海賊行為を奨励したイギリス
前回記事で「南洋」をポルトガルとスペインが侵略したことを書いたが、両国はローマ法王の裁断によって「南洋」の新植民地を両分し、そこから上がる莫大な利益を独占していた。それに不満であったのはイギリスとオランダで、いずれもキリスト教のプロテスタントを奉じており、イギリスは、ローマ法王の命令に従う必要はないとの考えであった。両国はポルトガルとスペインが独占していた「南洋」の商圏に割り込もうとしていたのだが、イギリスは主としていかなる方法をとったかについて、戦後のわが国で学ぶ機会はほとんどなかったと思う。

英国とオランダとが太平洋に乗り出して来たのは、ボルトガル、スペインの進出に遅れることおよそ半世紀で、十六世紀の末頃から十七世紀のはじめであったが、オランダの進出が商権の獲得であったのに反し、英国の進出はまず主として海賊行為であった。スペインとポルトガルとは新植民地に他の国の船が近寄ることを一切許さなかったので、この利益に割り込む一番手近な方法は、植民地から財宝を積んで帰るスペイン船やポルトガル船を途中に擁してその宝物を奪い取ること、即ち海賊行為を働くことであった。 海賊国である英国がこれに走ったのは当然で、政府もまた陰に陽に海賊行為を奨励した。
ここで一寸注意して置きたいのは「海賊」という言葉の意味だ。わが国では、海賊と言えば非合法的な、海のコソ泥という意味にしか使用されていないが、英国あたりで横行していた海賊は立派な軍艦が商船をよそおって船出し、商船と見れば掠奪する官許の海賊で、公認の許可証を持っていた。勿論、非合法的な海賊もあるにはあったが、大活躍を遂げたのはこの公認の海賊だったのだ。国家が公認した海賊のことを「私掠船」と呼び、多分に国策的意味を有していたのである。
太平洋での英国海賊の活躍は、大西洋のように盛んではなかったが、それでも幾百、幾千人の海賊が活躍した。そしてその先駆をなすのがネルソンとならび称される英国の英傑サー・フランシス・ドレークだ、御承知のことと思うが、ドレークは西紀一五八八年八月にスペインの無敵艦隊を撃破して同国の制海権を奪い、ここに英国が世界最大の海軍国となる基を開いたのであるがそれは後のこと、英国人が誇りとしている大提督も元を洗って見れば海賊上がりなのである。
(柴田賢一『南洋物語』日本青年館 昭和16年刊 p.33-35)
イギリスの海賊行為に関して本書に数件紹介されているが、太平洋の貨物船の略奪で知られる海軍卿のアンソンが、一七四三年にフィリピンからメキシコに向かうスペインの貨物船を待ち構えていたところから引用させていただく。

六月二十日、アンソンは遂にスペインの宝船を発見することができた。忽ち戦闘開始、スペイン船も勇敢に戦ったが、 アンソンの戦術は巧妙を極めていたので、 遂に勝利は英国側に輝いた。
スペイン船は戦意を失って白旗をかかげたのである。スペイン側の戦死者六十七人、負傷者八十四人、 二人の兵士が戦死し、 二人の兵士が戦死し、 中尉一人と十六人の兵士が負傷し、 うち一人は死亡した。
スペイン船には五百五十人の兵士が乗り、三十六門の大砲を載せ、舷側、後甲板、檣楼にそれぞれ四ポンドの弾丸を射ち出すペドレロ砲二十八門を持っていた。この分捕船の中から価値あるものはすべて奪い取ったので、全体で百三十一万三千八百四十三スペインドル、延銀、銀塊合わせて三万五千六百八十三オンスにも達した。以上、西紀(暦)十六、十七世紀から十八世紀の初頭にかけて太平洋方面に活躍した英国船私掠船隊のごく一部分をお話しした。こうした話は実に無限にある。
英国海賊の項を終わるにあたり、彼等が飽くまで「国策の線」に沿って行動したことをもう一度強調して置こう。スペイン船を掠奪すること、即ち、スペインの植民政策を側面から破壊し、世界最大の植民地国として繁栄を誇っている王座から引下ろし、同時にその掠奪によってスペインの富を横取りすること、それが英国海賊の目標であり、英国の国策でもあったのである。思うて此処に到れば、ドレークが国民的英雄に祀り上げられ、アンソンが海軍卿となり、モルガン以下の海賊が貴族に列せられた理由も自づから了解されるであろう。
(同上書 p.53-54)
戦後はイギリスは「ジェントルマンの国」とマスコミ等で何度も聞かされてきたのだが、国が海賊行為を認めていたような国であったことはもっと知られるべきだと思う。イギリスがこのような国家公認の掠奪を正式にやめたのは一八五六年のパリ宣言で私掠行為は廃止されて以降のことである。
