由上治三郎という人物については陸軍の軍人で第一軍の騎兵中尉として日露戦争で戦い、戦後に大尉になった人物であることぐらいしかわからないのだが、由上の唯一の著作『鉄蹄夜話』は明治四十四年に刊行された古い本である。
緒言(まえがき)に由上は、「昨夏、予病を得て善からず。此時思えらく、最後の呼吸の停まらぬ内に、早く従軍日誌を整理し、之を予と辛酸を倶にせし戦友、並びに遺族に頒ち、永く枕戈沙場の身の上を紀念せむと、ここに早急筆を執りしもの即ち此の書なり」と、死ぬまでに自分の体験した戦記を纏めて戦友と遺族に頒布したいとの思いで著した本であることを書いている。
原稿を書き上げると由上の健康が回復したのだが、今度は敬文館館主から、この本の公刊を何度も説得されたという。由上は原稿を敬文館主に譲与することにしたのだが、この時彼が提示した二つの条件が興味深い。
「一、予の指定する戦友並び遺族に、製本一部宛てを寄贈すること
一、発行により得るところの利益は、ある割合を以て軍人講演会廃兵院に寄付すること」
さらに、由上は「尚一言すべきは、予は軍人なり。筆の人に在らず。又口舌の人に在らず。文章口説の善し悪しを言わんとする人は、初めより本書を読まざるに如かず」と最後に書いているところが面白い。
由上はこの原稿を一般公開するつもりで書いたのではなかったことはこの緒言を読めば明らかなのだが、この本は多くの国民に愛読され、昭和4年に戦記名著刊行会から出版された『戦記名著集 : 熱血秘史. 第3巻』及び昭和十四年に潮文閣から出版された『戦争文学全集 第12巻』に収録されている。そして、戦後になってこの二冊がGHQによって焚書処分されている。
動員令下る
ロシアとの戦いが避けられない情勢となり、明治三十七年(1904年)二月五日に動員令が下されている。当時、由上は陸軍戸山学校に在学中であった。『鉄蹄夜話』にはこう記されている。
第一軍は近衛師団及び第二、第十二師団を以て編成せらる。余は当時卑賎の身を以て職を近衛師団に奉じ、騎兵中尉として、軍刀術、射撃、体操を研究すべく、戸山学校に在学中なりき。余は実に幸運児なり。何となればあたかも余はこの日露戦争のあるを予期したるが如く、余の職務に必須欠くべからざる軍刀術、射撃、体操を、その時研究錬磨しつつありたればなり。余は騎兵なり。騎兵戦闘の本領は乗馬戦なり、襲撃なり、軍刀を以て敵と格闘するにあり。これ乗馬戦にて目的を達し得ざる場合、馬より下り歩兵と同じく銃を以て戦うべきためなり。騎兵たる者、射撃術の習熟なくして可ならむや。およそ軍人の第一の要素は体力なり。元気なり。体操を以てこれが錬成を図らざるべからず。余は実にこの必要なる三技術を、熱心に練習し、やや自信する所ありたりき。この自信の感念こそ確かに精神的に全世界に於いて、精鋭並ぶものなしと称せらるる露国の騎兵と戦いたく思う心を切ならしめたり。あわれ余は幸運児なりしかな。
二月五日余は日課の如く危機切迫、間一髪の新聞を読みて学校に登りぬ。今日は例より学生に活気あり。・・・中略・・・
やがて何人か大声に伝えて曰く、本部廊下に動員令掲示せられたりと。各群各団はこの声に驚かされて鬨(とき)を揚げつつ潮の如く本部に向かいぬ。果せるかな動員の勅令は掲示せられたり。期せずして起こりたる百雷の如き万歳の声は熱狂せる学生をして、学校・・・教官に対する告別辞の唯一の声なりき。
由上治三郎 著『鉄蹄夜話』敬文館 明治44年刊 p.5~7
以前このブログで書いた通り、ロシアは満州占領のあと韓国の龍岩浦(りゅうがんほ:鴨緑江河口)を占領し、極東侵略の意図を隠さないロシアの動きは、わが国の世論を硬化させた。陸海軍部は早くから「対露強硬論」を唱え、主要新聞も対露開戦論を唱えるようになる。伊藤博文や桂首相らは、できる限り外交により解決を図ろうとしたが、ロシアはわが国を挑発するばかりで、日本に対して戦争を始めるべく、二月二日には極東艦隊が旅順を出港したとの重大情報が入り、わが国も二月四日に日露開戦を決議し、二月五日にロシア政府に対し国交断絶が通達されている。由上に限らず、兵士たちの殆んどは自国を守るために喜んで出征の途に就き、国民も兵士たちを歓送したのである。
