岩崎弥太郎
第二次大戦後にGHQが財閥解体を行うまでは、三井財閥・三菱財閥・住友財閥を三大財閥と呼んでいた。三井、住友についてはそれぞれ三百年以上の歴史ある豪商がルーツであるのだが、三菱については明治期の動乱期に、創業者の岩崎弥太郎が政商として巨万の利益を得てその礎を築いている。 三菱グループのホームページに『岩崎弥太郎年表』があり、そこには「天保五(1835)年、明治維新まであと三十三年を残した土佐国安芸郡井ノ口村。生活に困り地下浪人へと没落していた岩崎家の九代目として岩崎弥太郎は生まれました。」と記されている。
「地下浪人」というのは、土佐藩における身分の一種で、Wikipediaによると「四十年以上郷士身分であった者が、郷士身分を他者に譲って浪人となって地域に居付いた者」とあり、さらに「郷士」については「武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民」であり、名字帯刀が許されてはいたが、平時は農業に従事し戦時は軍事に従った下層武士を意味している。
坂本龍馬は祖先である豪商の坂本直益が土佐藩より郷士株を購入し、曽祖父の代から郷士身分を得ていたが、岩崎家は弥太郎の曾祖父が郷士の資格を売却して以来の地下浪人であったから、弥太郎は龍馬よりも貧しく格の低い家庭に生まれ育った人物ということになる。

教科書などでは彼の出自については触れずに、「海運事業は政府の保護のもとに、岩崎弥太郎の創立した三菱会社を中心に発達した。」(『もういちど読む 山川日本史』p.226)などと簡単に書かれているのだが、貧しい家に生まれた弥太郎が、どうして「政商として巨万の利益」を短期間で得ることができたのかと疑問に思うところである。
坂本龍馬暗殺と「いろは丸事件」
以前坂本龍馬の暗殺に関連して「いろは丸」について調べたことがある。

慶応三年四月二十三日に海援隊が荷物を運ぶ目的で大洲藩から借り受け、武器や商品などを満載していたとされる「いろは丸」と、紀州藩の軍艦「明光丸」が広島県の鞆の浦近辺で衝突し、龍馬が乗っていた「いろは丸」の右舷が大破して沈没した事件があった。龍馬は船の代金と積荷代金の支払いを紀州藩に要求し、最終的に七万両の支払いで決着した。そしてその大金は十一月七日に、岩崎弥太郎が経営を任されていた土佐商会が受け取ったのだが、その八日後に坂本龍馬が暗殺されている。
その後海援隊と土佐商会は解散して九十九商会と改称して個人事業となり、明治四年(1871)の廃藩置県の時に岩崎弥太郎は九十九商会の経営を引き受け、土佐藩の負債を肩代わりする形で土佐藩所有の船三隻を買い受けた頃から、「三菱」の歴史が始まっているのである。

