帰りがけに学友の家の前を通ると表門が閉じられていたのに気づく。その友人の家も商家であったのだが、事情を聞くと、一か月の営業停止処分を受けたのだという。処分が出た経緯を聞いて鶴吉は大憤慨したのだが、この出来事を大倉喜八郎は『致富の鍵』という書物の中で、次のように口述している。
その頃の町人というものは実になさけないもので、侍は無上の権力を持っていた。大道で侍に逢うと土下座というて地べたに座って平伏しなければならないのであった。ところで私の学友の父が、昨日町を通っていたが侍に逢った。その日は生憎越後名物のみぞれ雪の後で、通りは四五寸厚さの雪まじりの泥、そこへ平伏しなければならない端目に陥ったが、如何に町人でも跣足になって平伏は出来ない。が已むを得ないから袴の裾を泥に浸して両手をついて敬礼をして居た。すると後ろから来て、袴の裾を捲り上げる者がある。『こりゃ何だ、足駄を穿いたままで下座になるか。』と意地悪く糺明されましたので、重々済みませんと色々にあやまったがとうとう聞き入れられず、閉門の罰に中てられて、彼様に一月営業を差し止められたのである。
私はこの話を聞いて非常に気の毒に思うと同時に大層憤慨して、『侍が何だ、泥の上に平伏したらそれで沢山ではないか、…それも目付風情の奴があれ是れというて大切な商売の妨げをするというのは憎くい振舞だ。何時吾々も、この様な奴等に頭をおさえられるかも知れない。…一体こんなところに居さえしなければよいのだ。こんな国に居るのが間違っているのだ』と、非常に強く感じた。…
私はこの時の憤慨で、江戸へ出るという決心を固めたのである。
大倉喜八郎『致富の鍵』丸山舎 明治44年刊 p.8~9
鶴吉は翌日に漢籍の先生に志を告げると、先生も了解してくれていよいよ江戸に向かう決心を固め、友人にも声をかけたが結局一人で江戸に旅立ったのである。
鰹節屋の小僧から独立
安政元年(1854年)に江戸に着いた鶴吉は、友人を訪ねて日本橋の魚河岸の仕事を手伝ったのち、中川屋という大きな鰹節屋に奉公にあがるようになるが、越後の田舎から出て来たばかりの少年ゆえに苦労して、「自分の一身は自分で立てなければならない。決して他人を力にするものではない、他人を当てにしたのでは、いつまでも望みを遂げられる筈はない」ことを知ったという。
二十歳ごろに独立して上野で乾物屋を開いたころ、郷里のある豪家から鶴吉を婿養子にもらいたいと上京して鶴吉を口説きに来た者がいた。断ってもなかなか帰ろうとしないので鶴吉は、当時自分の座右の銘としていた香川景樹翁の詠んだ掛物を見せてあきらめさせたという。
景樹翁が窮乏の時に詠んだ、
わびて世をふるやの軒の縄すだれ
朽ち果つるまでかかるべしやはという歌である。その人が見て「喜八さんこれはどんなことなのです。」というから「死ぬまで縄すだれの破れ屋には居ない。いつか芽を吹き出そうということでしょう」と志のある所をいって、その人々を返したことなどもある。私はその頃独身で働いていた。
同上書 p.12~13
そして二十三歳の頃に、祖父の通称であった「喜八郎」を名乗るようになり、結婚したのは明治五年というから三十四歳の頃ということになる。
横浜で蒸気船を観て武器商人に鞍替え
乾物屋を開業して数年たった頃、天下の形勢は急激に変化して来た。日米修好通商条約が締結され、ついでオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも貿易が開始されると、急速な物価上昇が起こり、下級武士や庶民の生活を脅かすようになっていく。それに伴い幕府の権威は失墜して世の中は次第に騒がしくなっていくばかりだった。
喜八郎が二十四歳の頃、新しい商売のヒントを求めて横浜を訪ねている。当時の横浜は漁村に毛が生えた程度で西洋人はわずかしか住んでいなかったのだが、海岸通りに行くとたまたま蒸気船が入港してきて錨を降ろすところを観察することが出来た。そして彼はこう考えた。
『これだこれだ、こういうものが日本に来るようになってはきっと天下は一変するに違いない。』と囁いたのである。そこで天下が一変するについては必ずや騒動が惹き起こされなければならぬ。騒動が起きれば戦争によって曲直正邪を決定するものである。戦役に入用であるところのものは第一に武器類である。そうすれば先ず鉄砲屋になるがよいと思うたのである。
同上書 p.15