はじめて遭遇したコサック騎兵との乗馬戦
話は飛ぶが、五月三日に由上は鳳凰城方面の敵状の偵察・監視を命じられ、早朝に十二騎で出発している。彼は斥候の業務のありかたについて次のように説明している。
兵卒は肉眼で見てこれを報じ、予は望遠鏡の力にて始めてこれを判明するものなれば、これらのために随分行進の遅滞を来たしたること少なからざりき。しかれどもこの時間は決して無益ならざりしなり。なんとなれば「勇敢ならざるべからず、警戒をゆるがせにすべからず」とは斥候となるべきものの第一に守るべき原則なり。この警戒を怠りたるものは多くの場合失敗に帰す。殊に吾人騎兵の斥候は、戦闘することを主とせず、敵を捜すのが主なり。この故に常に敏活に飛び廻る弾発性を帯びざるべからず。然るにもし一たび警戒を怠り、無暴の挙を敢えてして我に死傷者の出来たる場合ありとせよ。弾発性はたちまち膠着性と変じ、敵を捜すどころか敵から散々の目に遭わせらるべし。殊に騎兵の如き一つの担架を持たざるものは、この辺に深く注意せざるべからず。かく言えばとて、斥候は絶対に戦闘を避くべきものにはあらず。戦闘を以て捜索の手段とすることも多々あり。また敵の胆(きも)を砕くを目的として戦闘することも多々あり。要は不意の危険を戒めるにあるなり。
同上書 p.124~125
このように斥候の原則を述べているが、午前十一時に湯山城(とうさんじょう)にて第二回の休憩を取っていると、七八百メートル前方に十四五騎ばかりのコサック兵がこちらに向かっているのが見えた。相手は由上らにまだ気が付いていないようであった。コサック兵をはじめて見た由上は、抜刀して乗馬戦で戦うことを決意し、初めて経験する騎兵同士の最初の格闘となったのである。
予らは一騎縦隊にて上りしゆえ、敵もし隊をまとめて吾人に当たらば甚だよかりしならむに、二三騎ずつ各個の動作をなせしかば、我らもまた各個に敵に当たるを得たり。我は攻勢、敵は防勢、この故に喊声も我が方が高く、また格闘の間互いに急援赴援の掛け声の如きも我の方明瞭に聞こえき。
逃げむとする敵の戦闘の二騎は、崖に衝突して山を下るを得ず。再び馬首を廻らして我に向かう者と予は最初に衝突せり。他の兵卒は他の敵に向かい、刀尖(きっさき)より火花を散らして敵と斬りあいをはじめたり。成沢軍曹は東斜面のまばらなる森の中に敵の将校を見つけ、これに斬って掛かれり。敵の将校は拳銃にて成沢軍曹を射ち、成沢軍曹は二発目の弾にあたりて落馬しぬ。予は銃声を聞きその方に振り返り、敵の将校の居るを知り、これに喰って掛かれば、敵将校は予に拳銃を向け、引き金を下したけれども、カチと音したるのみにて弾は出ざりき。これはシメたと喜び、予は直ちに馬に拍車を入れて飛びつかんとすれば、敵はまた拳銃を発せり。相変わらずのカチの音ばかりにて弾は発せず。これ故に敵の将校は急ぎ逃げ始めぬ。予はこれを追いかけること三十メートルなりしが、先方より敵の三騎その将校を助けんとして予に喰って掛かれり。予はそのうちの向かって一番右の奴に斬って掛かれば、そやつは逃げ始め、予はそれを追い、他の二騎は予を追い来たり、ここに四人グルグル回り鼠の如くに輪乗りを為し、而してその輪の中心が次第次第に西に移れるより敵の方が逃げ腰には相違なけれども、兎に角一と三との勝負なれば気が気でならず、モーやられた!。モーやられた!と幾たびか最後の息を吸ってみたが、運強くそこへ山口上等兵飛び来たり。この輪乗りを壊して漸くバランスを得せしめき。敵は一目散に逃げて行く。我らはこれを追う。
右のほうも左の方も同じく廻り鼠(ねずみ)の様なることをやって格闘たけなわなりき。輪が次第にに西に移る。軍刀を高く揚げて追っかけおるを見れば、大勢既に我が勝利に帰したれども、とっさの間に於いてここに一つ感ぜし事は、一人の逃げる敵を二人も三人も掛かって追っかけしより、味方の一人が三人も四人もの敵を引き受けなければならぬ所が出来し事なり。しかしながら暫らくにして敵の総てが逃げ、味方のすべてが追っかけるという判然たる区別がつけり。・・・予は・・・「下馬!」「追撃射撃‼」と号令しぬ。・・・兵卒は馬より飛び下り銃を下ろして敵を射撃せり。敵は逃げ去りぬ。・・・戦いは勝てり。日露戦争第一回の乗馬戦はかくの如くして勝ちぬ。
