日露戦争のあと隻脚の僧侶となった市川禅海の『残花一輪』~~GHQが焚書処分した明治期の著作7

日清戦争・日露戦争

 市川禅海(いちかわ ぜんかい)という人物の経歴がコトバンクに記されている。明治十六年に長野県中込村(現・佐久市)に生まれ、明治三十六年に海軍兵学校を卒業後、「日露戦争に参戦して負傷し、片足を切断する。明治四十二年剃髪し、修行のかたわら各地を巡回して講演する。著書に戦争記録文学である『残花一輪 発心録』などがある」とある。

 今回紹介させて頂く『残花一輪:発心録』は、明治四十三年に啓成社から出版された本で、この本は昭和四年に戦記名著刊行会から刊行された『戦記名著集 : 熱血秘史. 第1巻』及び昭和十四年に潮文閣から刊行された『戦争文学全集 第2巻』に収められて、この二点がそれぞれGHQによって焚書処分されている。

最初に乗った戦艦初瀬と、死を誓い合った戦友の運命

初瀬(Wikipediaより)

 市川は日露戦争で戦艦初瀬の乗組員となり、互いに死を誓い合った戦友が二人いた。一人が梶村候補生で、もう一人が鈴木候補生である。
 しかしながら第一次旅順口攻撃の際に梶村候補生は戦死を遂げ、市川は発砲した反動で後ろに下がった砲身が彼の左股関節部を強打し激痛が走った。痛さを隠し切れず、市川はのちに巡洋艦和泉に乗組むことを命じられている。そしてついに歩くことも立つことも出来なくなって、佐世保海軍病院に送られたのだが、入院中に「佐世保(新聞)」の記事で、戦艦初瀬が五月十五日にロシア海軍の敷設した機雷に触れて爆発・沈没したことを知り大変なショックを受けた

 肉体とともに大いに衰弱せる余が精神は、この青天の霹靂(へきれき)にも等しき凶信に打たれて、しばしの程は人事不省に陥り、卒倒これを久しうしてふと目覚むれば、開かれてる余が胸には冷水を浸せる白布を載せ、額頂には氷嚢(ひょうのう)載せられ、着たる毛布は剥がれ、四囲の窓は全開せられ、一医官は余の右手首を握りて脈拍を検し、数人の看護余を囲繞するなりき。余は直ちに机上にありたる「佐世保」に着目し、手を延ばし、これを取らんとして得ず。一看護を促してこれを見んと勉む。医官許さず。切望懇願すれども許さず。ああ無情なる、医官は遂に新紙を室外に持ち去らしめぬ。

 このことありて後、数日にして余が精神ようやく平静に復せり。当時余が最も憂慮に堪えざるものは、艦長、諸戦友の運命にして、殊に鈴木候補生の死生果たして如何との一事なり。ゆえにこれを知らんとして新聞紙を求むるに、医官の命なりとて、これを貸さず、ああ鈴木候補生はいかがせし。

 越えて又数日、一病院船は初瀬の生存者を載せて入港し来たれり。その内重軽傷者はやがて余が臥せる病室四囲の各室に収容せらる。彼らの負傷は概ね弾薬庫爆裂、艦爆破のため、肉離れ、皮腐り、あまつさえ潮水に浸さるること数時間なりしかば、痛苦甚だしきは論をまたず、覚醒中はともかくとしてこれを忍ぶと雖も、中宵人定まりて何かにつけ物寂しさに、思わず発する苦悶の声は痛くも余が耳朶を打つなりき。ああ余や独り初瀬の一大事にも居合わさず、今や最も不面目なる一病者として、尊むべき国家の犠牲者、しかも絶つべからざる因縁ある初瀬の戦傷者と枕を並ぶ。同じく初瀬の生存者といえども、その面目や自ずから異なれり。されば余は悠々としてこれ等戦傷者の内にありて、国家の治療を受くることの到底忍び難きを以て、再三退院せんことを請えども、皆許されず。空しく悶々の思いを抱きつつ、人知れず無念の涙に咽ぶのほかなかりき

市川禅海 著『残花一輪 : 発心録』啓成社 明治43年刊 p.113~114

残花一輪!