また三人の海賊の名前が挙がっているが、アンソンは男爵となっており世襲の貴族となったが、ドレークとモルガンはともにナイト(Sir)にはなっているが、イギリスの定義ではナイトは貴族ではないようだ。
オランダの南洋市場開拓
キリスト教カトリックを奉ずるスペインの領地で、プロテスタントを信仰していた人々が独立運動を起こし、一五八一年にスペインから独立して誕生した国がオランダである。
当時オランダ人は、ポルトガルから東洋の貨物を買い受け、これをヨーロッパ諸国に販売する中継貿易で収入を得ていたのだが、一五八〇年にスペインがポルトガルを併合して以降、スペインはオランダ人による中継貿易を禁止するようになった。そのためオランダは自ら商船隊を組織して東洋に遠征を試み、第二回目の探検貿易船隊が大量の宝物を積載して一六〇〇年に帰国して商業的に大成功を収めると南方進出熱が高まり、一六〇二年にオランダ東インド会社を設立している。オランダはスペインやポルトガルとは異なり、原住民を虐待するようなことがなく、信用を得て南方で勢力を拡大していった。

オランダ東インド会社がポルトガルの勢力を駆逐するために、最初に根拠地として選定したのはジャバ島の西北端にあるバンタムであった。何度も繰返したように、オランダが東インドに進出した目的は、 香料貿易に割り込むことだったので、 オランダは抜け目なく香料の主産地であったモルッカス群島のアムボイナ・バンダ・ネイラ、テルナテ等の権力者に取り入り、修好條約を取結んだ。然るにバンタムが全東インドの貿易を支配するには少しばかり西の方に寄り過ぎている嫌いがあるので、政治文化が発達し、人口もまた稠密であるジャバの中心部にねらいをつけ、漕々として驥足をのばしはじめた。バンタムに居留地をつくったのは東インド会社が成立した翌年の一六〇三年であったが、一六〇六年にはアムボイナ島の為政者との特殊関係を強化し、一六〇年にはボルネオ南東部の権力者と修好條約を結んだ。英国もまたオランダと並んで南洋方面で大いに活躍しようとねらっていたのであるが、精力的なオランダの進出には、さすがの英国もたじたじとなり、特に一六二三年に英国、ポルトガル両国人がアムボイナで大量に虐殺されるに及んで、 専らインド経営に全力をつくすこととなった。
オランダは南洋一帯に勢力を張ると共に、 次第にその鋒先を北方に転じた。 南洋同様に、 支那のポルトガル商権も、たたき落とそうと艦隊を送ってオランダの根拠地である澳門を攻撃させたが、この一戦はオランダ艦隊の敗北におわり、澎湖島に退却した。オランダの司令官はヴァン・ワルソイク。これは(一六〇三年)わが慶長八年のことでそれから二十一年目の一六二四年(寛永元年)に台湾に進出し、当時は本島から独立した小島であった安平に、ゼーランジァ城とユトレヒト城の二城砦を築いた。台湾は支那、日本へ進出する上の大切な足場だったのだ。
オランダと敵対関係にあったスペインが、極東市場の優先的要地を、無條件でオランダ人に譲るわけはない。スペイン人は支那及び日本とフィリッピン群島との貿易ルートを確保する必要上台湾北部の占領を企て、一六二六年(寛永三年)五月、基隆に上陸してサンサルヴァードル、サンチシマ・トリンダットの二城砦を築き、淡水にもサンチャゴという城砦を築いて、爾来十六年間南部のオランダ人と対抗したのであるが、一六四二年(寛永十九年)オランダ人のために台湾から駆逐されてしまった。かくてオランダ人は一六六二年(寛文二年)鄭成功に逐われるまで、三十八年間台湾を支配したのである。オランダは対支貿易にこそ成功しなかったが、対日貿易には異常な成功をかち得た。先づスベイン、続いてポルトガルが平戶、 長崎等の諸港から追い払われても、 台湾事件に見るような弾力性ある政策を採用して、專ら為政者の反感を買わないことにつとめたので、長崎の出島に於ける通商を公許された。オランダが対日貿易によって挙げた利益は莫大なものと言われ、彼等の手を通じて日本の金銀はどしどしと海外へ流出したのである。
(同上書 p.72-75)
引用部分に出て来る「アンボイナ」は香料を産することで知られるモルッカ諸島に属する島で、一六二三年にオランダが、この島にあるイギリス東インド会社商館を襲撃し、商館員らを虐殺した事件を「アンボイナ事件」と呼んでいるのだが、この時に殺害された人数はイギリス人よりも日本人の方が多かったようだ。この事件については別の機会に採り上げることと致したい。
