前回の「歴史ノート」で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館時代であることを書いた。
鹿鳴館は明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治十六年(1883年)十一月二十八日に落成した建物で、国賓や外国の外交官を接待するため外国との社交場として使用されてきた。
尾崎行雄の鹿鳴館外交批判

そもそも鹿鳴館が建てられた最大の目的は、欧米諸国との不平等条約を改正する点にあったのだが、肝心な条約改正はほとんど進展せず、鹿鳴館外交への批判の高まりとともに、このプロジェクトを推進した井上馨は明治二十年(1887年)九月に外務大臣を辞すことになる。今回はその経緯について書くこととしたい。

鹿鳴館外交を痛烈に批判した尾崎行雄は、『日本憲政史を語る・上巻』のなかで伊藤博文・井上馨の外交について次のように記している。
はじめ井上公が、条約改正を企てた時は、大変な意気込みであった。乃公*の声望と力量とを以てせば、列国の使臣を説伏し、維新以来の宿案を一決する、何のことやあらんというので、とりかかったのであるが、さてやって見ると、なかなか困難である。列国の使臣は概ね我を侮って、こちらでは多大の譲歩を為すにもかかわらず、容易に応じそうな気色が見えない。
*乃公:俺様、我輩そこで井上候は考えた。そこれは日本の制度文物、民情風俗が、あまりに欧米諸国とちがいすぎているからである。これからはすべて欧米風を模倣し、まるで欧米諸国と同じにしてしまおう。そうでもしなければ、とても条約を改正して、列国と対等の地位に進むことは出来ないと考えた。そうして極端な欧化政策を採りはじめたのである。
従来の日本の習慣を破って、何でもかでも欧米の風俗を模倣し、夫人の洋服や束髪を誘導して見たり、内外男女の交際を奨励したりするのはまだしも、そのため或いは人種改良と称して内外人の雑婚を唱え、甚だしきは日本を耶蘇教国にしようと主張する者さえ現れた。
いわゆる鹿鳴館時代というのは、かくして現れたのである。
この欧化の思想は、明治二十年の春に入って、いよいよはなはだしく、首相官邸と外相官邸とは、宴楽の巷と化し、国事を挙げて声色の間に溺没するかに見られた。殊に四月二十日の伊藤首相官邸における仮装舞踏会の如きは、会するもの、内外朝野の貴顕紳士および貴婦人令嬢、合わせて四百名、その狂態言語に絶するという評判であった。
抑もダンスとは何ぞや。西洋の盆踊りではないか。一方では日本固有の盆踊りを、卑俗低猥なりとして禁じながら、自ら西洋の盆踊りに狂態を演ずるとは何事であるか。しかもダンスさえすれば、条約改正が成就するかの如く思って、謹厳そのもののような山形公や、野人自ら居る西郷公などまでが、妙な扮装をして踊り狂ったとあっては、馬鹿々々しいよりも、むしろ気の毒千万であった。
尾崎行雄『日本憲政史を語る・上巻』昭和13年刊 p.155~156
伊藤博文や井上馨はすべてを欧米風にすれば、欧米との外交交渉もうまくいくと本気で考えたようなのだが、明治二十年(1887年)四月二十日に伊藤首相官邸で行われた仮装舞踏会については、当時の新聞もかなり批判的に書いている。

