GHQが焚書処分した本の中に、ハワイに関する本が全部で十一点存在する。その中で、戦後の日本人にはほとんど知られていない話が多く記されているので、いくつかを紹介させていただくこととしたい。
日本人漂着者の記録
ハワイに欧米人がはじめて上陸したのは、一七七八年にイギリス人の探検家ジェームス・クックであるが、日本人については鎌倉時代に漁民が漂着した記録があるらしい。
GHQ焚書処分された『ハワイ』(朝日時局新輯 ; 第43)には次のように記されている。(原文の皇暦表記は西暦に変換)
三千里の波濤を隔てる日本とハワイとの間の交渉は当然漂流民によって始まった。これを仲介したものは雄大な太平洋の黒潮であり、その主役はたくましい筋骨と海を愛する魂とを持った日本の漁師達であった。しかし一体何時ごろからこのような交渉が始まったかということは当然伝説の時代に遡らなければならない。ここでは詳しい考証じみたことを行う余裕はないが、最も古いものは文永七年(西暦1270年)で恐らく琉球人ではないかと思われる漂流者がマウイ島のカフルイに漂着したと伝えられている。これは亀山天皇の御代であり、北条時宗の時代で、アメリカ大陸発見に先立つこと三百年、クックのハワイ発見に先立つこと五百八年という昔話…である。
『ハワイ』(朝日時局新輯 ; 第43) 昭和17年刊 p.14
同書や山下草園 著『日本布哇交流史 』(GHQ焚書)などに、その後もハワイに日本人が漂着した記録が紹介されているが、詳細は省略することとして、その中に土佐の中浜万次郎(ジョン・万次郎)がいる。

天保十二年に万次郎が十四歳の時に乗り込んだ漁船が悪天候のため漂流し、一行五名が運よくアメリカの捕鯨船に助けられ、途中でハワイのホノルル港に寄港した。万次郎は一人米国本土に渡り、英語と測量術、航海術、造船技術等を研究し、嘉永四年に帰国後は、幕府の軍艦訓練所教示等を務め、後述の通り万延元年(1860年)には幕府の遣米使節の通訳として活躍した。
遣米使節団のハワイ寄港
日本とハワイとの交流は漂流民との接触からはじまっているのだが、江戸末期に日本の公式使節団が始めてハワイを訪れてハワイ国王と面談している。
万延元年(1860年)に日米修好通商条約の批准の為に遣米使節団がアメリカに渡る途中で暴風雨に遭い、ポーハタン号が燃料補給の為に急遽ホノルル港に寄港した。ハワイ滞在中一行はハワイ国王カメカメハ四世の歓待を受けている。
遣米使節のハワイ滞在記録は、山下草園著『日本布哇交流史』(GHQ焚書)に詳細に記されているが、副使であった村垣範正は「草木鳥獣まで見馴れぬもののみなれば、かの龍宮にいざなわれしかとおもうばかり也」と日記に書き残しているという。

また護衛艦であった咸臨丸は、帰路でハワイに立ち寄って国王に謁見している。この船には軍艦奉行木村摂津守、船将勝麟太郎以下、福沢諭吉、通訳の中浜万次郎ら総勢百二名が乗船していたのだが、『中浜万次郎伝』によると、カメハメハ四世は「明年は予日本皇帝を訪問し、貴国に至るべし」と語られたことが記されている。
日本人労働者無許可出発事件
なぜカメハメハ四世は、遣米使節団に対して自ら天皇陛下を訪問する旨を述べられたのであろうか。この点については当時のハワイ国はどのような問題を抱えていたかを知る必要がある。『日本布哇交流史』には次のように解説されている。
ハワイに於ける製糖業は、天保六年(1835年)カメカメハ第三世の時代に、カウアイ島コロア製糖会社が設立された頃から、主要産業としての地歩を確立したが、同業の発達に伴い、ハワイ土着人の労働能率の貧困さと、人口の減少により、必然的に労力不足を増大するに至った。そこで嘉永四年(1851年)には支那労働者を輸入するに至り、爾来二十年間の間にその数は二万人に達した。
製糖業社はこの忠実にして賃金低廉なる労働者により、糖業発展上甚大なる利益を得たが、しかも支那人苦力は性質頑迷にして、風俗習慣なども頗る排他的なるため、後年ハワイの社会に、禍根を胎すに至りはせぬかという憂慮が深かった。かくてついに明治十九年(1886年)に及び、支那人の入国を制限するに至った。