また、台湾からオランダ勢力を追い出した鄭成功の話は、次の記事を参考にしていただきたい。

イギリスがオーストラリアを囚人の流刑植民地とし原住民を激減させた
「濠洲(豪州)」は「オーストラリア」を意味するのだが、戦前・戦中では圧倒的に「濠洲」と表記されていた。このオーストラリアがかつては英国囚人の流刑地であったことは、戦後のわが国ではほとんど知られていない。かつては太平洋上の多くの島が西欧の「流刑植民地」であったのだが、ニューカレドニア島もフランスが普仏戦争後に思想犯を送り込んだ歴史があるという。
では、イギリスがなぜオーストラリアに囚人を送り込んだのかというと、アメリカの独立が関係しているということは初めて知った。
…英国は米国の独立戦のために米国を失ったのであるが、これがため、英国内には囚人が氾濫した。 それまで年に一千人以上の囚徒を米大陸に送っていたのに、送る先がなくなったからである。この囚人を始末する場所として、新にクックの発見した濠洲が選ばれたのだ。
この第一回移民に引きつづいて、第二回の流刑移民一千名が一七九〇年に到着し、以来、第三回第四回というように続々移民船がやって来た。服役期を過ぎた罪人には、それぞれ土地が与えられ、また渡航して来た兵卒は三ヶ年の兵役後、最初の十ヶ年は無税で、それ以後は八十余町歩につき一ケ年十円の地租というように、殆んど無料の好条件で永住が奨励された。こうして、濠洲の東岸は罪人の手で少しづつ開発されて行ったが、西紀一八五一年に金鉱が発見されると、忽ち移住希望者が激増し、濠洲行き船会社の前には長蛇の列をつくるという有様であったから、急速に発展した。ヴィクトリヤ州の如きは、数ヶ月の間に人口が倍加したと言われる。 なほ濠洲へ罪人を送ることは、 金鉱が発見される前年の一八五〇年に禁止され、 以来全く囚人の流謫(追放)を見ないこととなった。
以上の記述によって、諸君は濠洲が流刑植民地から発達して今日に及んでいることは理解されたことと思う。にもかかわらず、彼等が今日ふりかざしている主義は白濠主義だ。白濠主義というのは、濠洲を白人だけの濠洲とし、有色人種は一切入国させないという主義だ。だが、濠洲ははじめから白人の濠洲であたらうか。否である。
濠洲にはアボリジニ族という人種が住んでいた。この人種は世界最古の人種と称され、文化こそ低かったが、人類であることには間違いがなく、父祖代々濠洲を所有して来たのだから言わばこの土地の持ち主なのだ。彼等に対する英国人の態度は、冷酷、残虐の二字につきる。必要に応じて射殺、毒殺、その他いずれの方法による制裁も一切構わぬということが公然と許されたのである。従って、白人渡航時代までは百万以上も住んでいたアボリジニ族は現在ではおよそ六万、全人口の一分にも充たず、しかも年々減少する一方である。
(同上書 p.100-101)

白豪主義とアボリジニの悲劇についてはWikipediaに詳しく書かれているが、一八二八年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行され、そのためにアボリジニ人口は激減した。
有色人種の土地を横取りしておきながら、オーストラリアを白人だけの国にするという考え方は言語道断だと思うのだが、白豪主義がどういう経緯で広がったかを調べると、一八五一年に金鉱が発見されて大量の支那人労働者が移住し、白人労働者との間に紛争が起きたことから始まったようだ。一九〇二年に自由党首領のアルフレッド・デイキンは、「白濠主義は外国の安価労働の侵入に対する保護政策である。従って好ましからざる外国人労働者の生産品を輸入することも、またその人の移住と共に排斥すべきものである」と述べたそうだが、有色人種の生産したものまで排除するという思想は、人種差別以外の何物でもない。
アボリジニの市民権が認められたのは一九六七年のことで、オーストラリア政府が先住民アボリジニに公式に謝罪したのは二〇〇八年のことである。
白人に汚辱された南洋
この『南洋物語』は、前半が「白人桎梏化の南洋」で後半が「日本民族と南洋」となっている。前半の最後に著者は次のように締めくくっている。
以上、極めて簡単ではあるが、美しい南洋、世界の宝庫と称えられる南洋が、その円らかな夢をやぶられ、乗り込んで来た傍若無人な白人に汚辱され、蹂躙され、もって今日に至った概略をお話した。私のつたない話は、諸君に充分の理解を与えることができたかどうか、大いにあやぶむところであるが、以上の話によって、青年諸君が、