この経緯がわかるような本を国立国会図書館デジタルコレクションで探してみたところ、昭和三年に出版された徳久武治著『金と悪魔』という本に以下のような記述がある。
文中の「石川」という人物は、三菱会社設立時からの功労者であった石川七財で、弥太郎が土佐商会の金で豪奢な生活をしていることを疑った土佐藩主が密偵としてこの人物を送り込んだのだが、その気配を察知した弥太郎がたちまちに石川を抱き込んで自分の腹心としたという経緯にある。
ところでここに彼(岩崎)と『石川』以外には知られなかった大枚七万円という秘密の大金があった。それは彼の『坂本龍馬』が、伊州丸の償金として紀州家から取ったものを『龍馬』の死後、他人の名義で彼が保管していたのであった。『石川』が如何にしてこの秘密を知ったかというに、藩の命を受けて内密に『弥太郎』の罪跡調査中に計らずも嗅ぎ付けたのである。『石川』は敵として恐るべく、味方として頼むべき有為の材であった。『石川』は彼の股肱となった今日、大胆にもその金を会社の資金として流用を勧めた。そしてさらに、土佐藩の倉庫にあった、樟脳四万丁、時価十五六万両の品を『後藤象二郎』の斡旋で自分の方へ送らせ、この二つで忽ち二十二三万円の資金を作ることが出来た。その後まもなく『九十九商会』を解散し、豊富なる資金と十余艘の汽船帆走船を有する『三菱会社』を新たに創設した。時に明治四年、『弥太郎』は年わずかに三十七歳であった。
徳久武治著『金と悪魔』修文社 昭和3年刊 p.129~130
少し補足すると、『いろは丸』は大洲藩から龍馬が借りた船であり、賠償金のうち船価にあたる部分は本来なら大洲藩に支払われるべきものである。「龍馬『伝説』の誕生」(新人物文庫)という本には、「土佐藩から大洲藩への賠償金は、船価(35630両)の一割引きの金額が年賦で支払われることになっていたが、第一回の支払いが実行された記録が、土佐藩にも大洲藩にもない」と書かれている。だとすると、岩崎弥太郎が七万両を流用した可能性は高そうだ。
藩札で荒稼ぎした岩崎弥太郎
また岩崎弥太郎は維新政府が貨幣の全国統一化に乗り出す前に、藩札を大量に買い占めて荒稼ぎしたという説がある。
明治維新後、明治二年に版籍奉還が行なわれたが、各藩主はそのまま知藩事として留まっていたため実質的には全国統一国家の形にはなっておらず、明治政府としては早急に廃藩置県を断行したかったのだが、そのためには各藩が発行していた藩札を太政官札に引き換えることが必要であった。当時藩札の相場は下落していて、藩によっては三分の一とか四分の一になっていたようだが、廃藩置県後に政府がこの藩札をいくらで引き受けるかはぎりぎりまで秘匿されていたという。

昭和七年に出版された白柳秀湖が著した『岩崎弥太郎伝』には、この事情についてこう記されている。
藩札を廃藩置県布告の日の相場で引き換えるということのきまったのは、さほど前ではなかったようであるが、藩札を大蔵省で引き受けて処分するという大体の方針が決まったのは、余程前のことであったものと見えて、秘密は一部に漏れたらしく、土佐藩ではこの時岩崎弥太郎が買占めをやって大儲けしたという説がある。
この頃岩崎の部下に森田眞造という男があった。この男は堺の『米キ』即ち石崎とごく懇意の中であったが、岩崎は森田を通じて『米キ』から十万両の太政官札を借り出した。もちろん、土佐藩の信用では百両の融通もむずかしい当時であったが、岩崎は土佐藩の小参事で、東京在住の後藤象二郎や、林有造を通じて太政官の機密を早耳に知るには、最も便利な地位にあった。廃藩置県前後、大阪では太政官の機密を一日早く知ると知らぬとで、何百年という旧家がころんだり起きたりした。どういう交換条件であったかは知らぬが『米キ』は十万両の太政官札を岩崎の為に融通した。岩崎はこの十万両で、下落のどん底にあった鯨札*を手の及ぶ限り買い集めた。
そこへ廃藩置県が来て、各藩の藩札は大蔵省で引き換えるということになったから、岩崎は大儲けした。
*鯨札:土佐藩の藩札
白柳秀湖著『岩崎弥太郎伝』改造社 昭和7年刊 p.256~257