同上書 p.133~135
由上は「日露戦争第一回の乗馬戦」と書いているが、由上としては初めて体験した騎兵同士の乗馬戦であったという意味であろう。下の画像は、渡辺楊斎が描いた鴨緑江会戦(明治三十七年四月三十日~五月一日)の図だが、日露の騎兵同士の乗馬戦が描かれている。
コサック兵から学んだ騎兵の戦い方
由上は騎兵として敵情を探る日が三週間ほど続いたが、ある日コサック兵の話を聞いて非常に驚いたという。コサック兵は、由上が今まで想定していなかったような行動をとっていたことを興奮気味に記している。
予は予の心臓の破裂せんかと思う程大なる鼓動を以て予の胸を驚かしたる一事を耳にせり。そは敵のマドリロフ中佐が、コサック騎兵五百余をひっさげ、鴨緑江上流楚山に於いて河を渡り韓国に入り、南下して安州を襲い、我が兵站倉庫を焼き払い、通信線を破壊し、その守備兵を悉く拉つして凱歌を挙げて揚々その往く所を知らずとのことなり。予はこれを聞きて悲しくまた口惜しくて堪らず、マドリロフが無闇に憎らしくなり、今から馬に乗って後追っかけて、引捉(ひっつか)まえに行こうかと愚にもつかぬことを考えたりしが、段々気も心も正気に直り、胸の鼓動も鎮まりし時、予は敵の行動が騎兵として誠に適当なることを為せしものたるを発見し、腹立ちながらマドリロフ中佐に対し経緯を払うに至りたりき。露国は世界に比類なき大多数の騎兵を有し、その優勢を誇るものなれば、この位の事を為すはむしろ当然のことなり。予は今後到る処に敵がこの活動を演ずべきを予想し、日本の騎兵の数字の上に於いてあまり寡少なることを嘆じたり。
およそ騎兵たる者は、軍の正面に在りて敵情を探り、情況を明らかにし、指揮官をして適当なる作戦計画を立てしむるにあり。敵情不明にして戦いに赴くの困難なることはあたかも闇夜灯火無くして道の山野を歩むに等し。騎兵が軍の耳目として大切がられる所以ここに存す。しかも騎兵は単に捜索のみを以て満足せず。その馬力の駿足を利用して、遠く敵軍の後方を迂回し鉄道を破壊して敵の輸送を妨げ、電線を切断してはその通信を妨げ、倉庫糧秣を焼却しては敵の給養を困難ならしめ、敵をして戦々兢々危惧の念を抱かしめ、又これがため後方兵站線の守備に多数の兵を増加して第一線の兵力を割減せしむるが如きは、これ騎兵の最も効果ある働きの一つなりとす。騎兵のこの種の活動は、アメリカ南北戦争のときに既に試みられて声価を挙げ、爾後欧州においては勿論、わが国にも、挺進騎兵の名のもとに研究せられつつ今日に至りしが、今や偶々マドリロフ中佐に先鞭をつけられたるぞ遺憾なる。
同上書 p.162~163
このようなコサック騎兵の挺進行動を参考にして、奉天会戦の際に永沼騎兵中佐と長谷川騎兵少佐指揮下の騎兵各二百騎が、それぞれロシア兵の後方に入り込み、鉄道の破壊や倉庫の焼き払いを繰り返し実施したことで、クロパトキンは第一線にいた騎兵三十中隊(六千騎兵)などを奉天以北の鉄道掩護のためにに動かしている。そのために日本軍を充分に偵察することができなくなったことが大きかった。二月二十八日にグレコフ将官が、偵察隊が日本軍二個師団を確認した報告をしたのだがすぐには重視されず、翌日になってクロパトキンもロシア軍が乃木第三軍に包囲されていることにようやく気が付いて大混乱を来たしたことが本書に記されている。
何はさておき乃木第三軍の運動を起こし、奉天の西に迫るまで敵の知る能わざりし主なる理由は、前述の如く(ロシア軍の)騎兵隊の削減にあるべし。・・・中略・・・三月一日に至り、乃木大将が奉天の西に繞回運動を開始せらるるに至り始めて敵の第二軍司令官もクロパトキン大将も大いに驚き、大騒ぎとなり、応急の手当てとして、第二軍の予備隊をその方面に廻すやら、総司令部直轄の第二十五師団を差し向けるやら、馬群丹の方より再びシベリア第一軍団を呼び返すやら大混乱を引き起こしぬ。
同上書 p.319~320
