アユタヤの日本人町の発生
前回まではフィリピンの日本人町について書いてきたが、マニラとならんで日本人が多数居住していたのはシャム (暹羅:現在のタイ国)のアユタヤである。アユタヤはシャムの首都で、日本人はチャオプラヤー川(旧名はメナム川)沿いに区画を与えられていて、そこに多数の日本人が居住していたという。なぜこの国に多数の日本人が住むことになったのであろうか。
タイ国との交易が始まったのは16世紀半ばとされ、当初わが国は鉄砲や火薬の原料となる鉄や硝石を輸入していたという。江戸時代に入り朱印船貿易が始まってからはわが国との交易が盛んになり、取扱い商品も変化していったようだ。
交易が盛んになると仕入れ活動等に従事する日本人がこの地に留まるようになったのだが、商人だけではなくさまざまな人々がこの国に移り住み、アユタヤに日本人町が出来たと考えられている。
上の画像はケンペル著『日本史』に掲載されている1690年のアユタヤの古地図だが、右下に「Japonese」と記されているあたりが日本人町である。
GHQ焚書である柴田賢一著『南洋物語』には日本人町についてこう解説されている。(わかりやすいように元号に西暦を補記している)
日本人はいつからここに住むようになったのか。明確な記録がないので知る由もないが、十六世紀の末、天正(1573~1593年)の末頃から文禄(1593~1596)、慶長(1596~1615年)へかけて、続々と渡来し、寛永の八、九年(1631~1632年)頃にはその数が非常に多くなった。
「暹羅風土軍記」には、
「元和年中より寛永の末に至る迄、大阪落ちの諸浪人、あるいは関ヶ原、または天草落人ども賈人(こじん:商人)となりて多く暹羅に逗留す。もし海賊強盗あれば武勇を以て追い払う故に、シャム国王もこれを調法に思い、地を貸して日本人を一部に置く。日本人町と号し、海辺に数百軒の町家あり。永く留まる者は妻妾ありて子を設く。この時に住居する者八千余人ありとしかや」
とあり、「暹羅国山田氏興亡記」にもほぼこれと同じ記事がある。…彼らは一部分商人として貿易に随い、一部分その武勇を高く買われて王室に仕えていた。
日本からタイへの輸出品は、傘、蚊帳、扇子、屏風、畳、銅、鉄、塗物碗、樟脳、銅器、金属器、鎧、太刀、弓矢、槍などであり、タイから日本への輸入品は、象牙、白絹、孔雀、豹皮、紫檀、蘇木、鹿皮、支那布、鮫皮、鉛、籐、檳榔子実、牛皮、ナムラック、黒砂糖、水牛角、ガムラック、チーク、犀角等であった。
(柴田賢一 著『南洋物語』p.178~179)
「暹羅風土軍記」は智原五郎八という人物がシャムから帰国後、長崎で人に語ったことを書き留めた書物だが、関ヶ原や大阪の陣などで敗れた武将や、弾圧を逃れようとしたキリシタンが新天地を求めて住み着いていたというのはおそらく真実であろう。しかし「住居する者八千余人あり」というのは他の史料と比較するとかなり大きな数字であり、日本人町に住む日本人は千人から三千人程度の説が多い。
「暹羅風土軍記」には書かれていないが、シャムには新天地を求めた日本人ばかりではなく、奴隷としてこの国に売られた日本人も少なからずいたはずである。
このシリーズの最初の記事「秀吉が南蛮貿易を奨励して以降、外国との貿易はどう変わったか~~朱印船貿易と東南アジアの日本人1」で紹介したが、イエズス会のルイス・フロイスの『日本史』に、天正十五年(1587年)に豊臣秀吉がイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して伝えた言葉が記録されている。
予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連*は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。
*伴天連(バテレン):キリスト教宣教師のこと
(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)
しかしながら、日本人奴隷の海外流出はその後も続いて、元和七年(1621年)に江戸幕府は『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』と言う禁令を発している。この禁令はシャムにも大きな影響を与えたことは確実で、国王は翌年の1622年にわが国に使節を送り、日本人をシャムに移住させることを要請したのだが、幕府に拒絶された記録が残されている。シャム国王はなぜわが国に使節を送ってまでして日本人の渡来を求めたのであろうか。
山田長政の活躍とその頃の日本人町
実は、シャム国王が日本に使節を派遣した前年の1621年に、スペインとポルトガルが連合してマカオの争奪をめぐってオランダ艦隊と戦い、勝ちに乗じたスペインがチャオプラヤ川を遡ってアユタヤ近くまで攻め込んできたことがあった。この時水上警備にあたっていた山田長政は日本人傭兵部隊を率いてスペイン艦隊に立ち向かい、奇襲によってスペインの軍艦に火を放ち、スペイン軍を斥けたのである。この勝利によって山田長政はソンタム国王に認められるようになったのだが、国王が翌年に日本に使節を派遣したのは、シャムの国土防衛のために日本兵を増強したかったからではなかったか。
次に、シャム国で山田長政が活躍した頃の日本人町について、簡単に振り返っておこう。
長政の出自については諸説があるのだが、寛永三年(1626年)に静岡の浅間神社に奉納した絵馬には「奉掛御立願 諸願成就 令満之處 当国生 天竺暹羅国居住。寛永三丙寅年二月吉日、山田仁左衛門長政」との文字が書かれていたことから、静岡生まれである可能性が高そうだ。