この支那人輸入制限に先立ち、ハワイ政府と糖業者は費用の折半負担を以て、これに代わるべき労働者を日本に求めることとなり、その準備工作として日本と通商条約を結ぶべく、慶応三年(1867年)時の国王アール・カメハメハ五世は、外務大臣シー・ディー・ヴァリグニーと連署せる国書を、日本駐在総領事ユジーン・エム・ヴァン・リードに送り、これを明治天皇に奉呈せしめたが、日本は時あたかも明治維新の直前にて、これを顧みる暇がなかった。
ここに於いてハワイ政府は、日本との通商条約締結運動をひとまず措いて、日本人労働者の輸入に先鞭をつけることに決し、横浜駐在のヴァン・リードをして交渉せしめることとなった。
山下草園 著『日本布哇交流史』大東出版社 昭和18年刊 p.8~9
当時のハワイは王制は維持されていたものの、政治・経済の中枢部分はすでにアメリカによって掌握されており、外国人の土地の所有権を認めてしまって以降は、多くのハワイ諸島の土地がアメリカなどの外国企業、外国人に所有されるようになっていた。
また、労働力不足を安価な中国人苦力で補おうとしたが原住民とのトラブルが絶えなかったため、中国人に代わるべき労働者をわが国に求めようと考えた。しかしながら、わが国は維新の動乱期でありそれどころではなかったのである。
そこで、ヴァン・リードは明治元年(1868年)四月に、無許可のまま百五十三人の男女日本人を英国船に乗せてハワイに向けて出航させてしまうのであるが、これがハワイに渡航した最初の日本人移民ということになる。
明治政府は、渡航した日本人の一部から帰国を要望する悲痛な嘆願書が多数寄せられていたため、翌年九月に移民召喚と残留者待遇改善を求めて使節を派遣し、その際に四十二名が帰還している。
ハワイに残留した日本人についてはハワイ人からも白人からも好意をもって迎えられていたのだが、明治政府はこの事件以降ハワイに移民を送ることをやめている。
『布哇史ものがたり』(GHQ焚書)にはその後のハワイの砂糖耕作労働者について次のように述べている。
ハワイでは日本移民杜絶のあとは、支那から多数の移民を入れた。明治十五年(1882年)ハワイの砂糖耕作労働者一万二百四十名のうち約六〇%は支那人が占めていた。しかも支那人はさらに激増の傾向があるので、土着民の減少に対し、かくも支那人のみの増加をみることは考えるべきことだった。そこで再び日本移民のことが問題になり、日本当局へも一度頼んでみようということになった。一面これはハワイの種族保存のためばかりでなく、ポルトガルや支那人は砂糖栽培労働に不適当な点があったことにもよるのだろう。
鬼頭イツコ 著『布哇史ものがたり』東都書籍 昭和18年刊 p.194~195
カラカウア国王の来日

前述したとおり、当時のハワイ国の政治・経済の中枢はアメリカ人に握られていた。第七代目国王カラカウアは、一八八一年(明治十四年)に国際親善訪問の旅に出たのだが、この旅行で国王が一番感動したのが日本だったという。上の画像は、一行が来日した時に撮影されたものである。
国王は明治十四年の三月に横浜に上陸し、翌日横浜駅から特別列車で新橋駅に着き、そこから赤坂離宮に向かうのだが、横浜港も鉄道も日本人が仕切っていることに驚いたという。 例えばインドでは、鉄道輸送から徴税、税関業務までが英国が独占し、インド綿には英国で高額な輸入税がかけられ、一方英国綿製品は関税なしでインドに輸入されて、インドの綿工業は全滅した。イランでは、郵政や電信電話は英国、カスピ海航路はロシア、税関がベルギー、銀行は英国とロシア…という具合で、自国民が重要施設を仕切っている国は欧米以外の国ではほとんどなかったのが現実だった。

三月十一日、日本を訪れていたカラカウア王は随員の米国人には一言も知らせずに、一人で極秘に明治天皇に会見を申し入れたという。この会見の内容は驚くべきものであった。 この時のカラカウア王の言葉が明治天皇の公式記録である『明治天皇紀』に残されている。
