GHQが焚書処分した支那事変の体験記録はいくつかあるが、今回は『上等兵と支那人』という本を紹介したい。著者の中谷英雄は京都帝大の東洋史科を卒業後長野県の飯山中学校に奉職したが、昭和十三年に召集令状が届き、遺書も書かずに唐詩選を携えて北支那に出陣したという人物だという。支那人についての観察が結構興味深いのでいくつか紹介させていただく。
形式主義
支那人は我々にとっておかしい程形式を尚ぶので、その豹変振りは白々しく感ぜられる。だから余りに真っ正直に受けとっては間違いを生じることが多いので、欺かれたと腹を立てても、先方じゃ一向欺いた心算ではないんだから誤算の生じないようにしなければならない。
お茶を飲んでいると一杯如何というし、御飯を食べていると一碗如何というし、他家を訪問して並べてある家宝を褒めるとどれでも持って帰って呉れというので、これを正直に受取ると間違う。これは一つの形式的外交辞令に過ぎないので、その点非常に愛想よく見えるので組し易いと思ってはいけない。これは永年培われた形式に過ぎない。
支那人は外交に巧みであるといわれるのは、昔から形容たっぷりな外交辞令を用い馴れ、何事にも一定の形式を必要とするからだ。例えば葬式の際の泣女にしても一つの形式であるが、支那の葬式に欠くことが出来ないのである。
自分の先輩のI氏は北京大学の助教授をしているが、「大学の守衛は、自分が歩いたり、自転車で出勤すると挨拶しないが、洋車で行くと敬礼をし、自動車で行くと最敬礼をする」と語っておられたが、大学の先生には先生としての形式があり、それに従ってこそ面子(メンツ)が保持できると考えているのである。
支那人の面子は仲々厄介な問題であり、凡ゆる人によって論議されている通り、その人に相応しい体面のことであって、大人(ターレン)は大人としての、苦力(クーリー:下層労働者)は苦力としての面子があるので、お互いにその面子は立てねばならない。この故にそれ相応の形式があり、それに従うべきであるとの習慣が出来ているのである。
支那の社会では物を大量一度に求めるより少量宛何回となく求める方が量が多い。それは少量しか求めえないのは貧乏人であるから、量を多くしてやらねばならないという相互扶助の精神からである。それならば金持ちは少し宛買うかというと、そこには面子があって、貧乏人の真似をすれば面子が潰れるので、そんなことはやらない仕組みに出来ている。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18 p.28~30
事大主義
日清戦争以前朝鮮に事大党というものがあって支那に後援されて、日本側の後援する独立党と相争っていたが、この事大というのは大国に仕えてその庇護の下に存続しようという大に仕えるという意味であって、朝鮮の事大党は独立を行わず、清国の下風につこうという一派であった。
支那人もこの事大主義を持っている。弱いものには飽く迄強く出て、強いものには負けておくので、今迄の歴史上の例に見られる所である。尤もそれも飽くまで事大ではなく、武力の強いものには勝てないから一時負けて置くという便宜主義的なものである。
それは支那兵の攻撃振りによく現れていて、部隊が大きければ見過ごし、少人数であると我々なら、二人や三人は捨てておけ、と考えるのと反対に攻撃してくる。歩兵に対しては恐れて正面攻撃を避けるが、衛生隊、輜重隊を襲って来るのもこの現れであろう。だから前線では兵種の区別の標識は一切撤去している。
苦力を使用しても、兵隊ばかりに使用されて勤勉であった連中も、将校に使用されると、兵隊には使いにくくなるのもこれであろう。それで支那人に対しては一定のしっかりとした態度が必要であり、日本人流に親しげに取り扱うのも、時には反って軽侮を招くことがあるから注意しなければならない。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18 p.30~32
負けても良いが最後に勝たねばならぬ
しかしながら、中国兵が「事大主義」の考え方なら、兵力に優る日本軍とどうやって戦うつもりであったのか。
今度の事変で日本人が必勝の信念を持っているのと同じように支那人も持っている筈である。日本人が常に、勝った、勝ったで行くのに対して、負けても良いが最後に勝たねばならないと思っている。支那人は戦えば負けると思っている。支那の歴史を見ると北方民族の侵入が多い。遼・金・元等はその例であって、その統治下に在ったが、未だ嘗て征服されたままに滅びてしまったのではなく、時の経過とともに文化の力を以って撥ね返している。
戦えば負けるのが普通であるから、負けることも一つの策であり、武力を尊重しない。恐れて一時退くが、何時の間にか寄せて来る執拗性を持っている。船が水を切って進むとき、水は分かれるがすぐ船の後で再び合うように、追っても追っても寄せて来る。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18 p.36
個々の戦いでは勝ち目はないので退くが、最後には相手を疲弊させて倒すことを考えている。こんな軍隊とわが軍は戦っていたのである。ではわが国はこの国とどう対峙すべきであったのか。中谷は次のように記している。