仮装舞踏会についての「やまと新聞」の記事が『新聞集成明治編年史. 第六卷』に出ている。
「欧化主義の珍ばけものが競い集って伊藤首相官邸の大夜会 貴顕高官皆役者そこのけの扮装」という見出しをみればわかるように、大臣やら高官が夫人とともに仮装して舞踏会に集まったことを、記者も馬鹿々々しいと思いながら記事を書いていることがわかる。
鹿鳴館時代についての金子堅太郎の証言
次に、伊藤博文に近い人物の証言を紹介したい。清水伸 著『維新と革新』という本に、伊藤博文の秘書官であった金子堅太郎の証言が掲載されている。
金子の証言によると、明治十八年(1885年)に伊藤が初代総理となったのち、条約改正の件でイギリス公使ブランケットと条約改正の件でかけあった。伊藤はブランケット公使とは懇意の中であった。
伊藤さんが関税の五分はひどい、治外法権も近々立憲政治になるのだからどうかしてくれと公使に話すと、それなら私が何とかしましょうとブランケットが口を利いた。これが条約改正の交渉に応じた最初だと伊藤さんから私は聴いている。
ところが公使は――治外法権を撤廃して内地雑居というか、日本人と一緒に外人は居住せにゃいかぬ。それでは政治上は同等になっても国民的に日本人が外人と同等に交際出来るだろうか。第一あなた方参議にしてからが、いくらパーティに呼んでも男ばかり来る、奥さんは一度も来ない、参議の奥さん方が我々の細君と交際が出来ぬ位なのに、どうして国民が治外法権を撤廃して西洋人と同等の位置を保つことが出来ましょうか。それも出来ぬのに改正改正と呼んでもおかしいではありませんか。――というので、これには伊藤さんは非常に強く感じたようです。
清水伸『維新と革新』千歳書房 昭和17年刊 p.324
イギリス公使からそのように言われたものの、欧米では夜会で脛が見えたりストッキングが見えてはいけないことになっていたので、和服を着せて晩餐会に夫人を連れて行くことは出来ない。洋服を着せるしかないのだが、当時の日本女性で洋服を着る者は誰もいなかった。
婦人に洋服を着せるためにはまず、洋服を国内に普及させることが必要になる。そこで、伊藤はまず宮中から洋装化を始めようとした。陛下も女官も洋装にすれば大臣の婦人も洋服を着るようになるだろうとの考えであった。

宮中の洋装化が始まると、いよいよ伊藤は欧米人との交際をはじめようとした。金子堅太郎の証言を続けよう。
欧米人と交際するには、ただ午餐会や晩餐会だけではいかぬから一つ一緒になって娯楽を共にすることにしよう。それにはダンスがよかろうというので鹿鳴館でダンスを始めることになった。ダンスは毎日やったわけではなく一週間に二度とか、三度ダンスの先生が来て教えたのであります。総理大臣の伊藤さんがそれじゃ男女混合の仮装会をやろうじゃないかと、総理大臣官邸で開くことになった。…中略…
とにかく伊藤さんはどうしても社交的に対等にならにゃいかぬといって宮中に洋服の御採用を願いあげ、率先して鹿鳴館でダンスをやらせ、官邸で仮装舞踏会まで催したのであります。その夜、山縣さんは奇兵隊の軍服を着て、ものものしい帽子をかぶっていたし、佐々木工部卿などは土佐の紙の着物――土佐では礼服だという紙の裃を来てパサパサ音を立てていた。その他いろいろありました。しかし新聞では盛んに悪口をいうた。伊藤というやつは欧米に心酔してダンスまでやるとはけしからぬというのです。
だが伊藤さんは太っ腹のひとで、新聞で何といおうと構うもんか。俺の真意は奴等には分かりやせぬ。書きたいなら書かしておけと打棄らかしておいた。俺は大局から見ているのだ。後になれば俺の真意も仕事もわかるだろうと弁明もしないのが伊藤さんであった。鹿鳴館のダンスも条約を改正するについて欧米人と対等に交際しなければならぬという国を思えばこそであったのであります。
同上書 p.325~327
しかしながら、その当時のわが国は「男女七歳にして席を同じうせず」という考え方が当たり前で、良家の女性がいきなり鹿鳴館に行くこととなり外国人男性と踊るようになると、いろんな椿事が起こることとなる。