今次巡遊の主旨は、多年希望する所のアジア諸國の連盟を起こさんとするに在り。欧州諸国はただ利己を以て主義と為し、他国の不利、他人の困難を顧みることなし。而して其の東洋諸国に対する政略に於いては、諸国能く連合し能く共同す。然るに東洋諸国は互いに孤立して相援けず、又欧州諸国に対する政略を有せず、今日東洋諸国が其の権益を欧州諸国に占有せらるる所以は一に此に存す。されば東洋諸国の急務は、連合同盟して東洋の大局を維持し、以て欧州諸国に対峙するに在り。而して今や其の時方に到来せり…(中略)
今次の旅行、清国、暹羅、印度、波斯等の君主にも面会して、具に連盟の利害得失を辨説せんと欲す、然れども、弊邦[ハワイ]は蕞爾(小さい)たる島嶼にして人口亦僅少なれば、大策を企画するの力なし。然るに貴国は、聞知する所に違わず、其の進歩実に驚くべきのみならず、人民多くして其の気象亦勇敢なり。故にアジア諸国の連盟を起こさんとせば、陛下進みて之が盟主たらざるべからず、予は陛下に臣事して大に力を致さん…」
『明治天皇記』第五 : 勝岡寛次「抹殺された大東亜戦争」p.170所収
カラカウア王は明治天皇に対して、西洋諸国の侵略に対して東洋諸国が団結する必要がある。ひいては明治天皇には「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」になって欲しいと嘆願したのだ。
この提案に対する明治天皇の回答も続けて記録されている。

欧亜の大勢実に貴説の如し、又東洋諸国の連合に就きても所見を同じくす。(中略)然れども、我が邦の進歩も外見のごとくにはあらず、殊に清国とは葛藤を生ずること多く、彼は常に我が邦を以て征略の意図ありと爲す、既に清国との和好をも全くすること難し。貴説を遂行するが如きは更に難事に属す、尚閣臣等に諮り、熟考して答ふべし…

さらにカラカウア王は、この時に日本人の移民を要請され、さらに姪であるカイウラニ王女に皇族山階宮定麿王(のちの東伏見宮依仁親王)を迎えて国王の後継者としたいとの提案もあったという。当時山階宮定麿王は十三歳、カイウラニは五歳で、ハワイ王室と日本の皇室とを結び付きを強くして、ハワイ王国を存続したいと考えての発言であった。下の画像は成人となったカイウラニ王女であるが、なかなかの美人である。

この会見内容は国家的重要事であるので、明治天皇の御指示により、国王に随行していた米国人アームストロングにも伝えられた。
日本移民の増加とアメリカの対応
カラカウア王が世界歴訪から帰国したのちに取り組んだのは、王権の強化を図ることであり、米国宣教師が否定した神話・伝説の復活や、ハワイ正史の編纂事業に取り組んだ。また宣教師によって禁止されていたフラダンス*を復活させ、自らもハワイ国家をはじめたくさんの民族音楽を作詞作曲したという。
*フラダンス:神(フラ)にささげる神聖な舞踏で、男の踊り。
こうした動きが、米国を強く刺戟することになる。
同じ年の一八八一年(明治十四年)十二月に米国国務長官ブレーンが、ハワイ公司にあてて次のような訓令を発信していることが、吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』(GHQ焚書)という本に紹介されている。
ハワイはその位置から見て北太平洋における軍事上の枢要の地点を占めているから、同島の占領は全くアメリカ國策上の問題である。その独立を侵さずに、事実上ハワイをアメリカの一部にしてしまうには、米布(アメリカ・ハワイ)間の密接な結合を必要とする。…中略…
最近ハワイの人口は激減を来し一八七二年より一八七八年に至る間にその約一割を減じ、いまなお依然として減退の一途をたどっていることは、ハワイ政府の一大憂患たることは疑えない。(これが解決策としてアジア人をもつてハワイ人に代へ、あるいはインド人を無差別に移住させて人口激減を補うが如きは、これを良策と呼ぶことは出来ない。かかる方策を用ひて)ハワイをアジア的制度に結合しようとするのは出来ない相談だ。もし自立することが出来なければ、ハワイはアメリカの制度に同化すべきものであつて、それは自然法並びに政治的必要の命ずるものである。