余りにきっちりと割り切らねばならぬと思うと徒に労するだけで効果がないと思う。あくまでも撥ね返して敵を疲らすまで頑張らねばならないし、その敵たるや容易に疲れるものではないのを覚悟して、その間に新しい親日教育を施して行かねばならない。
支那人は外国人に対して中華であるとの自尊心を持っているからでもあるが、かくなったのは多年に亙る排日教育によるもので、二十何年かに亙る排日教育を受けた者の心を改めるのは容易ではなく、今の幼い者達に親日教育をして、その者達が青年期に達した時初めて効があるのだから、長期のねばりあいとなる訳である。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18 p.37
このブログで何度か書いてきたが、中国人を排日に煽動したのは英米人である。その証拠となる記録は大量に残されているのだが、我が政府は英米に対して有効な交渉をした来たとはとても思えない。わが国の外交は今も昔も同様に弱腰で、ただ「遺憾」と言う言葉を繰り返して永年隠忍していただけではなかったか。上の画像は大正13年4月17日の東京朝日新聞の記事だが、当時の外務大臣の発言内容は今とそっくりで、「遺憾」と言う相手の国が違うだけのことである。
相手が弱いと思えば攻めて来る
話を元に戻そう。中谷は何度か小規模な戦闘を経験したことを同書に記している。中には勇敢な中国兵もいたようだ。
支那兵は雨天を避けるとの話であったので、あるひどい雨の日今日こそはのんびりと骨休めが出来ると、銃の手入れを終わって雑談をしていた途端、ビューン・ビューンと来、瓦が四散した。ありゃと思ううちに続いて二発三発。
「全員軽装でトーチカ前に集合」
小隊の一部が既にトーチカより飛び出、堆土にとっついている。高粱畠の中に若い支那兵が倒れ、に三人の人影が遁走する。逃げる奴には仲々当たらない。ワンダウン。
〇村の壕の前に支那兵がバタバタ倒れている。勇敢な奴もあると驚かされた。友人が
「今朝十時頃監視哨がバンバン射ちはじめたので急いで配置についた。何時もなら遥か向こうから射ちかけてくるのだが、今日は余程決心したものか手榴弾を握って、壕に危うく飛び込んで来る所であった。バーロビン(八路兵:中国共産党軍)は強い」と述懐していた。こっちを小敵と侮ったのかも知れないが、雨の日に攻撃してくるなんて仲々味なことをやるものだ。
一般に最後迄押してこず、夜襲に来ても喇叭(ラッパ)を吹き、三百米(メートル)位の所から射撃して来るのが常であるとはいえ、小敵に対しては勇敢である。手榴弾戦はお得意で、あの長い柄の着いた、発火力の強いのを握って迫って来る。
支那兵にもやはり道徳はある。ひどい戦闘で退却する場合には死体を遺棄して逃走するが、出来得れば収容していく心算はあると思える。ある早朝敵状捜索に赴いた際、こちらの斥候が敵の斥候一人を刺殺した。我々がそこに到着した時、急造の担架に乗せて逃げたらしく、木の屑と血液が地を彩っていた。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18 p.169~170
続けて中谷は、日本兵と中国兵との決定的な違いについて述べている。
わが国の武士道は敵を斃さねば止まない。しかし敵が斃れた時にその行動は停止する。無抵抗なものに対しては迫害をしない。支那軍の行うような無抵抗なもの、生命の終えたものに対しての暴虐や凌辱は絶対にやらない。敵が強い程張り合いを感じ、手榴弾を握って飛び込んで来る位の勇敢な支那兵には敵愾心を超えた共感を覚える。
それから二三日後の討伐の時「無名支那兵之墓」との新しい墓標が壕の前に建てられた。彼等も結局は人の子なのだ。誤った道に進んだとはいえ、何処かで親が子供を待っているであろう。
中谷英雄 著『上等兵と支那人』,清水書房,昭和18 p.170~171
日本兵が「無名戦士の墓」を建てた話は各地に残されているのだが、こういう話は戦後はほとんどタブー扱いにされてしまっている。新聞やテレビなどで解説される第二次世界大戦の歴史は、常に日本軍が「悪の権化」のように描かれるのが常なのだが、このような戦勝国にとって都合の良いプロパガンダ史観とはそろそろ距離を置いた方が良いだろう。中国が今も声高に主張する歴史が嘘だらけであることは、「神戸大学新聞記事文庫」や「国立国会図書館デジタルコレクション」にアクセスして当時の新聞記事や戦前の書物を読めば、誰でも容易に確認できる時代になっているからだ。
今の新聞やテレビや公教育などは、日本人が末永く「自虐史観」に洗脳されている状態を続けるために存在していると言っても良いだろう。このような歴史観に止まっていては二十世紀以降の真実の歴史は見えてこないと思うし、いずれ国を外国勢力に奪われることになってもおかしくない。真実の歴史を知るためには当時の記録や資料を素直に読んで、我々の父祖たちがどのような危機感を持ち何と戦っていたか、戦後GHQはどのような真実を戦後の日本人に知らしめないように腐心してきたかを考えるきっかけを持つことが重要だと思う。
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