大隈重信と岩崎弥太郎との関係
また、昭和三年(1928)に伊藤痴遊の著した『隱れたる事實明治裏面史. 續編』にはこんな話が記されている。

九十九商会の時分には、船も十艘を越えず、あまり大きなものではなかったが、台湾征伐*の時、その運送御用を引き受けた時から、そろそろ頭をもたげてきた。弥太郎が大隈を介して、時の権力家大久保を説き付け、政府から金を出させて、数艘の汽船を買い入れさせこれを利用して、台湾征伐の御用を無事に果たし、その役の終わるや、その船はいつの間にか、九十九商会の所有にしてしまったのである。
*台湾征伐(出兵):台湾に漂着した琉球島民五十四人が殺害された事件の犯罪捜査などについて、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件」として責任回避したので、一八七四年(明治7年)に明治政府が行った台湾への犯罪捜査などのための出兵
伊藤痴遊著『隱れたる事實明治裏面史. 續編』成光館出版部 昭和3年刊 p.115~116
まるで九十九商会が政府の所有する船を横領したような書き方だが、戦地に赴く船には敵の攻撃を受けるリスクが高いことは言うまでもない。船を出す方からすれば、成功報酬が余程高くなければ応じられないことは当然だから、明治政府とかなり厳しい条件交渉があったと考えるのが自然なのかもしれない。
それにしても弥太郎はかなり運が強く、同様なやり方で保有船数を大幅に増やしていった。
その三年後の明治十年(1877)には西南戦争がおこり、軍隊や兵糧の輸送について、明治政府は岩崎に一切を託すこととなった。再び伊藤痴遊の著書を引用する。
この時に岩崎は政府へ建白して、五百七十万ドルの金を支出させ、自分がこれに三十万ドルの金を加え、十隻の汽船を外国から買求めて、御用に応じて、西南戦争が終わってのち政府から出させた五百七十万ドルで買った船は、貰ったものでもなく払下げたものでもなく、何だか訳のわからぬうちに、岩崎の手に帰してしまったのである。
表面において、陸軍省から支払われた運賃だけでも四百万円以上に上っている。こういう事情から、三菱会社の基礎は堅固になり、岩崎家の資産は、遽かに増してきたのである。
同上書 p116~117
いかにリスクの高い事業であったとはいえ、岩崎にかなり有利な条件であったことは確実だろう。明治政府とこのように有利な交渉が出来たのは、大隈重信の存在が大きかったようだ。伊藤痴遊は岩崎と大隈との関係をこう記している。
あまりの悪辣なる彼のやり方に対して、なかなかに非難も多かったのである。その仲介を勤めたのが大隈であったから、今でも大隈家と岩崎とは因縁があり、重信の生存せる間は、年々岩崎家から少なからぬ台所料なるものが支出されていたということは、公然の秘密であった。前年大隈邸が焼失した時分にも、岩崎家は直ちに見舞金として十万円を贈っている。
同上書 p.117
岩崎討伐論が活発化
このような手法で三菱会社はどんどん事業を拡大し、岩崎家も富を増殖していくことになるのだが、その事が国内で大問題となる。伊藤痴遊の解説を続けよう。
…三菱会社の商売振りというものは、甚だしき専横振りを発揮し、乗客はあたかも豚の如く取扱われ、貨物の賃金などは、荷主の懐を考えず、ボリ放題に取上げたものである。そのために、世間の非難が漸く起こって来たのみならず、沿岸の海運業者との軋轢が甚だしくなり、三菱会社専横の声が非常な勢いで勃発した。
同時に政府部内においても、あまりに岩崎家の富が増殖していくのと、三菱会社の事業が拡張されていく、この二つの事情から考えて、何とか牽制策を講じなければならぬという議論が日を追うて高くなってきた。民間においては田口卯吉が、東京経済雑誌紙上において、さかんにその横暴を痛撃するというような有様で、政府部内の岩崎征伐論は、勢いを占めて来た…
同上書 p.119
文中の田口卯吉の三菱批判も国立国会デジタルコレクションで読むことが出来る。

田口は明治十一年の大蔵卿の予算表から、農商務省本省の総予算四十五万八千七百七十三円のうち、三菱会社二十五万円、沖縄号航海費九千円、朝鮮国定期航海費一万円が三菱会社に支払われる内容になっていることを指摘している。本省の予算の六割近くが三菱会社一社に支払われている予算になっているのだが、これを問題視した田口卯吉は正論を述べただけのことだ。
政府内でも品川弥次郎、西郷従道が立ち上がり、渋沢栄一が音頭取りになって三井系の共同運輸会社が創設されると、両社の競争が始まって運賃が大幅に値下げされることとなる。