 巡洋艦和泉の友人から手紙が届き、市川は鈴木候補生が戦死したことを知る。また医官からは、自分の病名は結核性慢性左股関節炎で根治の見込みなしと診断され、海軍を去ることを勧められている。

 ああ天無情!人生眞に朝露の如し。吹き立つ嵐に梶の初花散りかかる、袂(たもと)の雫乾すひまさえもあら浪は、又も打ち寄せ、あな無残!初瀬艦上影も止めず、鈴木の名花ここに又散んぬ。
 ああ残花一輪!我のみ一人生存(ながら)えり、とは名ばかりの市川の水・・・・・・ああ涸れなんばかりの細流はや。

同上書 p.144

 市川は海軍を去って一人寂しく余生を送る気にはなれず、一時は死ぬことも考えたが、熟考の結果手術を受けることを決意した。ようやく退院することが出来たのだが、医官からは、海上の激務を続ければ何時再発するかもしれない病気であることから帰郷療養を勧告され、一旦市川は郷里の信州に戻っている。しかしながら、郷里で旅順攻略戦の新聞記事を読んで、居ても立ってもいられない思いで佐世保に向かい、病院長から軍に戻ることの許しを得ている。市川が今度乗艦するのは新しい巡洋艦「日進」であった。

日本海大海戦における日本海軍の戦い方

日進(Wikipediaより)

 市川は日進に乗船して、日本海大海戦を経験している。
 この海戦については前回の「歴史ノート」で、バルチック艦隊は大量の石炭を積み込んだために船の重心が高くなり、波浪高い日本海の海戦中に顚覆し沈没する艦船が続出したことを書いた。日本海軍も、どこでバルチック艦隊と戦うことになるかが不明のために大量の石炭を積み込んだのは同じだったのだが、その後ロシア軍とは全く異なる行動を取っている。興味深い部分なので紹介させて頂く。

 はじめ我が艦隊は、敵が遠く太平洋を迂回し、津軽海峡、もしくは宗谷海峡を突破して、ウラジオストックに入らんとするの計画に出づるやも計り難きを察し、過大の石炭を強載したりしが、今や敵は健気にも対馬東水道を通過せんとするの情報を聞くに至りては、最早満載以上の石炭を要せず、ここに我が国のみかは、世界海軍創設以来、未だかつてあらざる奇号令は伝われり。曰く、

『総員強載石炭捨て方。』

 殊に戦時搭載せるは悉く無烟炭(むえんたん)なれば、いささか愛惜の念なきにあらずといえども、今この乾坤一擲の危急時に際しては、決して顧慮すべきにあらず。命令の一下とともに、総員勇躍、まず上甲板に山積みせる炭堆の絶頂に登り、その一袋より次第に下部に及ぼし、やがて中甲板の山腹に至り、遂に下甲板の麓に残りたる最後の一袋を投棄して、更に余すところなし。

 起床早々数時間の石炭事業にあたり、労苦を慰する暇なく、直ちに「総員艦内大掃除、両舷直上甲板洗方! 続いて中下甲板洗方、外舷掛、外舷流せ!」「大砲手入れ」「小銃手入れ」「甲板掃除!」「出港用意」続いて「出港」やがて「合戦準備」等の烈しき号令は下れり。平時ならんには、この連続したる激務を朝食前に為し終わることは不可能なるに、これを遂行して何らの支障なかりしは全く日本魂の大発動に基づきたればなり。

 乗る船のけがれのみかは朝な夕な洗うは人の心なるらん

 次に初めて休養の号令下れり。曰く、「顔洗え煙草許す」しばらくして「食事用意、食事につけ」時に午前九時半過ぎ、やがて目出度き出陣を祝せんがため、ためしもあらん白飯は給せられぬ。

 朝食後、敵の我が予定線に入り来たるまでは、なお数時間を余すを以て、暫時全員の休養を命じ、以て大疲労に伴う睡眠をとらしむ。ここに於いて士率みな各自の受持ち砲後に配備したる弾丸にマットを被せ、これを仮寝の枕となすもの多かりき。余砲台を巡視してこの光景を見、賛嘆措く能わず。「ああ戦い勝てり」と絶叫せざるを得ざりき。・・・中略・・・