そして、喜八郎は江戸に帰って神田和泉町で鉄砲屋を開業し、屋号は魚屋時代の時と同じ大倉屋と名づけている。彼の仕入れた商品は飛ぶように売れたという。
天下は遠からず変乱に陥って大名と大名の争いになってしまうだろう。そうなっては、各藩爭うて兵制を改めることになり、つまり軍器の争いで勝敗は決することになるであろうという見込みを付けて、すぐ乾物商を止めて軍器商に変わった。多少の資本を借りて来て、横浜の外国商館に行って、鉄砲弾薬その他一切新式の軍器を買入れた。果たして、すぐ長州征伐が起こって各藩は爭うて洋式の兵制に改める。他には軍器を取り扱っている商店はどこにもない。私の仕入れた商品は瞬時に売れつくしてしまった。
同上書 p.18~19
戊辰戦争で何度も危機を乗り越える
そしてまもなく戊辰戦争が始まった。喜八郎は鎮守府総督の有栖川宮殿下より命じられて官軍の兵器糧食一切の調達を引き受けたのだが、そのために旧幕府軍からはマークされることとなる。武器を売るという仕事は、販売先の敵対勢力からいつ命を狙われてもおかしくなく、兵器などの輸送にも危険を伴うものであることは言うまでもない。

ある夜、喜八郎は数十騎の兵に取り囲まれて彰義隊の本営に送られ、詰問の場に引き出されている。白刃を突き付けられてのこのような応対は、よほど胆力がないとできないことであろう。
五六人の将校は高座の上に列んでいる。その一人は、まず私を睨みつけて、『其方は永年幕府の恩顧を蒙りながら、今更官軍の手先となるとは何らの不心得ぞ、多分その方は官軍の間諜であろう。取り糺して処分するから覚悟しろ。』と詰じる。
既に死を決した以上は何の憶する所もない。『貴官方は幕府恩顧の方々であろうが私は越後から参った商人です。官軍であろうと幕府であろうと私の目からは区別をしよう筈がありません。』と言えば、将校は、『然らば何故に官軍には鉄砲を売って彰義隊には売らないか。』と詰る。『我等商人の眼中には唯だ損益ある許り、官幕の如何を問う要はない。然るに官軍には鉄砲を売ればすぐに代価を請け下ぐることが出来るが、彰義隊には之を売っても代価を請け下ぐることが出来ない。これがためにやむを得ず銃砲を渡すことも出来ません。』と言えば、将校は憤然として『黙れ。』と大喝一声、白刃を抜いて差し向けた。私は殊更驚きもせぬ、唯だ黙然として白刃を見つめていた。
すると他の一将校が、『然らば金を払うが銃砲を納めるかどうか。』というから、『無論注文の通りに致す。』と言えば、『然らば三日の中に五百挺小銃を納めよ。』と言うので、その契約をしてその場は免れて帰った。その翌朝から上野戦争となったので幸いに右の契約履行の奇禍を免れたが、この時が丁度三十歳。
同上書 p.22~23

その上野戦争で彰義隊は明治新政府軍に敗れて解散したのだが、もし大倉喜八郎が最新鋭の武器を彰義隊に流していたら、一日でこの戦いが終わるようなことはなかったことであろう。

新政府と旧幕府の戦いは北上して、旧幕府側の拠点はいよいよ箱館を残すのみとなった。
喜八郎は箱館で戦が始まることを想定し、青森に展開している新政府軍に武器を売る契約をしたものの、武器を満載した船が青森の手前で暴風雨に襲われ、こともあろうに敵地の箱館に漂着してしまったのである。武器を載せていることがわかれば、武器や船が奪われるだけでなく喜八郎の命も危ない。
喜八郎はドイツ人船長と相談し、もし積荷の確認に来た際はそれを拒否し、武器が積んであることや日本人が乗り込んでいることについて一切口外しないことを指示した。そして、武器は船の奥底に隠し、日本人を隠して、甲板には外国人だけを出すようにした。