こういう騎兵の活躍があったことは奉天会戦で日本軍が勝利した重要なポイントだと思うのだが、その後の軍備近代化の中で騎兵の存在が軽視されるようになり、日露戦争における騎兵の活躍も忘れられていったと思われる。昭和十六年には騎兵は戦車兵と統合されて、兵種としての騎兵は消滅することとなる。本書は、騎兵がいかなる役割を持ち、日露戦争においていかに重要な役割を果たしたことを知ることのできる貴重な記録でもあるのだ。
GHQが焚書処分した明治期に刊行された本
復刊された書籍やいくつかの作品を収録した全集のうちの何冊かが焚書処分されたケースでは、原著の刊行時期を調べることは容易ではないので、とりあえず、現時点で原著が明治期に刊行されていることが判明している著作をリスト化してみた。探せばもっと出て来るのではないかと思うが、多くが日露戦争に関する著作である。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL | 出版年 |
軍事談片 | 小笠原長生 | 春陽堂 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774404 | 明治38 |
此一戦 | 水野広徳 | 博文館 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774165 | 明治44 |
世界ニ於ケル日本人 | 渡辺修二郎 | 経済雑誌社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992281 | 明治26 |
忠烈美譚 | 赤堀又次郎 | 東京国民書院 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774220 | 明治42 |
鉄血 : 日露戦争記 | 猪熊敬一郎 | 明治出版社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774222 | 明治44 |
鉄蹄夜話 | 由上治三郎 | 敬文館 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774223 | 明治44 |
肉弾 | 桜井忠温 ・画 | 英文新誌社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/904708 | 明治39 |
武士道 | 新渡戸稲造 櫻井鴎村訳 | 丁未出版社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758905 | 明治41 |
兵車行 : 兵卒の見たる日露戦争 | 大月隆仗 | 敬文館 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774461 | 明治45 |
北清観戦記 | 坪谷善四郎 | 文武堂 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774468 | 明治34 |
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓
【ブログ内検索】
大手の検索サイトでは、このブログの記事の多くは検索順位が上がらないようにされているようです。過去記事を探す場合は、この検索ボックスにキーワードを入れて検索ください。
前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。長い間在庫を切らして皆様にご迷惑をおかけしましたが、このたび増刷が完了しました。
全国どこの書店でもお取り寄せが可能ですし、ネットでも購入ができます(\1,650)。
電子書籍はKindle、楽天Koboより購入が可能です(\1155)。
またKindle Unlimited会員の方は、読み放題(無料)で読むことができます。
内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
コメント