 而して尚さらにこの大海戦の必勝を、予め確認したる一事あり。余が所属分隊の各砲台を巡視する中、各砲の動作を子細に検して、一砲の発火電池の電力を試験せんとて、身を屈して砲身下に匍匐し、まず電線接合部を検しつつ、ふと砲身の下面、及び砲鞍と砲身の間隙に、汚損したる長方形の紙片を粘附するを発見す。子細にこれを見れば琴平大権現あり、八幡大菩薩あり、水天宮あり、観世音あり、不動尊ありて、みないわゆるお守り符(ふだ)ならざるはなし余はこれを見て無量の感慨に打たれ、顧みて砲後弾丸を枕に眠れる士率の寝顔を覗きては、そぞろに暗涙の滂沱たるに忍びざりき

 ああこの神符!家郷の父老が、雨の夕風の朝、夢寐なお忘れず、如何にもして卿等の身に恙(つつが)無かれと、山を越え川を渡りて、或いは鎮守の稲荷宮に、或いは隣村の観音堂に、辛くも捧げ得たりしこの神符!海山越えて百千里、異郷遠征の卿等の手に渡りし時の感や如何に。必ずや思いを家郷の空に馳せつつ、恋々やみ難き父母妻子を回想して、暫しが程は名状し難き感に打たれたるなるべし。而してこの神符の著しく汚損せるを見るも、卿等は豪胆不敵なる、決して神仏を念ぜずとも、卿等が愛する父母妻子の熱誠なる祈願によりて、よく今日あるを得たりしや必せり。 

同上書 p.175~178

 バルチック艦隊の石炭は問題の多いドイツ炭しか入手できず、燃費が悪いだけでなく煙が多いために遠くから発見されやすかったのだが、日本の石炭は煙の少ない「無烟炭」であった。バルチック艦隊のロジェストウェンスキー司令長官は最後の給炭で出来るだけ多くの石炭を積み込ませたのだが、ウラジオストックに戻るまでに必要な石炭を確保しなけれならなかっったという事情からやむを得なかったのかもしれない。

 無事の帰還することを祈る家族の思いが詰まったお守り札の下りを読んで私も目頭が熱くなった。
 日本海海戦の話はまだまだ続くのだが、興味のある方はリンクの続きを読んで頂ければ幸いである。
 その後市川は樺太攻略に参加した後、とうとう脚の自由を失い大手術のあと左足を失った。再び死を決意するも遂げ得ず、僧となって自身の波乱万丈の人生を綴ったのがこの『残花一輪』である。

市川禅海の著書

 市川禅海の著書は、単行本としては3点だけのようである。いずれも復刊はされていないようだ。

タイトル
太字はGHQ焚書
著者編者出版社国立国会図書館デジタルコレクションURL出版
残花一輪:発心録市川禅海啓成社https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774167明治43
木から落ちた猿 前編市川禅海 啓成社https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914199大正9
木から落ちた猿 後編市川禅海啓成社https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964240大正9
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コメント

  1. しばやんさん、こんにちは。いつも楽しく拝見しています。 

    >余は悠々としてこれ等戦傷者の内にありて、国家の治療を受くることの到底忍び難きを以て、再三退院せんことを請えども、皆許されず。空しく悶々の思いを抱きつつ、人知れず無念の涙に咽ぶのほかなかりき。

    ネットの普及で、特攻隊員が出撃前に屈託のない笑みを浮かべている写真も多く見かけるようになりました。先人の祖国を護る勇敢な姿に思いを馳せるとともに、このときの市川禅海の無念さが目に浮かぶようです。チャンネル削除される前の昨年作った読み上げ動画に引用した、『愛媛の郷土部隊 歩兵第二十二連隊の生存者が語った沖縄戦の真実』の描写が思い浮かびました。
    http://nippon-ehime.jp/topic/okinawa.html