吉森實行 著『ハワイを繞る日米関係史』文芸春秋社 昭和18年 p.67~68
このように、アメリカは自国の国益上に有益な場所にある国は、国策上占領すべきだという勝手な考え方であった。
翌明治十五年(1883年)二月に明治政府はハワイに特使を派遣し、「アジア諸国の連盟」の「盟主」となることと婚姻の申し出については丁重に謝絶した。しかし、移民の申し出に関しては明治十七年(1885年)には九百四十六名を送ったのを皮切りに、日本人移民は続々とハワイに渡航し、二十世紀初頭にはハワイ人口の四割を日本人が占めるようになったという。
アメリカは反撃に転じ、一八八七年に、王権の制限・弱体化を目的とした新憲法を米国側で起草し、ハオレ(白人)の私設部隊である「ホノルル・ライフル」を決起させ、武力で威嚇してカラカウア王に迫り強制的に調印させた。この憲法は別名「ベイオネット(銃剣)憲法」とも呼ばれているそうだが、この内容がどんなにひどいかは読めばすぐにわかる。
ハワイ国の臣民にして年齢二十一歳に達し、ハワイ語・英語もしくは他のヨーロッパ諸国語を読み、書き、算數を会得し、少なくも三ケ年間国内に居住し、ならびに五〇〇ドル以上の財産を国内に有し、あるいは一ケ年少なくも二五〇ドルの所得を有するハワイ・アメリカもしくはヨーロッパ人種たる男子にあらざれば代議士に選挙せらるることを得ず(第六一条)
同上書 p.75
これでは貧しいハワイ人やアジアからの移民には被選挙権がない。
また、選挙権についてはこう書かれている。
ハワイ国に居住するハワイ・アメリカもしくはヨーロツパ人種の男子にして国法遵守を宣言し、国税を納め、年齢二十一歳に達し、選挙日に際して1ヶ年国内に居住し、ハワイ語・英語若くは他のヨーロッパ諸国語を読み、書き、法律の規定に従つて選挙人名簿にその氏名を登録せられた者は、代議士を選挙する権利を有す(第六二条)
同上書 p.75
先程紹介した吉森實行氏の著書『ハワイを繞る日米関係史』にはこうコメントされている。
白人はハワイに帰化しなくても国法遵守を宣言しさえすれば参政権を享有し得る一方、有色人種の参政権を拒否したもので、早くもアジア移民の増加に猜疑の眼を光らせたアメリカ意志を反映したものであった。原住民は勿論、当時すでに千を超えていたわが移民は大いに激昂し、ハワイ駐在の日本総領事安藤太郎は外務大臣の訓令を仰いで大いに抗議せんとしたが、欧米追従をもって聞こえる井上馨がこれを許さなかつたのは当然である。
かくてハワイの政治はいよいよアメリカの左右するところとなったが、その経済もまたアメリカの政策にたえず繰られていた。
同上書 p.76
白人はハワイに帰化しなくとも参政権が与えられるにもかかわらず、日本人移民の場合は帰化してハワイ国籍を取得していても参政権を与えられなかったということである。
この憲法の問題点は選挙権・被選挙権だけではない。国王の閣僚罷免権が剥奪されるなど、国王の国政の関与を一切否定する内容が書かれていたようだ。

このような憲法案に日本移民が激昂したことは当然のことだが、外務大臣の井上馨はアメリカに抗議するような考えはなかった。もしハワイがアメリカに併呑されれば、太平洋は広いとはいえ隣の国はわが国である。次は日本が危ないということは少し考えればわかると思う。
ところで、国王の世界歴訪に随行したアメリカ人のアームストロング自身が、もし日本がカラカウア王の提案を受け入れていたとすれば、ハワイは日本のものとなっていたと書いていることは注目に値する。
われわれ国王の側近者は、その後[世界一周旅行の後]の王の行動に深き注意を払うやうになつた。国王の計画が日本天皇陛下によつて御嘉納になつていたらハワイは日本領土となる経路をとるに至ったであろう。
同上書 p.70