伊藤痴遊の『井上公全伝』にはこのように解説されている。
大臣や高等官の婦人令嬢はそれがために舞踊の稽古を始めて、ようやく足の踏み方や手の動かしようを習得ると、すぐに盛装して鹿鳴館へ乗り込んで来ては、衆人稠坐の中で、異人と手を把り相擁して踊り廻る。之を屡々繰り返して居るうちには、男女の間に妙な情合が起こってきて、或る大臣の夫人は眼色髪色の異った子を生んだとか、或は坊大臣が家族の令嬢を強姦したとか、公の席では高言することさえ憚る程の、醜怪な事実が追々に現れてくる。今さらに悪いことを始めたと後悔しても、まさかに中止することもならず、銘々に自分の嬶や娘の警護をしながら、びくびくもので舞踊会を続けられていたのだ。当時、最も流行したのが仮装舞踊会なるものであって、平常は謹厳な人だと言われた者までが繰出して、呆れ返る程の騒ぎを行ったものである。山縣有朋や大山巌が真面目な顔をして、奇想天外より到る底の仮装を、衆人に見せて驚かれたこともあった。渋沢栄一が娘と共に衣装を着け白粉を塗って、羞かし気もなく跳ね廻り、三島通庸のような荒武者までが、山崎街道の猪になって飛び出すと云うような訳で、真面目な考えをもっている者は、皆苦々しいことに思ったものである。
鹿鳴館の騒ぎはこういう次第であるが、其一方に於いては、人種改良というものが、井上の主唱によって組織された。是は日本人の骨組みから変えて掛らねばならぬという意見で、大いに人種の改良を謀ろうとした。それには盛んに外国人と結婚して、その種を取ることとしなければならぬ、といったようなことを唱える。近年になってから流行って来た、種馬を遠く西洋から求めて、日本の馬を改良しようとしたのと同一である。馬鹿もここまで登り詰めれば、愛想が尽きて小言も言えなくなる。
伊藤痴遊『井上侯全伝』忠文堂書店 大正7年刊 p.461~462
条約改正は明治時代における国民的悲願ではあったが、それを成し遂げるために伊藤や井上は欧米人の歓心を得ることばかり考えていたようなのだ。そのために極端な欧化主義が行われ、善良な日本文化や風俗までも破壊されたのだが、井上馨は雑婚を進めて日本人種を改良しようとまで考えていたという。
井上馨の公式の伝記として編纂された『世外井上公伝』の第三卷に、彼の当時の考え方がまとめられている。
我が帝国及び人民を化して、恰も欧州邦国の如く、恰も欧州人民の如くならしむるに在るのみ。即ち之を切言すれば、欧州的一新帝国を東洋の表に造出するにあるのみと。
『世外井上公伝』第三卷 内外書籍 昭和9年刊 p.913
しかしながら、伊藤や井上がここまでして成立させようとして準備していた条約改正案の内容が雑誌に掲載されると、守旧派から大批判を浴びることとなる。
初代農省務大臣であった谷干城は、改正案は外国人本位の条項があり国益に合わないとし、特に大審院の裁判官に外国人を任用するの一条は大問題であるとの建白書を内閣に提出し、辞表も提出している。
また司法省お雇いのフランス人ボアソナードも建白書を内閣に提出し、「今やお雇いの任期が満ちて帰国するにしても、日本国の前途に害をなす為すべき条項については、沈黙していることが出来ぬ」として、大審院の裁判官に外国人を任用することに反対したのである。
さらに板垣退助、勝海舟らも反対意見書を提出し、これらの内容は自由民権派によって秘密裏に印刷されて広められ、条約改正反対の世論が沸騰していくことになる。
ノルマントン号事件
私の学生時代には、条約改正の世論が高まったきっかけとして「ノルマントン号事件」があったことを学んだ記憶があるのだが、最近の教科書ではこの事件のことは書かれていないようである。ほかにも条約改正の世論を高めた事件はいくつかあるのだが、ノルマントン号事件は鹿鳴館外交が行われていた頃に起きた重要事件であり、ここで少し振り返っておこう。

明治十九年(1886)十月二十四日の夜にイギリス船籍の貨物船ノルマントン号が、暴風雨に遭い紀州沖で座礁沈没したのだが、白人の乗組員二十六名は救命ボートで脱出し全員生存しているにもかかわらず二十五名の日本人乗客全員とインド人の火夫十二人全員が溺死した。日本人を助けなかった船長の行動に、当然のことながら非難が集中したのだが、在日英国領事は領事裁判権に基づく海難審判で船長以下全員を無罪判決を下したため、日本国民は悲憤慷慨したのである。
条約改正交渉を進めていた井上外相は、世論に押されて船長を殺人罪で告訴したが、横浜領事裁判所は船長を有罪とはしたが、死者への賠償金は支払われなかった。井上外相は日英関係の悪化を回避しようと弱腰であったことから、「媚態外交」と非難されたという。
その事件の翌年に井上の条約改正案が出されたのだが、前述した通り谷干城やボアソナードらから批判され、世論も欧米に弱腰な改正案を「国辱的」だとして許さなかった。
そのため条約改正交渉は延期されることとなり、井上馨は明治二十年九月に外務大臣の職を辞し、鹿鳴館は社交場としての役割を終えた。
欧化主義が誰の目にも明らかな程極端であっただけにその反動もまた大きく、その後は、いわゆる日本主義者が強硬的な外交政策による不平等条約解消とその裏付けとなる軍事力増大を主張することとなるのであるが、このように条約改正の世論が高まったのは、ノルマントン号事件に関する理不尽な判決なしにはあり得なかつたのではないだろうか。ほかにもいくつか不平等条約であるために日本人を怒らせた事件がいくつかあるのだが、その点はいずれ条約改正をテーマにする時に書くこととしたい。
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