    終戦から55年目の平成12年小城正が行った講演録で、陸軍士官学校を卒業して大隊長として戦った沖縄戦の中で、瀕死の重傷を負いながらも前線に復帰した次の記述があります。
    ・五、前線に出る前の爆雷暴発事故
    連隊に帰してくれと軍医に言ったら、「あなたは脳に通じる所に穴を開けてあって、膿が出てくる所に包帯を交換しながらやっているのに、一歩間違えば脳にバイ菌が入っておしまいです。そんな重症患者を連隊に帰すわけにはいかない」と言われました。私は元気の良い方でしたから、私の付添に来ていた当番兵がいましたので、彼に連隊に帰って私の馬を持ってきてくれるように頼みました。そして軍医に黙って馬に乗って部隊に帰りました。

    復刻版が出ている昭和13年のGHQ焚書に、直木賞候補になった松村益二著『一等兵戦死』と100万部売れた陳登元著『敗走千里』があります。南京陥落1か月前の日本軍と国民党軍の対照的な軍隊の様子が描かれたもので、日本の兵隊さんは水にあたって下痢状態でふらふらになっても、這ってでも戦場に向かう様子があります。一方で、国民党軍では督戦隊からわかるように自分だけは助かりたいと、どんな手を使っても生き延びようとする様子があります。 そしてこの『一等兵戦死』の中で、兵隊さんが決死の覚悟ながらも、戦闘の合間の軍馬や山羊、敵兵に対しても見せる優しさには胸が熱くなります。色々なGHQ焚書を読んでいくと、日本兵が残虐だったという現在の正邪が逆転した歴史が定着していることに、驚くとともに得体のしれない恐怖を覚えます。今日は沖縄復帰50周年、日本を護るために本当の歴史を取り戻さなければならないと痛感します。

    *YouTubeでGHQ焚書の復刻版のCMが流れているためか、しばやんさんのブログの閲覧数が伸びていることを嬉しく思っています。
    *私は、YouTubeアカウントを再取得しました。「ブログ仲間」のリンクを張り替えていただければ幸いです。
    https://youtu.be/odsArxNnaMk

    • しばやん より:

      シドニー学院さん、コメントいただきありがとうございます。
      GHQの焚書を紹介し始めて3年が過ぎました。はじめのうちは「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されている本のリストを紹介するだけでしたが、少しずつ内容の一部を紹介することにして、私が面白いと思った部分を紹介するようになってから少しずつアクセスが増えてきました。
      こういう活動を長く続けているうちに、GHQ焚書によって戦勝国にとって都合の悪い史実がいまだに大量に封印されていることが広く知られるようになってきました。ネットでシドニー学院さんをはじめ多くの方が、ブログや動画でいろんなGHQ焚書の内容を紹介されるようになり、特にダイレクト出版、経営科学出版社がGHQ焚書の何冊かを復刊されて、動画で宣伝されている効果は絶大です。おかげさまで検索サイトからのアクセスが増加してきています。しばらくは、拙ブログで明治時代の出版物や日露戦争に関するGHQ焚書を紹介していく予定です。

      紹介いただいた『愛媛の郷土部隊 歩兵第二十二連隊の生存者が語った沖縄戦の真実』を読ませて頂きました。国を守ることに命をかけることを決意した以上、いつまでも治療を受けることを望まないのは、市川禅海と同じですね。

      『一等兵戦死』『敗走千里』は復刻版を買いました、いずれ拙ブログでも取り上げる予定です。支那事変のGHQ焚書を色々読みましたが、日本兵は敵兵に対しても優しいところがありますね。子供の頃に、出征経験のあるお年寄りから「中国兵は逃げてばかりで弱かった」という話を何度か聞きましたが、中国兵は国の為に戦っているのではなかったとの印象があります。

      Youtubeでアカウントが消された話はよく聞きますがとんでもないことですね。早速新リンクを登録させて頂きましたが、「お伊勢参り、江戸時代の大旅行ブーム」は、標題に似合わずスケールの大きい話に仕上がりましたね。拙ブログの紹介までいただきとてもありがたいです。
      思うにユダヤに関する真実の情報はYoutubeではマークされているのでしょうね。GHQが焚書にしたのと同様の発想です。私のブログはドメインを取得しているので、簡単に消されることはないと思うのですが、そのかわり毎日スパムメールが山ほど来ます。

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