わが国がハワイを国土とすることはなかったとしても、山階宮定麿王がハワイ王女と結婚し、わが国がハワイを側面で支援していれば、ハワイにあのような屈辱的な憲法を結ばせることがなかったのではないか。またあの憲法が成立しなければすぐにハワイがアメリカに併呑されることはなかったかもしれないが、その後アメリカと日本との対立が激化して、もっと早い段階でわが国が戦争に巻き込まれていた可能性もまた否定できない。
カラカウア王が明治天皇に会見した明治十四年(1881年)のわが国は、国会開設運動が興隆するなかで政府はいつ立憲体制に移行するかで、漸進的な伊藤博文・井上馨がやや急進的な大隈重信を追い出した政変劇のあった時期でもあり、わが国としては、内政問題を抱えながらアメリカを敵に回すような施策は財政面からみても難しかったということであろう。
しかしカラカウア王に憲法をごり押ししてからのアメリカは、露骨にハワイ王国を奪い取りに行っている。政治も経済も情報も白人に握られてしまえば、抵抗することは難しくなるばかりだった。この点については次回に書くこととしたい。
ハワイに関するGHQ焚書
GHQ焚書リストの中で、本のタイトルに「ハワイ」、「布哇」十一点存在する。
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| タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
| 九軍神ハワイ大海戦 | 佐藤 武 | 東亜書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062748 | 昭和17 | |
| 日米戦の土俵 布哇と比律賓 | 野崎圭介 | 二松堂書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1443698 | 昭和7 | |
| 日本布哇交流史 | 山下草園 | 古今書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1916611 | 昭和18 | 東亜文化叢書 ; 8 |
| ハワイ | 一原有常 | 朝日新聞社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044367 | 昭和17 | 朝日時局新輯 第43 |
| ハワイ | 宮城 聡 | 改造社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1130147 | 昭和17 | |
| 布哇史ものがたり | 鬼頭イツコ | 東京書籍 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1042854 | 昭和18 | |
| ハワイ諸島 | 南方産業調査会 | 南進社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044049 | 昭和19 | 南進叢書. 第15 |
| ハワイ大海戦 | 渡邊義房 | 四海書房 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和17 | ||
| ハワイ・マレー沖海戦 | 山崎謙太 | 中川書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1135948 | 昭和17 | |
| ハワイ・マレー沖電撃戦 | 森村正平 | 晴南社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1742082 | 昭和18 | 少国民大東亜戦記 |
| ハワイを繞る日米関係史 | 吉森実行 | 文芸春秋社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1042872 | 昭和18 |
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