大正五年に出版された大倉喜八郎の自伝『努力』に、この時の対応が記されている。
案の定、港の方から無数の小船がやって来た。多分港内取締奉行で、今の税関役員のようなものであったであろうが、外国人相手にしきりに談判をして、是非船内を調べると言っている。すると船長は『イヤこれは外国船で青森に米を積みに来たのであるけれども、風の都合で暫くこの港に投錨しているまでの事である。決して迂論なものではない』と熱心に弁解する。
とうとうその談判が一昼夜続いた。甲板の下には我々四人が小さくなって、手代達は飯も食わずに慄えている。そして私が食事をするのを見て「貴主は能くマア物が食れますね」というから、「馬鹿いえ、食わずに居ったところでもし見つかって斬られる時には斬られるのだ。こうしているうちにも空腹い思いをしないように気を付けねばならぬ」とたしなめている。
其のうちにやっと談判も済んで、終に船の仲は見せないことになったが、未だ風波が悪くって船は出せない。早く出帆する様になれば宜いがと待ちくたびれていると、翌朝になってきた風が吹き始めたから、早々纜(ともづな)を解いて青森に乗り込んだ。
同上書 p.52~53
なんとか青森に武器を届けると、今度は代金の回収や、船を無断で使われて苦労した話など面白い話があるのだが、詳しくは『努力』の第二章第四節を読んで頂くことにして、喜八郎が当時の東京の状況を述べている一節を紹介したい。今では考えられないことだが、東京の中心部にあった豪邸がかなり安い価格で売られていたという。
ちょうど上野戦争の終わった翌日のことであるが、日本橋通に用達に行った帰りに十軒店を通ると、一人の男が黒壁の土蔵に売家の札を張り付けるところを見かけた。さてさて江戸も物騒だから田舎へ引っ込むために家を売るものであろうと思い、一見を乞うて中へ入ってみると、土蔵の奥にまた一つの文庫蔵という土蔵があって、中間は座敷、台所などが具合よくついている。なかなか気に入った住居らしかったから、「私はひやかすのではない、相当の値なら申し受けたいが」と話すと、先方でも「それでは只今売家の札を張る場合であるから、決着二百両ならば譲りましょう」というた。その値が如何にも廉いので反って気の毒な思いがしたから、一文も値切らずに綺麗に買ったので、先方も非常に喜んだ。その頃には世間の流言に、「花のお江戸も遠からず昔の武蔵野に帰るに違いない」などと妙なことがいわれて居ったので、何事も今日から想像もつかぬ位のありさまであった。家蔵は勿論、什器、蒔絵などが殆んど捨てると同じような相場で売買が出来ていた。それで私はその時から、神田の和泉橋よりこの十軒店の店蔵の家へ引っ越したことであった。
同上書 p.58~59
十軒店は現在の東京都中央区日本橋室町三丁目二番、四番にあたり、今は日本橋室町三井タワーなどが建っていて、日銀や三越などに近い繁華街であるのだが、かつては正月の羽子板や三月の雛人形、五月の武者人形など節句用品を商う店が立ち並んで賑わっていた地域である。当時このあたりの町家がどのくらいの価値があったかについてGrokに聞くと、現在価値にして二千四百万~八千万と幅があるのだが、日本橋室町あたりで路地裏にある町家なら百両から三百両くらい、日本橋表通りの町屋だったら間口五~十間くらいで五百両から千五百両くらいが相場だとの回答を得た。大倉喜八郎が買った家の広さや道路づけは不明だが、黒壁の土蔵や文蔵まであり二百両では「気の毒な思いがした」くらいだから、相場より余程安く購入できたのであろう。
その後如何にして大倉財閥を築くに至ったかについては次回の「歴史ノート」に記すことにしたい。
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