また、長政がいつ頃シャムに渡ったのかについても詳しいことはわかっていないようなのだが、アユタヤ王朝第24代ソンタム国王の時代にシャムに渡り、日本人町の頭領となったのち、数百人の日本義勇軍の指揮官として相次いで手柄を立てたことから国王の信任を得て次第に官位が上がり、寛永五、六年(1628~1629年)頃は最高位であるオークヤーを授けられている。アユタヤにあったオランダ商館長ヨースト・スハウテンの記録が『南洋日本町の研究』に引用されているが、これを読むとシャムで日本義勇軍がどんなに重用されていたかがわかる。
国王の水陸両軍の有力なる兵員は、諸侯と国民とより成り立っているが、またモール人、マレイ人、その他少数の外国人も混成している。なかんずく五、六百人の日本人は、最も主なる者にして、周囲の諸国民より、その男性的真義の評判を得て、特に重んぜられ、シャム国王からも尊敬されている。
( 岩生成一 著『南洋日本町の研究』p.130~131)
また、岩生氏は日本義勇軍についてこう解説している。
寛永年間山田長政の活躍時代、日本町のもっとも繁栄せし頃には、シャム国軍中には日本人兵が八百名位傭聘されていたのであった。しかも彼らは、当時のポルトガルの年代記家アントニオ・ボカルロの記す所によれば、王侯の護衛兵たると同時に、自由に商売を為すことをも許されていたから、彼らの大多数はおそらく一時的な臨時傭兵にして、平時はアユタヤの日本町の住民として商業貿易に携わっていたに違いない。もとよりこの外シャム政府に雇用関係を持たぬ日本商人も日本町に多数在住していたことはあきらかである。しかして、この種の海外移民に通有なるごとく、彼らの中に多数の独身者もあったであろうが、また我伝説にもある如く、彼らの中の一半は妻子眷属をかかえていたはずなれば、アユタヤ日本町の盛時には、日本人系在住民の総数は千人以上二千人位に上ったと思われる。
(同上書p.131)
彼らの多くは南蛮船に運ばれて奴隷として売られて来たと考えられるのだが、フィリピンでスペイン人に買われた日本人よりも、シャムに辿り着いた日本人の方がはるかに自由度が高かったようである。
上の画像はワット・ヨム寺院に描かれていた『日本人義勇軍行進図』の模写だが、このような壁画がシャムの寺院に描かれていたということは、日本義勇軍がよほどシャムに貢献してきたことを、シャム人から認められていなければありえないことだと思う。
ソンタム国王死後の内紛に巻き込まれた山田長政
その後ソンタム国王は、1628年に病死した。
国王の遺言により15歳のチェーター王が即位し、従兄弟のシーウォーラウォンと長政は若い新国王を支える側についたのだが、新王がシーウォーラウォンの陰謀を嗅ぎ付け、この悪い男を排除しようとして失敗し、逆にシーウォーラウォンによって殺されてしまう(1629年)。
同年に、チェーターの弟でわずか10歳のアーティッタウォン王が即位したが、シーウォーラウォンが摂政となって政治の実権を完全に掌握し、それに抵抗した山田長政を六昆(リゴール:ナコーンシータンマラート王国)の防衛を理由に六昆国の総督に左遷してしまう。
長政は日本人三百人とシャム人三、四千人を率いて六昆国に行き、反乱軍を難なく平定したのだが、その間アユタヤではシーウォーラウォンがアーティッタウォン王をわずか38日で廃位させ、自らが王位に登りプラサート・トーン王と名乗ったのである。
そして新国王は、六昆国の反乱を直ちに平定した長政を怖れて、その排除に乗り出すことを決意した。
1630年にプラサート・トーン王は密命を出して山田長政を毒殺させ、さらに王は、日本人の復讐を怖れて、四千人の兵を以て日本人町の焼き打ちを命じている。
この計画を事前に察知した日本人達は、攻撃が始まる寸前に数艘の商船に600人が乗り込んで出航したという。シャム兵が約百艘の船に乗って追撃してきたため、日本人も少なからぬ死傷者が出たが、なんとかカンボジアに遁れることができたという。
江戸幕府の対外政策とその後のアユタヤの日本人町
プラサート・トーン王は、自身の野心達成のための障害を除去しようとして日本人町を焼き払ったのであり、全日本人をシャムから排除しようとしたのではなかったという。シャムのオランダ商館長の記録によると、
多数人の反感にもかかわらず、国王陛下は(日本人の復讐を恐れて)日本人逃竄後幾許もなく、これを呼び還して、その数七、八十人に及ぶや、彼らの居留地としての良好なる地区を下賜し、彼ら中の主なる者三名には栄爵を授けて、その棟梁に任じ、国王の一官吏をして監督せしめた
(同上書 p.133)
と記されていて、実際に二年足らずで日本人町は再建されたという。
また1630年にカンボジアに逃れた日本人は、カンボジアで王位継承をめぐる紛争が生じたことからシャムに戻ってきた者もいて、アユタヤの日本人は三、四百人以上の数字まで回復したようなのだが、わが国では寛永十二年(1635年)に日本人の海外渡航と国外にいる日本人の帰国が禁止され、寛永十六年(1639年)にはオランダと中国を除く船の入国を禁止されるに至り、その後の日本人が移り住んでくる可能性がほとんどなくなってしまった。
母国との連絡を絶たれたアユタヤの日本人町はその後衰退の一途をたどることになるのだが、1690年にケンペルが作成した地図にあるように、その後もかなり長く日本人町はアユタヤの地に残っていたようなのである。
岩生氏の前掲書によると、1718年にシャム国はスペインとの貿易交渉により旧日本人町の土地64坪を下付して商館の設立を認めたとの記録があるのだという。このころには日本人町は名前のみが残されていて、日本人は殆んど残っていない状態であったと考えられる。日本人が居住していた建物などは何も残されていないが、アユタヤにある「日本人村」にある「アユチヤ日本人町の碑」や山田長政像や記念館にある展示品が、日タイの友好の歴史を伝えている
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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