伊藤痴遊の著書によると、横浜から神戸までの船賃が三菱が独占していた時代は乗客一人について五円五十銭だったが、共同運輸会社との競争が始まると一円五十銭まで下がり、さらに五十銭になって弁当まで出たという。
しかし、ここまで船賃が下がる消耗戦が続いてはお互い採算が取れるはずがない。岩崎は共同運輸会社の株価が低落したのを見て、過半数以上の株式を買い占めてしまったという。
ふたたび伊藤痴遊の著書を引用しよう。
同時に三十万円の運動費を支出して、岡本健三郎*が政府部内に運動を始めた。それは西郷、品川のやりかたに反対しているものを突っつき始めたのである。
『それまでして岩崎を苦しめるには及ぶまい。三菱会社も、前後二回の戦争には、相当の功労があったものである。したがって戒しむべき点は戒めておくことに悪いことは無いが、これを潰してしまうことは、ちょっと穏やかではない』
という説が起こってきた。
同時に過半数以上の株券を持っている岩崎家が、共同運輸会社の解散説を主張し始めたから、遂にこれに敵対すること能わず、紛擾は日一日と高まってきた。その中に仲裁者が現われ、遂に両社合併という説が行なわるることになり、その結果として成立したのが、今の日本郵船株式会社なるものである。したがって、今日でも郵船会社の勢力は岩崎家の手に帰しているのは、もとより当然のことであって、近藤廉平**の去った後の郵船会社は、大分形勢が変わってきたが、その以前においては、あたかも岩崎家の出張所たるが如き観があったのは、無理もなきことである。
*岡本健三郎:元土佐藩士。坂本龍馬と中岡新太郎が襲撃される直前まで近江屋にいたが、所用があり退席して難を免れている。龍馬暗殺に岩崎弥太郎が関与したとする説があるが、岡本が見回り組に龍馬がいることを伝えたと主張されている。またこの男が後に岩崎弥太郎に雇われ、日本郵船株式会社設立に参画し理事となっているのも気になる所である。
**近藤廉平:元徳島藩士。明治5年に三菱商会に入り、岩崎弥太郎の従妹・豊川従子と結婚。その後日清汽船社長、日本郵船社長となる。
伊藤痴遊著『隱れたる事實明治裏面史. 續編』p.121~123
共同運輸会社との協定が成立したのは明治十八年(1885)の二月六日なのだが、岩崎弥太郎は年明けから重病を患っており、主治医からは絶対安静を命じられていたということだが、両社の協定成立については主治医の了解をとって報告がなされたという。
そして岩崎弥太郎はその翌日、二月七日の夕刻に帰らぬ人となっている。享年五十二歳であった。
遺骸は同月十三日に駒込染井の墓地に葬られ、葬式には京浜間の主たる社員だけが参列を許されたという。
明治維新前後の大混乱の中、一代で巨額の富を築きあげた岩崎弥太郎は、強烈なリーダーシップと卓抜した商才の持主であったことはそのとおりなのだが、かなり強引なやり方で金を稼いだことで世論の批判も多く、農商務卿西郷従道から「三菱の暴富は国賊なり」と非難されたこともあった。
岩崎小弥太が定めた経営理念が三菱財閥を発展させた
岩崎弥太郎の商売のやり方は、近江商人の商いの精神とは対極にあったと言って良いだろう。
近江商人は「商いというものは売り手も買い手も適正な利益を得て満足する取引であるべきであって、その取引が地域社会全体の幸福につながるものでなければならない」と考え、『三方良し』、すなわち『売り手良し、買い手良し、世間良し』の精神を商売の心得としたのだが、創業期にこのようなやり方で巨額の富を短い間で築き上げることは不可能に近い。

しかし、三菱の経営理念はのちに近江商人の考えに近づいていく。第四代社長の岩崎小弥太(弥太郎の弟・弥之助の長男)が一九三〇年代に定めた経営理念『三綱領』が今も三菱グループの企業活動の指針となっているという。
・所期奉公…期するところは社会への貢献
・処事光明…フェアープレイに徹する
・立業貿易…グローバルな視野で

先ほど紹介した『金と悪魔』という書物で、著者の徳久武治はおもしろいことを述べている。
今日及び今後の『三菱』にはもはや『弥太郎』の如き創業の材幹を必要としない。もし万一彼の天命を長からしめば、あるいは益々野望を逞しうして、ためにせっかく築き上げた全財産を擲(なげう)ち丸裸になるようなことが無かったとも限るまい。この意味から言えば、彼が比較的短命であったことは、かえって『三菱』の大を成し得た所以であるとも言える。
徳久武治『金と悪魔』p.139
「創業は易く守成は難し」ということわざがあるが、何事も新しく始めることよりも、築き上げたものを軌道に乗せて守り続けていくことのほうが難しい。
弥太郎という人物がいなければ三菱財閥が生まれることは無かったのだが、徳久武治の言う通り、もし弥太郎が早死にせずに社長として長くとどまっていたなら、三菱グループは今ほどの大きな企業集団にはなっていなかったのではなかったか。
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