一、現在の南洋の地図は白人の侵略によってでき上っている
二、白人は侵略のために手段を選ばない。ために幾百年にわたって土人たちは白人の悪辣な搾取下に喘いでいる。
三、この不自然さがとりのぞかれない限り、南洋に楽土は築かれない。
という三つの点に気づかれたならば、私の目的は半ば達せられたと言っていい。しかして、更に青年諸君は、この不自然さ、傍若無人さを是正して、土人をして安んじて業にいそしましむる天職をになう者こそ、 わが大和民族であるとの大自覚に到達されたに相違ない。 この自覚こそ八紘一宇の精神に通じ、東亜共栄圏確立の輝しい理念に通ずる。私達は、この道に向に邁進せねばならぬ。
起て!青年諸君、そしてその若々しい眼で南方を凝視せよ。諸君の力によって南方の大地は新らしい時代の息吹きに甦生するであらう。
(同上書 p.141-142)
欧米は、南洋の国々の領土を奪い、原住民を奴隷のように働かせて、抵抗する者を弾圧し虐殺したのだが、日本人が南洋で行ったことは欧米の諸国とは大きく異なっている。「八紘一宇」の精神とは、「世界を一つの家のようにする」という意味であり、共存共栄の関係を持続できるように努めることであり、そのような関係を保ちあえる経済圏を「(大)東亜共栄圏」と呼んだのである。
戦後になって、わが国が「侵略国」であるかのように描かれることが多いのだが、大航海時代以降に欧米列強がアジアやアフリカの諸国に何をしてきたかを学べば、どちらが「侵略国」の名に値するかが誰でもわかるだろう。
GHQに焚書処分された柴田賢一の著作リスト
GHQ焚書リストかの中から、柴田賢一が著した本、および訳出した本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。
「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
| タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
| 印度洋 | 柴田賢一 | 興亜日本社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1876269 | 昭和18 | |
| 近代海軍と海戦 | 柴田賢一 | 博文館 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和15 | 世界大戦叢書. 第4 | |
| 第二次大戦と近代戦略 | 柴田賢一 | 博文館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1239677 | 昭和14 | 世界大戦叢書. 第1 |
| 独逸国防軍 | ヘルバート・ロジンスキー 柴田賢一 訳 | 青年書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1261124 | 昭和15 | |
| 南方発展の知識 | 柴田賢一 | 青年書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1042501 | 昭和17 | |
| 南洋侵略史 | 柴田賢一 | 興亜日本社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1276434 | 昭和17 | |
| 南洋の歴史と現実 | 柴田賢一 | 帝国産業法規社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1042288 | 昭和17 | |
| 南洋物語 | 柴田賢一 | 日本青年館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1276416 | 昭和16 | |
| 西の第一線 | 柴田賢一 | 竹村書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1131227 | 昭和18 | |
| 米英の東亜侵略年譜 | 柴田賢一 | 都書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1276432 | 昭和17 | 2012国書刊行会復刻 |
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